第5章


 六時限目の授業を適当に流した後、草子とは一緒に帰らず、独り校門を潜った。

 きっとアイツの事だ。今頃、馬鹿正直に匂いを頼りに街中を駆けずり回っていることだろう。それに付き合う体力もなければ行動力もない僕だけれど、一つだけ、どうしても気がかりな場所があった。

「さて、と……」

 立ち入り禁止の黄色いテープをまたいで放火現場の公園に入る。そこは、とてもいこいの場と呼べるような空間ではなかった。

 隅に置かれた白い用具倉庫はカラフルにスプレーで落書きがされ、遊具のブランコや滑り台は朽ちた公園にお似合いとばかりに錆びつき、辺りは酷く閑散としている。

 懐古病よろしくの現代っ子にとっては外で無邪気に遊ぶよりはインターネットや家庭用ゲーム機の方が魅力的なのだろう。放課後の、まだ日がある時間だというのに子供はおろか人の気配すらしない。落書きをしたであろうきな臭い連中も居なければ、犬猫一匹もいやしない。話は聞いていたが、予想以上に公園は廃れ切っていた。浅い時間の中で、確実に荒廃していく様が見てとれるほどに。

 だからなのだろうか。ブランコに人間が座っているのに気付くまで数秒かかった。

 燃やされた藤棚は青いビニールシートで不造作に覆われていて、大型の仮設用テントのような見立てをしていた。そよ風にシートが音を立てて揺れる。傍らには、土気色の地面を穿つどす黒く丸い跡が一つ。おそらくは、そこに焼死体が置かれていたのだろう。

 その前まで行き、屈んで右の掌を落とす。

 瞳を閉じて、強く想い描いた。


 ――――確実に、ここで、一つの、生物が、絶命した様を。


 死に際は一体どんなモノだったのだろうか?

 周囲に血痕がない事からきっと生きたまま焼かれたのだろう。

 激痛の渦中、身が焦げる異臭を嗅ぎ、ブツリと意識が切断する。

「…………嗚呼」

 きっとそれは、美しく、熾烈。

 普段の世界、日常と言う名の頸木を科せられた汚物のような生命では、一生得る事のない激情。異常分泌する神経伝達物質。生物の耐久限度を超える壮絶な苦痛。のたうち悶絶する。焼かれていく喉で助けを求めた悲鳴は声にならないのだろう。水を欲して必死に動かした足は歩みにはならないのだろう。ちっぽけな自尊心を投げ捨て神に延命を懇願したとしても、もはや何もかもが手遅れなのだろう。

 そして、瞬時に絶望へと至る。

 いかなる行動も無意味だと悟り、酸素を渇望する意思すら停止する。

 この煤けた黒墨の中で、命が、その生涯の中で最も強く足掻き、最も強く願い、最も強く絶望して荼毘にふした。

 妄想するだけで、心臓は早鐘を打ち、心地良い吐気と生唾が止まらない。

 脳をフル回転させ、ありとあらゆる死を計算し尽くし終えると、目蓋を上げて立ち上がる。

「ふぅ……」

 緩んだ口を締め直すようにして嘆息を一つ。

 ブランコへと振り返ると、こんな僕に、彼女はじっと座ったままジトッとした視線を投げていた。警戒しながら親睦のオーラを醸し出して隣へと腰を下ろす。

 最初に口を開いたのは彼女の方だった。いや、正確に言うならば筆談に近い。怒っているような、逃げたいような、不安な表情をして携帯電話の画面を突き付けてきたのだ。

『何してたの?』

 ピンク色の背景にデジタルな白字でそう書いてある。

「さて、何をしていたんだろうね」

 すかさず携帯を手元に戻して、ポチポチと文字を入力するとまた見せてきた。

『気色悪い。アンタ頭大丈夫?』

「こんな気味の悪い、しかも立ち入り禁止の公園にいる君に言われたくないね」

『それはあなたも同じでしょ?』

「まぁ、確かに、そうだな」

 自傷げに軽く笑うと会話は途切れた。てっきり、すぐに逃げるかと思っていたが、さにあらず、彼女は根を生やしたように辛抱強くブランコに座っていた。多分、彼女はまだ気が付いていないのだろう。僕が君を知っている事に。

