Episodio 7 聖体祭の行進(Takatsuki)

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 信長殿の許しも出たので、早速我われも旅自宅を始めた。信長殿と会ったのが月曜日で、その週の木曜日が聖体の祝日コルプス・クリスティだから、途中に都で一泊することも考えて、翌日の火曜日には出発しないと高槻での聖体の祝日コルプス・クリスティに間に合わない。

 なんとかばたばたと支度をして、ヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、そして私、さらにはヴァリニャーノ師の指名でロレンソ兄とその介護の同宿の若者の総勢六人で五月二十二日の早朝七時に、都に向かって馬で出発した。

 ちょうどいい船便がなかったが、早朝に出れば夕方までには都に着くというので馬で行くことになった。しかも、最近はすっかり日も長くなっている。けっこう遅くまで明るいので、暗くなるまでには着けそうだ。

 さらには信長殿が、安土から都への街道を整備してあるので、ぜひそれを我われに見てほしい旨のことも先日の会見の時に言っていたから、その意味もあって陸路にした。

 ヴァリニャーノ師の腰を気遣ってヴァリニャーノ師だけ輿レッティガにしようという話も出たが、ヴァリニャーノ師が輿レッティガだと外の景色がよく見えないと言いだし、さらには担ぎ手にかなりの人数が必要になるので馬を希望した。もう馬に乗れるくらいには腰も回復していると本人も言っていた。

アンカが痛くても輿レッティガに乗らない。さすがです」

 出発前に見送りに出たオルガンティーノ師が、しきりにそう言っていた。

「なぜです?」

 と、ヴァリニャーノ師が聞くと、オルガンティーノ師はしたり顔だった。

「日本語ではアンカ輿レッティガもどっちも“コシ”ですからねえ。コシが痛くてもコシには乗りません」

 そんなふうに持ち前のスケルツォ(ジョーク)を飛ばしてオルガンティーノ師は大笑いをし、皆もそれで盛り上がってなごやかな出発となった。ロレンソ兄に関しては馬への乗り降りの時は介護の同宿が手を貸し、そのまま同宿が馬子を務めていた。

 信長殿から聞いていた街道は確かに幅も広く、きれいに整備された道だった。ほぼ真っすぐで、どんな山道に入っても山自体がこの街道のために切り崩されていて坂になることはなく、どこまで行っても平らな道だった。

 驚いたことに、道の両側には延々と一定間隔で柳や松の木が街路樹として植えられている。そしてそのどの木にも、掃除のためのほうきがつるされていた。道が汚れていたら、気がついたものがさっと掃除ができるようになっている。だから、塵一つ落ちていない清潔な街道だった。

 その街路樹の下は小石が敷き詰められ、さながら貴人の屋敷の庭が街道に沿って延々と続いているようでもあった。ただ、街道自体はローマの街道のような石畳による舗装はされていなかった。

 そもそもローマの街道の石畳の道は馬車の通行のためだが、そういえば日本に来てから一度も馬車を見かけたことはなかった。今こうして馬には乗っているが、日本人にとってはその馬に車を引かせるという発想はないようだ。

 我われは快適にその街道を進み、所々での湖畔の景色などを楽しんだ。さらに街道には一定の間隔で休憩所となっている建物があり、食事や茶などを給してくれた。もちろん無料ただではないが、きわめて安価であった。

 街道はどこまでも清潔かつ安全であり、この街道沿いならたとえ夜になってもどこで野宿しても身に危険が及ぶことはないと、休憩所の老婆が笑いながら言っていた。かつてはこういった街道には所々に関所があって高い通行税を徴収されたのだが、それも信長殿によって今はすでに廃止されている。

 そして、午後の三時頃には琵琶湖ラーゴ・ビワから流れ出る流れの速い結構大きな川にかかる大きく立派な瀬田セタの橋を渡った。橋はまたすべて木材で造られていたが、真新しい感じで赤い欄干が美しかった。

