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 すでに二月も中旬になり、この町はすっかり春めいて来ていた。司祭への叙階式は、最初は四月三日の復活祭の日と決まっていた。助祭への叙階式も復活祭であったことを考えると、私は不思議な因縁を感じないではいられなかった。

 そんなある日、私と、叙階予定の日本から戻ってきた助祭・修道士たちの合わせて六人が司教座に呼び出された。司教が出てこられるまでずいぶん待たされたが、ルッジェーリ師とともにお顔を見せたカルネイロ司教は深刻そうな様子で元気もないようだった。自然、我われの間にも緊張が走った。

「実は大変な問題が起こりましてな」

 緊張はさらに増した。司教も奥歯に物が挟まったようで言いづらそうだった。そのあとの少しの間が、どうにもじれったかった。

「実は」

 そのあとすぐに言葉が続くのだが、我われにはそれがすごく長い時間に感じられた。

「まずは叙階式に必要な司祭団の数が足りないのです」

 我われは皆、黙っていた。それにしたいして何かが言える立場ではない。だから、息をのんで司教の次の言葉を待った。助祭の叙階と違って、司祭の叙階では、司教のほかに司祭団からの按手が必要である。その司祭団の数は決まってはいなかったが、最低十人は必要とのことだった。

「今、マカオには司祭は九人しかおりません。まあ、これは前から分かっていたことですからマラッカから司祭を派遣してもらうように手を打ってはおきましたが、どうにも船の便が都合がつかないとのことで、復活祭には間に合いそうもないのです」

 また我われは、黙って聞いているしかなかった。

「だが実は、もっと困ったことが起こったのです」

 さらにまた我われは、息をのんだ。

「実は…昨夜この司教座に賊が入って、聖具やポルトガル通貨などが根こそぎ盗み出されてしまいまして、その中には聖香油となるべきオリーブ油も含まれていたのです」

 はっと顔を挙げて、我われは互いにその顔を見合わせた。

「オリーブ油?」

 アルメイダけいが眉間にしわを寄せて聞き返した。司教はゆっくりとうなずいた。

「ほんの少しでも残ってはいないのですか?」

「全部です。一瓶もありません」

 人々の間から、ため息が漏れた。

 私は思い切って顔を挙げた。

「その賊は…」

 そこまで言ってから、私は失言を悔いた。司教は黙って首を横に振っておられる。その横でルッジェーリ師が口を開いた。

「すぐにカピタン・モールに連絡して賊を捜索してもらおうと思いましたが…」

 それから、師は司教を横目で見た。司教はうなずいた。

「キリストは仰せになりました。『汝を訴えて下着を取らんとする者には、上着をも取らせよ』と」

 言われるまでもない。ここで賊を責め、賊を裁いてもどうにでもなるものではない。だが、現実問題は賊云々よりも今ここにオリーブ油が一滴もないという事実である。そのことを思うとまた緊張が走る。

 聖香油は司祭の叙階式にはなくてはならないもので、司教と司祭団の按手と共に司教の手によって叙階を受ける者に油が塗られる。その油が聖香油であるが、もとはオリーブ油を聖別したものだ。ミサで拝領するキリストの御体おんからだ御血おんちの元はパンとぶどう酒でなくてはならないように、聖香油の元もオリーブ油でなくてはならない。

「オリーブ油を他から入手することはできないのですか?」

 と、私は恐る恐る尋ねてみた。司教はまた首を横に振った。

「パンとぶどう酒ならばこの国にもありますが、オリーブ油はエウローパからもたらされない限り、この国では手に入りません」

 我われが食用としているパンも故国よりもたらされてはいるが、ミサで使う御聖体となるパン、すなわち酵母を入れないホスチアならこの国でも作れる。そもそもインジャでもこのマカオを含むチーナ大陸でも、酵母を入れないパンは日常の食事で普通に食べられているからかえって驚いたものだった。

 我われにとって酵母を入れないパンはミサのホスチアか、古くはユダヤの民が過越の晩餐に食したくらいだったからだ。さらにぶどう酒も、このチーナでは普通に安く売られている。もっとも、我われの国のぶどう酒に比べると、かなり甘みがきつい。

 だが、オリーブ油は一切ない。かといって聖香油を、この国の人びとが食用に普通に使っている動物性のラルドラードごまセザモの油で代用するわけにもいかない。

「だめでもともとと思ってカピタン・モールにも聞いてみたが、その邸宅にもオリーブ油は一切ないということでした。そうなるとまたマラッカから取り寄せるしかない。でも、マラッカから司祭を招こうとしてもまだ到着していないのに、今からまたオリーブ油を頼んでも司祭の到着と行き違いになる恐れもあるし、そうそう船便もありませんからね。それに、マラッカには司教がいないので、果たしてオリーブ油があるかどうか……。いや、申し訳ない」

