第8章


 瞬時に飛び退き、火の点いた靴先を乱暴に振り払って消す草子。

 驚嘆と歓喜、そして期待。

 眼前で、小刻みに震えながら起き上がろうとしている紅村への執拗な好奇心に草子の口元が吊り上る。

「フ、フハハハ……」

 見据えた先は、紅村であって紅村ではない。彼女の口からとうとうと立ち上る雲のようなソレだった。酸化しきった血の如く赤黒く、風もないのに揺らめきながら、雲のように天上へ流れていくソレ。草子にしか視えず、草子はソレを悲鳴と呼んでいた。

 彼が初めて悲鳴を見たのは十一歳の冬だった。

 薬物過剰摂取自殺による一ヶ月間の昏睡状態を抜けて七日目。後遺症で一時的な記憶障害を患い、ホルモンバランスの異常から食事はとれず、ひたすら点滴のみという抜け殻のような入院生活を送っていた。

 幸い自分が何者であるかは覚えていた。けれど、なぜ自分がここいるのかが思い出せなかった。自殺未遂の経緯も昏睡状態の事も、何一つ思い起こせなかった。しかし、だからと言って悩む事もなかった。記憶していないからこそ、ただ、染み一つない潔癖なベッドの上で、警察や家族の言う事柄を肯定するだけで良かった。

 あるのは、何かを失った気持ちの良い虚無感と、自殺し損ねた居心地の悪い虚脱感だけ。

 入院している私立病院の四階の自室からレース越しに空寂しい中庭へと目を落とした時の事だった。

 秋を名残惜しむ赤茶けた落ち葉が北風に舞い上げられ、いよいよ寒気の本番を予見させる澄んだ青空の下、自然物とは明らかに異なる一筋の黒いソレを目撃した。ソレは、糸のようにたゆたいながらはるか上空まで伸びていた。どこかで誰かが古タイヤでも燃しているのかと思いもしたがしかし、ソレはベンチへと腰をもたれた一人の老爺の口から確かに現れていた。驚き注視するも瞬きした次の時にはもう細々となり、前触れもなくふつとソレは途切れた。

 意味が分からなった。最初はまったくもって意味が分からなかった。

 そして翌日。

 ナースステーションで白い覆面をかぶり包丁を片手を持った男が暴れるという事件が起きた。

 声明は不明。要求も不明。行動目的から犯行に至る事情など全てが今をもっても明らかになってはいない。その原因は、犯人に身寄りがおらず統合失調症と痴呆症を併発していた病歴から一方的な偏見で警察に猟奇犯罪と断定された事も大きいが、なによりも第一は犯行中の不慮で犯人が死亡してしまったからに他ならない。

 ケガ人はでなかった。いや、一人を除いては。

 不慮とは、現場に草子が居合わせた事に起因するだろう。

 穏やかな病院の空気を裂く看護師の悲鳴は、まだ昏睡覚めあらぬ頭で、無気力にロビーでうな垂れている草子にも事の逼迫感を伝えるには十分だった。頭を上げ視線を向ける。受付の奥で発狂した男がガタガタと小刻みに震えながら今にも誰かを刺し殺そうとばかりに刃先を辺り構わずに向け、野太い濁声で言葉になっていない奇声を発していたーー口から黒い煙を吐きながら。

 ほとんど反射的だった。

 座っていた椅子を蹴飛ばし、逃げ惑う人の流れに逆らって走り、一足で受付のカウンターに飛び乗って、犯人の腹部へと背中から突進した。

 犯人は転倒し、後頭部を床に強く打ちつけて死亡。持っていた包丁は草子の左の太ももから脇腹付近までを鋭利に切り裂いた。

 痛みを感じるよりも先に、犯人の覆面を外す。

 昨日、中庭で見かけた老爺だった。

 無性に笑いが込み上げていた。人を殺めてしまった事でもなければ、予想が的中した事でもない。自分が、人とは違う異常なモノになってしまったのだという自負に無性に笑えて仕方がなかった。

 断片的に蘇る記憶。

 自分が世の中やら世界やら社会やらの普通すぎる全てに諦観して自殺を図ったのだと。昏睡中の夢の中で得体のしれない死と出会い、それに拒絶されたのだと。

 草子の傷は、警察が駆け付けた頃には完治していた。

 ほどなくして草子は退院し、煙を吐いている人間を探し歩くようになった。さもありなん。きっとそこには今まで見知った退屈な世界とは違う何らかの異常な現象が在るのだから。その異常がまるで助けや仲間を求めるかのように狼煙を上げて居場所を教えてくれる様は、もはや悲鳴以外の何物でもない、と彼は直感しそう名付けた。もしかすると、草子自身が退屈さから逃避したいがあまりに自分を投影した意味での悲鳴、なのかもしれないが、どう認識するかは彼自身の在り方の問題だった。

 ゆ。

 え。

 に。

 首だけを糸で吊りあげられた操り人形のように両腕をだらりとぶら下げ内股ぎみに起き上がった紅村を、満足げに草子は見下げていた。

 茶髪で隠れた口が浅く開く。赤い悲鳴が静かに揺らぐ。

 草子の背筋を這う寒気とは逆に、空気がわずかな熱気を帯びた。それを目の端で鋭敏に察知し、路地裏のさらなる暗部へと転がり込むように身を丸めて跳ぶ。

「■■」

 途端、鞭で叩いたような甲高い音が響く。草子の跳躍と紅村の発言は、ほぼ同時だった。

 一回二回と横転し、両足で砂埃を上げながらブレーキを効かせ姿勢を整える草子。さっきまで立っていた場所が、地面と壁面が円状に黒く変色し蒸気を放っていた。

「ハハ、面白れぇ、やっとやる気になったのかよ」

 その問い掛けに、紅村はゆっくりと頭だけを向け、何も答えはしなかった。どの道、答えたとしても草子に彼女の言葉を聞き取る事は出来なかったが。彼女の言葉は、その発声の振動により接した物質を発火させる。それならば、と草子は強く踏み込み紅村目掛けて疾走した。理屈は簡単だった。声を上げるより早く、相手の喉の機能を停止させれば事は終わる。二人の距離は五メートル強、この間を瞬息で縮め首ごと喉仏を握り潰す。

「■■。■■。■■■■」

 乾いた銃声のような鋭い音が連続で唸る。

 草子は寸前の所で後退し、左右にステップしてそれを凌ぐ。壁際のエアコンの室外機を踏み台にし、雨樋や窓の枠や換気扇を駆使して足軽に壁を登って行った。

「へぇ! 意外とやるじゃん! でも、見つからなければどうってことねぇんだよ。フハハハハ!」

 そういうと、店と店との壁を使い巧みに飛び跳ねながら月のない夜空へと姿をくらました。品の悪い笑い声が、街灯のない裏路地の彼方から木霊すのを聞き、紅村は音もなくその方角へ歩き出す。


 

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