 川の中に小さな島があって、幅も広くかなり長い大橋はまずその島で終わり、さらにその島から向こう岸まではもう一つの小橋がかかっていた。この橋自体は遥か太古からある橋らしいが、今我われが渡っている橋は信長殿がかけ直させたものであるという。

 そんなことを、ロレンソ兄が馬上から説明してくれた。島にはやはり休憩所があるが、その島ではこの橋をかけた信長殿に敬意を表してすべての通行人は乗り物から降りなければならないということで、我われも馬から降りた。

 ここは交通の要所であるだけに、戦争のたびにこの橋は焼かれ落ちていたのだそうだ。橋の上から見る湖がまた絶景だった。こんな素晴らしい景色を見ることのできないロレンソ兄は気の毒だなどと思うのは、健常者の思い上がりだろう。イルマンは目が見えないまでも、全身で気を感じ、景色を満喫しているに違いない。

 橋を渡って今度は湖を右に見て北上すると、間もなく大津オーツに着く。安土へ来た時に、船に乗った場所だ。

 さすがにこの先は逢坂山オーサカヤマを越えるので、道は平らというわけにはいかない。峠道を越え、それが下りになるといよいよ都だ。

 だが、それでも昔に比べたらほとんど平らに近いような坂道になっているのだという。これもロレンソ兄の話だが、かつてはこの山道はとても険しくて、馬で越えるのはかなりの困難があったのだという。それを信長殿が大工事を行って山を削り、峠道ではあるがなるべく平らになるようにしてくれたのだということだ。

 都を出て初めてここを通った時はそのようなことは知らないから、初めから自然とこういった道なのだとばかり思っていた。ただ、道の両脇が人工的に切り取った崖であることは気になってはいたが、そのわけが今になってやっとわかった。そして、こんなところにも信長殿の力と、そして民衆への思いやりがあふれているのを感じた。

「両脇に崖があるでしょう」

 ロレンソ兄に言われて我われが見上げると、道の右も左もかなりの高さのところに崖の頂上があった。ここは、本来ならばあれくらいの高さのある山なのだ。

「その崖の上に、旧道があるはずです。昔の人はあの上を通っていたのですね」

 ロレンソ兄も、見えない目で見上げていた。確かにこの崖の上と同じ高さの山を越える道は相当険しかったはずだ。馬に乗ったままというのは無理だっただろう。かつてはそうして苦労して越えたこの逢坂山を、今は信長殿のおかげで峠道ではあるけれども比較的楽に越えられるようになっている。

 それにしても、これだけ高い山を切り開いて平らな道を作るなど、ちょっとやそっとの土木工事ではない。かなりの日数と労力が必要なはずだ。だが、考えてみれば信長殿は今でこそ天下人――すなわち為政者ではあるが、本来は軍勢を動かす総大将だったのだ。戦争ともなると数万の軍勢をその指揮下で動かせるのだ。

 だからそれと同じくらいの数の人員を動かすなど容易なことで、人海戦術で行けばこのような土木工事はあっという間だったのかもしれない。それは、信長殿があの自然の山全体を石垣で固め、その上に巨大な天主閣が天に届けとばかりそびえる安土城を造り上げた人であることを考えたら十分に納得のいくことだった。

 その峠道の下り坂を下って少し開けた盆地を通過し、再び山に分け入って小さな峠道を登ってまた下っていくと、いよいよ都へと東から入ることになる。下り坂が緩やかなクルバ(カーブ)となって左へ折れると左右の山が切れ、坂の上から見る視界一面に都の風景が展開された。西の山までよく見える状態だ。


 やはり都は大きい。一つ一つは細かい木造の建造物が、それでもこんなに密集して縦と横の道の間に並んでいる。その姿が向こうの山の麓まで、盆地全体を覆い尽くしているのだ。

 日本で私が見た一番大きな町いや都会が都だろう。その巨大な町に、優雅で気品ある町全体の雰囲気が漂っている。安土城のような巨大な建造物はないが、安土とてその城下の町に関しては、さらには豊後の府内とてこんなに大きくはなかった。