 なんと司教の方から我われに謝罪するので、むしろ我われは慌ててしまった。

「司教様」、「司教様、そんな」、「司教様!」、

 我われ助祭団は逆に恐縮して口々に司教に目を向けた。

「あのう」

 また、恐る恐る私が顔を挙げた。

「フィリピナスのマニラの方が、マラッカより近いのでは? そこにも我らイエズス会の司教座がありますよね」

 その私の発言を、アルメイダけいが手で制した。

「同じイエズス会があるとはいっても、マニラはイスパニアの領土ですよ。まあ、ここにイスパニア人のカリオン兄イルマン・カリオンラグーナ兄イルマン・ラグーナもおられるからなんだけれど、ポルトガル王の付託を受けて我われはこのポルトガル人が居住するマカオで福音宣教している以上、イスパニアの領土からものを取り寄せることは憚られますな、政治的に」

 その「政治的」という言葉に、私にはほんの少し違和感を覚えた。

「マカオとマニラには航路もありません」

 ポルトガルとイスパニアの相克は、こんなところでも変な形で顔を出すものだ。福音宣教に意識を集中するあまり、私はそのへんの事情には疎いところがあった…この頃は。

 その時、司教が音を立てて椅子から立ち上がった。皆、びくっとした感じで一斉に司教を見た。司教は再び、目を伏せてうつむいた。

「この期に及んでは、皆さん方に次のいずれかの道を選んで頂くよう、お願いするしかありません」

 また、皆が一斉に立ち上がって、司教に顔を挙げてもらった。老司教は立ったまま話を続けたので、皆もそのままで聞いていた。

「状況として、司祭の到着が遅れるだけならば、叙階式を延期すれば済む話です。でもオリーブ油が復活祭に間に合わなければ、早くても一年後。万が一ゴアから取り寄せるなどということになればいつ船が来るかわからない状況ですから、数年後になってしまいます。そこで」

 六人とも一斉に息をのんだ。早くても一年後というのは、聖香油は司教の手によって復活祭前の聖木曜日の午前中のミサで聖別されて聖香油となるからである。つまり、一年に一度しか聖香油の聖別はできないのだ。オリーブ油の到着が半日遅れて聖木曜日の午後に届いたとしたら、叙階式は一年後までできない。

「まずはこのマカオでオリーブ油の到着をお待ち頂くか、あるいはゴアまで行って叙階式に臨むか、もう一つはこのまま日本にお戻り頂くか」

 我われはどよめいた。

「今、日本では」

 と、口を開いたのは、アルメイダけいほどではないにしろかなり年長のサンチェスけいだった。

「司祭がとても不足しているのです。だから我われに一刻も早く叙階させようというのが巡察師ヴィジタドールのお心なんです」

「そうですね。このまま日本に戻ったら、巡察師ヴィジタドールはがっかりされるでしょう」

 と、若いカリオンけいも言葉を継いだ。

「かといってゴアまで行って戻ってきたりしたら、下手をすれば三年くらいかかってしまうかもしれない」

 ラグーナけいがそうつぶやいた時、アルメイダけいはついに嗚咽を漏らし始めた。それを見て、私はふと我に返った。衝撃のあまり、まるで人ごとのように他の助祭たちの話を耳に入れていた自分だったのだが、これは私にとっても大きな問題なのであった。

 彼らは「日本に戻る」という表現だが、私にとってはこれから「日本へ行く」のである。彼らは司祭への叙階のためにわざわざマカオまで来たのだから、ここで叙階を受けずに日本に戻れば手ぶらで帰ることになる。ましてや三十年の歳月を経てやっとの叙階ということになったアルメイダけいにとっては、その衝撃は本来なら嗚咽では済まないところであろう。今は司教の前だから、遠慮しているのだ。

 だが、私にとっても助祭のままで日本へ行ったのなら、司教のいない日本では叙階されることは不可能だ。かといってやっとの思いでゴアからここにたどり着いたばかりの私が、またゴアへ逆戻りというのも耐えきれない話だった。

 そんな時、涙をぬぐって、アルメイダけいが皆に呼び掛けた。

「待とうではありませんか、この地で。すべてを『天主様デウス』のみ意にお任せして、あるがまま、なすがままに従順にそのみ意に従いましょう」

 誰も異を挟む者はいなかった。それを見ていた司教の目にも、うっすらと涙が浮かんでいるのが見て取れた。

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