第9章


 辺りは、冷え切り、増々夜めき、そして静寂としていた。一つ通路を右に曲がれば、もはや大通りの喧騒は届かない。明りは皆無。人の気配もない。いたる所の壁に設置された室外機が耳障りな低音と共に侘しい気温をよりいっそう凍てつかせ、紅村の身体の芯を無情なまでに冷やした。薄汚れた壁には自己顕示欲の塊のようなパステル調の禿た落書き。狭い敷地を区切るフェンスは錆び付き少しの力で歪んでしまうほどに意味を成してはいない。

 前方。T字路で、陰が蠢く。

「■■■」

 一瞬にして赤い熱波に包まれ、円状の焦げ跡が地面へと刻まれた。遅い歩調で歩み寄り、左右を確認する。右の通路の奥、一匹の猫がフェンスの上でしっぽを振り、闇に浮かぶ黄色い眼で紅村を見つめていた。愛おしさを抱き躊躇したが、猫はぴょんと跳んでどこかへと逃げていった。

 雑居ビルの上から不適に笑う草子の声が聞こえる、ような気がした。気がしてしまったからには見上げずには居られなかった。

 排気ガスで汚れたガスっぽい空があるだけで、何も見えない、何も聞こえない、誰もいない。

 背後で、かすかに、走る、足音がした。

 踵を返してT字路の左通路を睨む。小柄な人影が消える瞬間だけ捉える事ができた。

 紅村は一つ、大きく深呼吸をし、今にも吐きたい言葉を飲み込む。冷静になるよう逸る気持ちを押しとどめ、再び慎重に歩を進める。

 入り組んだ迷路のような路地を、どこからか監視されているような不快感に耐えながら、不確かな気配を頼りに外敵を追う。

 ここで逃げたとしても草子は必ずやってくる。もし、少しでも路地を引き返す素振りを見せたならば、背後から喉物をかき切られる。そんな予感が紅村から逃亡という選択肢を奪った。しばらくすると通路は左に折れて、すぐその先はフェンスで行き止まりとなっていた。右手にはビルの入り口と郵便受け。左手には小さな窓とガスボンベが二つ。奥のフェンスの先には道はなく、周囲の工場や民家から流れる排水を受け止める為に作られた腐敗臭漂う緑色の人工運河が流れているだけ。L字の角で川を見据えながら立ち止まる。頭上から覚えのある挑発的な生暖かい視線を感じ、振り返る。

 コンクリートの壁面。三階にある窓の柵。器用に両手でしがみ付き、カエルのようなポーズで草子が壁に張り付いていた。表情には締りがなく、ヘラヘラと紅村の出方を伺っているようだった。

「■■■■■!」

 咄嗟に叫ぶ。正真正銘の驚嘆であったがしかし、それをも爪先を掠める事すら出来ず、まさにカエルがジャンプするが如く壁を蹴ってひらりと回転しながら紅村の後ろへと着地する。叫びで消費した酸素を補填しながらも急いて身を翻す。が、発言が舌の根まで出かかった紅村は文字通りの意味で絶句せずには居られなかった。

「これなぁんだ?」

 ガスボンベである。草子は着地した直後、壁に括りつけられたそれらを強引に引っぺがして両脇に抱えると再び紅村を見据えたのだった。時間にして半瞬もない。また、ガスボンベの大きさは草子の身の丈よりも大きく、一つ当たりの重量はゆうに五〇キロを超えているだろう。

「さぁ、どうするよ! おい!」

 両者の距離は数十歩も開いておらず、草子が持つボンベの口から激しくガスが漏れ出している。この距離で紅村が発言し、草子を焼こうものなら間違いなくその爆発は彼女まで到達するだろう。