 しかし信長殿はこの都ではなく、巨大な天主閣を持つ安土の地を本拠地としている。

 本来は皇帝の大臣ミニストロだったのだから、信長殿は常に都にいないといけなかったはずだ。だがすでに大臣ミニストロを辞している信長殿は都にいなくてもいいことになり、都から程よい距離の安土にあんな巨大な城を建てて住んでいる。このことが日本の皇帝と大臣ミニストロだった信長殿との微妙な関係が見て取れよう。

 天下人テンカビトとして権力は当然、信長殿の掌中にあるのは疑いない。だから信長殿の大臣ミニストロという地位も、ミカドの宮廷の中では特殊なものであるようだ。

 つまり、信長殿は宮廷組織の中に入り込んでいなかったことになる。むしろ家の格式は信長殿より上とかいっていたあの柳原という大納言の方こそ、正式な宮廷の中の組織員であるらしい。信長殿はいまや大臣も辞しているのだから、より自由に自分の権力を行使できるようになっている。

 それで、あれだけ巨大な城を作った人なのに、都では本能寺という寺の境内の一角を借りてこぢんまりとした屋敷しか建てていないのだ。これでなんとなく、この国の権力者の実像のほんの一部だけ見えたような気がした。


 ゆるやかな坂を下っていくとそこはもう平らな土地で、やがて大きな川を越えると、ようやくわれわれは再び都に足を踏み入れた。

 ひと月ぶりに都の教会にたどり着いた時は、さすがに少し暗くなり始めていた。とりあえずはしばらく休ませてもらってから、この教会にいたセスペデス師が我われの帰りを歓迎する食事をふるまってくれた。特にロレンソ兄はかつてはここに住んでいたというが、かなり久しぶりなのでセスペデス師も再会を大変喜んでいた様子だった。

 だが、一晩寝ただけで、明日は高槻に向かって我われはすぐに出発する。

 その夕食の席上でヴァリニャーノ師は、さらに今後の予定について我われに心の内を語った。

 まずはセスペデス師と都の教会にいた日本人の天草パウロ説教士に、美濃の岐阜に行ってもらいたい旨を告げた。セスペデス師は快諾で、パウロ兄も異存があるはずはなかった。そして私が気になっていた播磨だが、

「まずは高槻で聖体の祝日を終えた後に、ロレンソ兄イルマン・ロレンソに播磨に行ってもらいたいと思っていました。しかし何分の一人では、同宿の介添えをつけたとしても厳しいと思いますから」

 と、いうことだった。そして、ヴァリニャーノ師は私を見た。

「あなたも共に行ってください」

 もちろん断る理由などない。

「播磨には今、信長殿の家来ケライの中でも有力な羽柴筑前殿という殿がいます。まずはその殿と顔をつないでおくことが大事だと思います。そしてムロという港、その意味で室津ムロツといいますが、そこにはたくさんの信徒クリスティアーニがいます。また、あの都のドン・ジョアキムの次男がその室の港を管理しているはずです。ただ、彼はまだ信徒クリスティアーノではなく、司祭も修道士も室津にはいません。多くの信徒クリスティアーニが許しの秘跡と聖体拝領を望んでいるでしょう。また、すでに公教要理カテキズモも学び終えて、洗礼を待つだけの人びとも相当いるようです」

 播磨行きの趣旨は分かった。だがそれよりも私にとってはこの国に来てはじめてヴァリニャーノ師から離れての単独行動になるし、見ず知らずの土地に初めてヴァリニャーノ師と共にではなく訪れるのである。私の中に少なからぬ緊張が走っていた。

「どちらも遅くても七月には安土に戻ってきてください。安土で協議会がありますので」

 あの有馬で予備会議をし、臼杵で第一回目の協議会が行われたが、あの協議会の二回目の会議ということになる。

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