第7章

 

 商店街は、正午の明るさに包まれていた。

 アーチ型をした半透明なアクリルの天井、その上の空は冷たく沈んだ夜にも関わらず、過剰なまでに輝く冷めた蛍光灯と喧騒とが時間の感覚を鈍らせる。

 パステル調に彩られた店々、通りの左右を城壁のように囲い、わずかな隙間からは湿っぽい闇が見て取れる。

 幅の広い歩道、とうとうと流れる人々。

 それらをせき止める岩のように、紅村はゆらりと立ち塞がっていた。

 商店街に至るまでの記憶はまったくなかった。どうして自分がここにいるのか、どうして自分がここにいなければならないのか、何一つ判らなかった。

 厳しい瞳で歩道の奥底を見据える。

 無邪気に笑う少女、温厚な雰囲気をした老人、端正なスーツを着こなした青年、携帯を片手に騒ぐ女子たち。

 どれに眼を向けても、何の感情も湧いてこない。

 彼ら彼女らが歩む商店街と、自身が佇む商店街。確かに、色形に相違はない同じ空間、同じ世界。だけれどまるで、自分だけがそこから乖離しているかのような漠然とした独立感が心を支配する。

 周囲の無関心さと今し方の暴力が交錯する。

 震える指を喉元にやれば、マフラーはなく、べっとりと赤々とした鮮血が爪に付く。

 暴行の証左を得るも、どこか実感に欠けた。

「――――!」

 流れの合間に、草子の影が、見えた、気がした。

 胸を刺す鮮明な恐怖に再び走り出す。

 辺りに助けを求める事など考えもしなかった。どうという事はない。無駄だと言う事を本能的に知ってしまったからだ。

 すれ違い様に浴びる視線は、無慈悲そのモノ。

 首に引っかき傷を作り、半狂乱の内に少女が走っていると言うのに気を留める者は皆無だった。いや、無関心ならまだしも、少し肩が触れただけで舌打ちをして陰鬱な視線を投げつける者までいる始末。まるで腫物扱い。何を言ってもまともに取り合ってもらう事すら望めはしない。

 しかし躊躇をする余裕もなく、ひた走るしかなかった。走る度に人にぶつかり、ぶつかる度に暗く淀んだ瞳が紅村を睨む。

 孤独が、恐怖が、不安が――――去来しては心が苦しく景色がぼやける。

 徐々に人々の形が綻び、真っ黒いタールへと溶けていく。艶やかだった商店街の色がタールに触れたそばから蝕まれ、ボロボロと壁面を這い上がっては、瞬く間に天井をも浸食する。照明は火花を散らして瞬断を繰り返し、唐突に落ちる。

 腐臭と粘度をもった害意の河を逆行している心地がした。

 もがけばもがくほどに溺れ、溺れれば溺れるほどに、重たくへばり付いては、手足が囚われていく。

 どこからともなく、せせら笑う声が聞こえた。

 胃がしぼみ、内臓が上から引っ張られるような強烈な痛みが紅村を襲う。

 塞がりそうな喉、荒らぐ息、口の中に拡がる苦みと唾液。

 荒っぽい動作で路地裏へと駆けこむ。

「――ッ! ―――――ッ!」

 倒れるように膝を付き、ほの暗いゴミ捨て場の横で嘔吐した。

昼から何も口にしていないというのに、ググッと腸が萎み、抹茶色の水っぽい吐瀉物が地面へと零れた。ゴミの饐えた悪臭と体内から湧き上がる汚臭。それらが混ざりあい、粘り気を持って鼻腔を刺す。さらに吐気がせり上げていた。

「ッ! ――ッ!」

 全てを吐き終え反吐も出なくなった頃には、涙と鼻水が同時に漏れて、虚ろな表情をしていた。

 それも、刹那。

 地面に伸びる不吉な人影に、息が止まる。

 滴る唾液を拭いもせず、見上げたすぐ前に、草子が立っていた。

 所々に焼け跡のある制服、火傷にまみれた赤い皮膚、上半身は闇に隠れ、その奥の瞳が不適な青い光を放つ。

 唖然。

 もはや、逃げる事も立つ事も、声を発する事すらも忘れた。

「痛かったなぁあ、さっきのは。危うく焼き殺されちゃうとこだったぜえ、で、アレでテメェはどうしてきたんだ、アレでテメェはどうしようってんだ、エエ? ほら、やってみろよ、もうイッペンよう!」

 狂気に満ちた笑みで、おもむろに紅村の顔面を殴りつける。

「ハッハッハ! 立ち上がって反撃してこいよ。声を張り上げ燃やして見ろよ。ほらほらほらほらほらあああ!」

 わずかに残った力で携帯を取り出す。『やめて』と、そんな短い文章を打つ時間さえもなく、開くよりも早く蹴り飛ばされた。

 堅いコンクリートの壁に叩きつけられ、ぐったりと地面へひれ伏した。抵抗が無意味だと理解して、生きる事の億劫さを知る。真っ二つに割れた携帯を眺めながら、そして眠るように紅村は目蓋を下ろした。



――  『自由に構えるべき  きっとその方が愉快だよ』  ――



 どうして、

 どうして私がコイツから逃げなければならないのだろう?

 どうして私がこんな奴なんかに乱暴されているのだろう?

 

 紅村がその問いに辿りつくのは決して早くはなかった。早くなかったが故に、今までの理不尽が余計に憎らしく思えてならなかった。

 二の腕を踏まれる痛みに疑問。脇腹を蹴られる苦しみに疑問。

 意を決して目蓋を持ち上げた時、眼の前には草子の蹴り足があった。

 ほんの一瞬。意味もなく呟く。

「■■」

 それだけで草子のローファーが赤く燃え上がった。

 

 

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