3
その日は全く風がない日で、本当ならば風待ちをしたいような日であったがそうも言っておられず、帆はおろして漕ぎ手が一斉に船を漕いで進んだ。そのお蔭で、帆に風を受けて進むよりはいくぶん早く船は進んだ。そして兵士たちは常に甲冑を着け、武装した状態で待機しつつの航海であった。だが気持ち的にはもはや毛利領ではないとのことで、我われが甲板に出て景色を見るのも解禁になった。
本当に島が多い海である。これからは四国ではなく四国の北の対岸の
だが、室津に近づくと急に西風が吹き始め、かなりの強い風となった。この波穏やかな瀬戸内の上でこれほどの順風が吹くことはめったいないという。
「この追い風を逃す手はねえぞよ。明日になりよったらもう吹かんかもしれん。今日このまんま行けば堺に着くのもかなり早くなるっちゃ」
ヴァリニャーノ師は不服そうだったが、彦左衛門にそう言われたら従うしかなかった。
「まあ、確かに今日は金曜日だし、万が一堺に着くのが枝の主日を過ぎてからだとまずい。急いだ方がいいかもしれない」
ヴァリニャーノ師は自分で自分に言い聞かせるようにそうつぶやき、結局は室津への寄港は急遽取りやめとなった。
帆いっぱいに風を受けて船はかなりの速さで進み、やがて夕刻前には目の前には陸地が横たわった。
もう堺なのかと、誰もが思った。いくつかの山が乗るその陸地が横たわって、そこで海が終わったいるからだ。瀬戸内の海を地中海に例えるなら、いよいよユダヤの地に着いたのかもしれない。
だが、我われの勘違いは初めてここに来た者ならだれでもあることのようで、フロイス師だけが笑っていた。
「あれは島ですよ、この瀬戸内の海でいちばん大きな島、
どう見ても行く手をふさぎ、海の終点を示すような大地が島なのだという。そう言われて見ると、向かって左手の方に陸の切れ目がある。
船はその方へと進む。やがてほんの狭い海峡を船が通過すると、その向こうにはまた海が広がっていた。そして船は島の向こうへと回り込み、最後の宿泊地となろう場所へと進んでいた。
船は最初に見えた位置からだと大きな島である
実は私は、なんとかある機会をうかがっていた。どうにかして彦左衛門をつかまえて、彼が信じる
「直接本人に聞いてみたらいい。我われに聞いても『悪魔崇拝だよ』としか言えないからね」
と、言って笑った。フロイス師も私に向かって、
「都へ行ったら、あなたにも日本のあらゆる宗派の教義について学んでもらいます。私たちもそうしました。
と、言っていた。それを聞いて、
「たしかに、それは大切なことです」
と、ヴァリニャーノ師もうなずいていた。
そこで翌朝、船に乗ってから帆柱の下あたりで出航の準備をしていた彦左衛門を捕まえた。
「船頭さん、今日はいよいよ堺なのですね」
「はい。あんたどうも、ご苦労やったね」
彦左衛門はよく日焼けした顔にしわを作って笑いながら、こちらを振り向いた。こんな明るくて陽気な、気さくな男も異教徒なのだ。こんなに近くで、しかも親しく、まるで長年の友人と接するかのように異教徒と話をするのは私は初めてであったし、何か不思議な感覚で、むしろ新鮮ですらあった。まだ司祭への召命を感じる以前の子供の頃は、自分が異教徒と会話をするなどという状況が自分の人生に訪れるなど夢にも思っていなかった。
「あ、ほんじゃあけん、遠い
「ところで、ちょっとお聞きしたいのですが」
「なんな?」
「あなたの信じる
最初はこれから何を聞かれるのかと少しだけ緊張していたような彦左衛門だったが、私の質問の内容を知ってまた顔をほころばせた。
「そげなこつかえ。
彦左衛門はにこにこしてそういうが、特有の用語が出てきてしまうとよく分からない。
「ゴクラク?」
「死んでから行く、素晴らしい世界ですよ」
我われのいう天国と同じなのだろうか。やはり、よく勉強してから聞いた方がよかったかもしれない。
「阿弥陀様にすがっち、その御名を『
そういえば以前に彦左衛門は「ナンマイダー、ナンマイダー」と唱えていたが、実際は「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と唱えていたのがそう聞こえたのだということをこの時初めて知った。
「阿弥陀様とは?」
「何でん永遠の命と無限の光ちう意味で、
「では、死んだあとに救われるためにだけ、その、ナム、ナム…」
「『
「ああ、その死んだあとのためにだけネンブツするのですか?」
「いや、また、その難しいこつは分からせんのですがね」
と、彦左衛門は笑って、
「ただ、口先だけで念仏を唱えればいいっちこつではなくて、報恩感謝の生活の現れが念仏なんやに。そうすれば、生きちょるうちに人生の目的は達せられる、救われるっちこつなんっち。ま、それ以上こまけえこつはちぃっと」
「はい、かたじけのうございます」
私は礼を言って司祭団の元へ戻った。
「どうです? 分かりましたか?」
フロイス師が薄ら笑いを浮かべて迎えてくれた。
「いや、分かったような分からないような」
私もはにかんで笑っていた。
「よく勉強することです。日本のあらゆる宗派の教えを知ることも、
そのフロイス師の言葉に、またもやヴァリニャーノ師はうなずいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます