第6章
夕凪を終えた街。辺りは暗く、シンと冷気の満ちる頃。
古びた街灯の下にひっそりと、置き去りにされた子犬が鳴いていた。
「クゥ―ン…………クゥ―ン…………」
耳を伏せ、喉を絞って、懸命に。心身を蝕む寒さに震えを止められず、受け止めきれずにただ鳴き続ける。
「クゥ――ン………」
閑静な住宅地に響く、頼りのない鳴き声。
声も声なら住まう在処もまた頼りがなく、小包ほどの浅いダンボールに白く清潔なタオルが引かれただけ。中に置き手紙が一枚。
『誰かこの子を拾ってください』
ノートの端を丁寧に切って作られたであろうその手紙は、可愛らしい模様と色彩をしていた。書かれた字は、お世辞にも綺麗とは言えないが、それがゆえに琴線に触れる。
紅村明里がそうであるように。
ぼうと歩いていた彼女がぴたりと止まる。
近寄ってはしゃがみ込み、微笑んでは手を伸ばす。スポットライトのような街灯の明かりに照らされ、感慨深げに顎の下をくすぐる。
「クゥン、クゥン」
黒い円らな瞳を細め、尻尾を左右に振る子犬。
「………………」
どうしても浮かんでくる言葉を紅村は飲み込む。飲み込んだ上で、優しく優しく子犬を抱きすくめた。
胸の中で震える無垢な温もりに、同情せずにはいられなかった。
割れ物に触れるような繊細な手付きで子犬の脇を掴み、頭上の光の中へと掲げる。
紅村明里は、静かに呼吸する。
浅く口を開き、舌を下げては喉を拡げる。口腔内に冷たさが沁みる。気道から肺、肺から肺胞へと外気を深く吸い上げる。
血中に酸素が満ち、身体の芯が熱くなるのを感じた。
正確にそれが酸素の所為であるかどうかは紅村には判らない。そもそも血管内に酸素を感知する感覚があるとも思えない。
しかし、それでも腹の底が熱くなり、滾るナニカを覚えずにはいられなかった。
紅村明里は、静かに呼吸する。
酸素の充填。
呼吸とは、本来自身の生命活動を維持する為に必要な行為だが、今彼女がしているそれは、明らかに目的が異なっていた。
生きる為ではない。
生きる為の行動ではあるが、必須ではない。
湧きあがる熱。上昇する体温。
紅村明里は、静かに呼吸する。
燃やし、焼き、焦がす。
彼女は、愛おしさを発言する為の呼吸を。
「ハハ。匂う、匂うぜえ。やっと会えたな放火魔さんよお」
悪魔めいた声に、咄嗟に子犬を落として身を翻した。
夜の黒幕が掛かった道端に、悠然と佇む少年が一人。灰色の目髪に女子と見違えるほど小柄で整った顔付き。紅村は少年の名を知っていた。知ったのは今日の夕方の事だが、強烈に印象の悪い真野とセットで彼も記憶していた。
名は草子。真野にそう呼ばれていた。
ふいに、眼鏡越しに見下した瞳を浮べて微笑む真野の顔が脳裏を掠め、悪寒が差した。
「続けてもいいんだぜ? オレは止めやしない」
鈍い眼光を放ち、少年は一歩、紅村に詰め寄る。
「止めやしないけどな、その前のお前の異常さを見せてもらうぜ」
重たい口調に威圧され、逃げようとした紅村の身体が委縮する。その隙にさらに歩を進める少年。
紅村は決して伸長の低い女子ではなかった。一六〇弱と平均かつ目の前にいる草子よりも数十センチは高い。にも関わらず、草子を自分よりも遥かに強大と感じずにはいられなかった。
「オレはもしかしたらお前を死なせてしまうかもしれない。けど、そん時は許せ」
眼に映る対比ではない。もとより紅村の眼球が捉えられるモノは健常者のそれと何ら変わりはない。もし変わりがあるとするならば、自らの発言が視える事だろうか。
「お前だって散々動物焼き殺して来たんだからなあ」
強大だと認識してしまったのは、趣に他ならなかった。
張り詰めた空気。凍えるほど寒いのに額にじっとりと嫌な汗が滲む。
押し迫る焦燥感。息が上がり、思考が急速に回転すると言うのに全身が錆びついたかのように動かせない。まるでガラス瓶に封じ込められ暗い大海原に捨てられた心地がした。
草子の細い腕がナイフのような鋭さを持って胸に突き刺さる。
その、あまりにも非現実的すぎる想像が容易に描け、紅村は固唾を飲んだ。だが、それはこのまま動かなくても同じだろう。どうせ同じならば、と覚悟を決めて鞭を打つ。
草子はもう、半歩で手の届く距離にまで詰めていた。
「だからさ。殺されても文句はねぇよな、オイ!」
怒声と共に踏み込む草子。右手を硬く握り締め、拳を作っては瞬きするよりも早く放つ。
身が竦む緊張に、紅村の意識は加速した。
全ての色が一瞬にして消え褪せた黒白の視界。
全ての音が間延びして遠のき沈む怠惰な感覚。
時間が揺れて、襲い来る草子の動作が驚異的なまでに遅緩して見えた。
その隙を、紅村は見逃さなかった。
姿勢を落とし、草子の踏み足を思い切り蹴り飛ばす。拳の力が行き場を失い、斜めにバランスを崩す小柄な少年。地面に倒れた事すら確認せずに紅村は反転し、全力で走り出した。
「――――!!」
身に起こった異変に、驚愕したのは紅村の方だった。逃げ出したはずの自分の身体がまたも硬直したからだ。
「ナニすんだコラ。イテぇじゃねぇかよ。誰が逃げてイイって言った、ァアおい?」
首に圧し掛かる理不尽な絞め付け。紅村のマフラーを強引にわし掴み、少年は膝を付いた。低い位置から声を凄め、力任せにマフラーを手繰り寄せる。凌辱的な力に彼女の細い首がキリリと軋んだ。
あと数分もすれば窒息死する事実に、紅村の顔が醜く歪む。必死にマフラーを解こうとしたが、両端をがっちりと握られ、振り解けず、虚しく口元から唾液が漏れる。頸椎が圧され、声帯が潰れる。表情からは徐々に血の気が褪せ、思考が憔悴し始めた。ザザーと点滅する砂嵐のような光の粒が視界を埋める。見開き充血した眼で宙へと手を伸ばした。シンと静まりかえった界隈に、応える者は誰もいない。
絶望あるいは死。
その、耐えがたい二言を実感せずにはいられない。
だが。
いや、だからこそ、紅村は合理的に行動できたと言える。
生存する為の、もっとも確実な選択を。
身体の奥で得体無い感情が燃え上がる。ただ生きたいという想いが噴き上がる。爪を喉元に深く突き立て、無理やりにマフラーと首との間に両手を忍び込ませた。生皮が抉れ、指先が赤く滲む。臙脂色の毛糸が一段階濃い色に染まる。その激痛に涙が漏れる、が止めない。喘ぎながらも一呼吸、渾身の力で酸素を求め、
「■■■■■■■■■■■■■!!」
途端、紅村を起点として闇夜に重たい熱風が爆ぜる。強烈な波及に草子の身体はあまりに小さく、成す術なしに空中へと吹き飛んだ。波及に飲まれた瞬間、裾や袖が勢いよく発火し、たちまち草子の全身が炎に包まれる。落下した時にはすでに、皮膚は痛々しく爛れていた。
アスファルトの地表に点在する真新しい火の粉。溶け曲がったガードレール。壊れた街灯がチカチカと不規則に周囲を照らし出した。
それが、自分の仕業なのだと後悔しながらも、焼き切れて使い物にならなくなったマフラーをかなぐり捨てては、紅村明里はその場から逃げ出した。
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