 殺されるか。心中か。言外に匂わすその二択。

 しかし、紅村が絶句したのは、草子の心中行為ではなく、その狂気染みた身体能力にだった。だからがゆえに、戸惑いはしたものの彼女は迷わなかった。

 そう、迷わずに発言した。そうしなければ自分が殺されるかもしれないという圧倒的かつ一方的な暴力から逃げる為に。

「■■■■」

「お……?」

 空中に飛散したプロパンガスが、紅村の言葉の振動により着火。まるで生命を宿した雲のように広がってはうねり、うねってはトグロを巻いてボンベの口金へと急速に雪崩込む。

 ボンベの分厚い灰色の外装が、内部の高温と高圧を抑えきれずにほの赤く膨らむ。ついには亀裂が走り轟音と共に爆発した。

 朱色の炎が二人の身体をいとも容易く包み、周囲一帯を灼熱で飲み込む。

 避ける余裕も、防ぐ時間もありはしない。

 爆風に乗ってボンベの鉄片が辺りに突き刺さる。ビルのコンクリートは砕かれ、露わになった鉄筋は溶かされ、フェンスは吹き飛ばされ、その勢いは水面まで広がった。なおも衰えぬ炎は逆側の細い路地を這うよう広がり、ついには、ビルの屋上を越え数十メートル以上の巨大な火柱を立てて、やっと黒煙へと変わった。

 一瞬の出来事だった。

 砕け散った壁がボロボロと辺りに散らばり、草子が立っていたであろうアスファルトの地面はひどく抉られていた。

「……………………」

 気怠そうに立ち上がると声も出さずに嘲笑する。

 息をすればいたく喉が渇き、爆風に蝕まれて火照った身体を冷やすように川辺へと向かう。湿気を含んだ空気が肌をなでるたび、ゾクゾクと寒気にも似た心地良さが背筋を這った。

 その、冷たい風が、平静を失っていた紅村に自制心を喚起させる。汗ばんだ額を煤けたブレザーで拭い、荒らいだ呼吸を落ち着かせる。

 これだけの騒ぎを起こしては、人が駆け付けるのは時間の問題、逃げなければ、と。

 水面に浮かぶ涼しげな波紋に背を向け、来た路地へと歩先を返す。

 彼女――紅村明里は、確かに爆発に巻き込まれた。紅村が咄嗟にその行動が出来たのはほとんど無意識と言っていい。逼迫感がゆえに閃いた唯一の可能性だった。ひょっとしたら、爆風も燃やせるかもしれない。

 そして寸前に悲鳴を上げ、爆風と熱波とを己のその発言で焼き伏せたのだった。

 しかし無傷とはいかなかった。タイツは擦り傷と火傷で所々が破け、栗色のパーマロングは先端が焦げてショートカットっぽくなっていた。

「……」

 毛先を弄りながら、明日の放課後、美容室にいこう、と思った矢先、紅村は倒れた。

 いや、倒された。

「つっかまぁぁぁえたあ!」

 悪魔めいた表情で、草子は笑っていた。無理やり後ろから襟元を引っ張り仰向けに紅村を地に伏すと腹の上に乗っかり素早く彼女の口を左手で塞ぐ。

「わりぃがなぁ、オレは死に嫌われてるんでんだよ! だから、これぐらいじゃぁ死なねぇーんだよ。バーカ!」

 あまりの唐突さに驚きを通り越し混乱している紅村を草子は愉快げに見下ろす。その混乱が覚めぬ間に、右手で拳を作ると振りかざし、口を塞いだ左手を瞬時に逸らして、悲鳴の元凶――彼女の口の中にねじ込んだ。

「――――ッ!」

 紅村の身体がビクリと波打つ。石のように硬い手が、口内で細められ喉の奥深くまで押し込まれていく。草子の手首が喉仏に引っかかり、侵入を阻止すべく吐き気をもよおしたが、その出口は完全に塞がれ苦しさに、気泡立った唾液が紅村の口から溢れる。

 さらにビクリビクリと断続的に痙攣し、数秒もすると彼女は動かなくなった。



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