 ストライプの折り柄が入った白いワイシャツと胡桃色を基調としたタータンチェックのプリーツスカート。襟元を締める鼠色のネクタイに、程良く色の利いた薄茶色のブレザー。それらは紛れもなくうちの高校の女生徒の制服だ。寒い所為か、彼女はそこに黒いタイツと臙脂色のマフラーをしていた。男子の制服をいえば、女子のスカートがズボンになっただけで、つまりは今僕がしている格好になる。特に男女での制服の差異はなく、同じ高校ならばすぐに気が付く、はずなのだが、彼女にそういった風はなかった。普段から僕の存在を気にも留めていないからだろう。

「こうして話すのは初めてになるかな、紅村明里こうむらあかりさん。教室のすぐ後ろの席に座っている真野透まのとおるという。見てすぐに気が付かなかったかな? ほら、同じ学校の制服だろ」

 一応、軽く会釈して僕の認識を危険人物から身近な人物へとすり替えてみる。案の定、彼女の胡乱だった栗色の目が大きく開き、パーマの効いた茶色の長髪が跳ねるほどビクリと驚き肩を揺らした。口元まで覆ったマフラーの上から顎に右手を付け、数秒、首を傾げて考え、しばらくすると思い出したとばかりに手を叩いた。

『不良の友達の人?』

「ひょっとして草子の事を言っているのか? ああ、昼はすまなかったね。食事の邪魔をしてしまって。ごめん。でも、念の為草子の擁護をしておくとアイツは君の想っている程不良じゃない。ただ素行が悪いだけだ。僕や君と同様に」

 細い眉が逆ハの字型に曲がる。

『別にアタシは素行なんか悪くない』

「そうなのか。ならまぁ、そういう事にしておくよ」

『その適当な言い方が気に入らないわ』

 携帯の画面だけ僕に向けて、紅村さんはプイっと首を振るのであった。どこか機嫌を悪くしたようだったがなぜだろう、事実なのに。

「で、紅村さんはこんな場所で何をしているんだ? 時間を潰すにはとてもじゃないけど良い場所とは言えないけどね」

『アンタに教える義務はない』

 冷めた瞳でそう書き返して来た。まぁ、だろうとは思ったけど。

「その様だ。確かに義務はない。僕の、純然たる僕の興味本位でしかないからね。しかし紅村さん、だったら口がきけない理由は教えて貰えるよね。僕はわざわざ君のコミュニケーションレベルに合わせて会話をして上げているんだよ。そこには義務は発生すると思うけど、どうかな?」

『そんな偉そうな喋り方をする人には何も教えてあげない』

「へぇ……?」

 思わす変な声が出てしまった。僕がこんなにも謙遜しているのに偉そうと来たものだ。少なくとも彼女にはそう聞えるらしい。

『帰る』

 そう言って紅村さんはゆっくりとブランコを降りる。

「自由にするといい。誰も君を拘束する事はできないのだから。だけれどしかし、君は、どうして僕がここに来たのか知っているはずだ。ついでに言えば、どうして君がここにいるのかも僕は知っていると思うよ。違うかい?」

 数秒の沈黙の後、その言葉に対しての彼女の返答は。

『アタシ、真野君みたいな人、嫌い』

 なんとも辛辣な文字列だった。

 携帯をブレザーの内ポケットに仕舞うと、彼女は遠く夕焼けを見据えた。凛々しい二重の眼に日が差しこみ緋色に燃える。そして勇み足で公園を出ては、赤く染まった街へと歩を進めるのだった。哀愁漂うその背中を、引きとめようとも思ったが、上手い言葉が見つからず、ただただ見送った。

 多分、次に会う時は。

「僕はね。自分の眼には視えないモノが沢山あるのではないかと考えている。いや、僕だけじゃない。草子にも君にも視えないモノは沢山ある。人間の眼に視えている物理現象は、およそこの世界の四%。残りの二三%は光の干渉を受けない現象で、あとの七三%は理解さえできないもっと不確定的な出来事だ。だからその四%を全てだと考えるのは些か傲慢すぎると思わないか。だけれどおそらくは、草子や君のような人間の眼球には四%以上のナニカが視えている。四%以上の情報を無意識に脳が理解し知覚へと還元している。そう、僕は確信しているんだ」

 誰も居ない公園で、ブランコをかすかに揺らし、独白する。

 空は、わずかに茜色に色付き、夜の到来を予見させていた。

「さて、と……」

 もう見えなくなった紅村の姿を想い描いては鼻を鳴らす。

 携帯を開いて電話をかけた。二秒も待たずに草子が出た。



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