十二 養育係
「マンジェータ様がお生まれになりましたのは、くちなしの花が露に濡れ一層美しい、夏の初めの頃でございました。
養育係としての役を仰せつかりました日の喜びを今でも忘れません。わたくしは十二の娘でした。
夫人様の最後のお言葉はくちなしの花言葉、(幸せです。)と結ばれました。
窓も家具も無い十畳間、灯るのはろうそくの僅かな焔ばかり。ゆりかごを運び、中心に敷いた菱形の真紅の絹に乗せて、お祈りを。するすると長い裾を引いた夫人様が歩いて来られます。円を描かれて、床は幾重にもかさなる白の霧に覆われて、真紅が揺蕩います。差し向かいに根を張り俯き
それを見届けて退室いたしました。この先をわたくしどもが見ることは許されておりません。お姉様に倣って
夜が明けて窓から光が差してくる頃に、金属の鳴る音が聞こえました。夫人様の側近を務めております年長のお姉様が銀の鍵を開けたのです。暗い部屋に夫人様の白い肌と衣装は仄かに光るようでした。お嬢様を腕に抱きすらりとお立ちなされました御姿の神聖さ。姉妹の誰もが息を止め、ただただうっとりとなって、ばらばらと崩れるように跪きました。
お嬢様が八歳を迎えられた頃、夫人様は一人目の男の子ご出産なされました。ところがその子は、足を動かすことのできない不完全な身体で産まれました。ガルデニア家でこのような子が産まれたと世間に知れれば一大事です。
(魔の仕業でございます。夫人様、ご決断を。)
わたくしは嬰児を内密に竃で燃やして殺めるようにと言付かりました。お母様の腕に抱かれることも乳を含むこともなく……可哀想に、と揺らぐ心を振り切り、竃に火を焚べ、めらめらと燃える炎の中に投げ込む勇気は無く、炎の側に置いて竃の蓋を閉めました。
わたくしが殺したのではありません、たまたま近くで燃えていた炎に巻かれて死ぬのです。燃えていく様子を見ることもありません。この子は最初から存在しないのと同じ。そう言い聞かせて
ああ、これですっかり情が移ってしまいました。この子を殺めることなどできますものか。わたくしは主の命に背きました。
邸には使われない部屋がいくつもございます。その中で最も日陰の小さな部屋に連れて行き、そこで密かに育てることにいたしました。この代の長男はイグと名付けられると決まっておりましたが、正式に名を与えられずに命を絶たれたことになっております。ですがこの子こそがガルデニア家の長男であるという思いを改めることはできず、イグ様と呼びました。イグ・カナレノ・ガルデニア。そう名付けられると決まっていたのですから。
(仰せつかりました通り、たしかに竃で焼きました。証拠の屍をお見せいたしかねますのは、産まれたばかりの不完全な嬰児のこと、骨まですっかり焼けて灰となりましたがゆえでございます。)
このようにご報告申し上げますと、夫人様は静かに涙を流されました。心優しい夫人様、たった一瞬でも酷いお方だと誤解いたしました我が醜い心を恥じました。
まもなくしてイグ様のことがマンジェータ様に知られてしまいました。
(お嬢様、どうかこのことはご内密に。)
(もちろん誰方にも言いません。イグ、わたしの弟、会えて嬉しいわ。……優しいのね。)
マンジェータ様の寝室に置かれた幅一
それからはお嬢様もこの部屋へいらっしゃるようになりました。表の扉よりも隠し通路から出入りする方が人目につきにくいので、失礼ながらわたくしもお嬢様の寝室から入らせていただきました。養育係がお嬢様のお部屋に足繁く出入りすることは何も不思議ではないのです。
翌年、夫人様が二人目の男の子をご出産なされました。健康で美しい御子はイグと正式に名付けられました。偽物のイグ様が祝福を受ける様子に辛さを感じるのはお嬢様も同じなのでしょう。ピアノのお稽古をなさっていたかと思うと突然演奏を止めてわたくしの胸に縋り、声を抑えて啜り泣き、
(悲しいわ、悔しい、でもあの子は何も悪くないのだから憎んではいけないの。ねえ、このやりきれない思いはどこに仕舞ったらいいのかしら。)
年子の兄がいたことをイグ様には知らせてはならないとお姉様から厳しく言い付けられました。本当の長男イグは最初から産まれなかったことにされ、偽物のイグは何も知らないままガルデニアの若君として幸せに不自由なく生きてゆくのです。イグ様を抱いたことのないお姉様や妹たちならばいざ知らず、我が子のように愛してしまったわたくしとお嬢様にとってはとても耐え難いことでした。
歳月が流れ、十四歳になられたお嬢様が内緒話のように耳に口を寄せました。
(あれから六年が経って何事もないけれど、イグをこれ以上隠し続けることはできないと思うの。それに足が悪いのなら尚更、外に出ないのは身体によくないわ。ここから連れ出しましょう。)
新月の真夜中でした。お嬢様が夫人様から教わった子守唄を唄いながらイグ様の髪を三つ編みに結わえて、お揃いの赤いリボンを首許に結びました。
誰もが寝静まった頃に邸の裏から抜け出します。わたくしもお供いたしました。ガルデニア家と関わりのない遠方の御者を手配して、イグ様を馬車に乗せ、
(おじさま、この森のずっと向こうにいる糸紡ぎの魔女をご存知かしら。噂じゃないわ、本当にいるのよ。そこへこの子を連れて行ってほしいの。悪い魔女ではありませんからご心配なさらないで。手紙を持たせておりますから、魔女様にはそれで事情は分かっていただけるはずですので、お読みくださるようお伝えください。さいごに、よろしいですか、このことは決して誰方にも話してはなりません。)
馬車が夜の闇の向こうに消えて見えなくなった後も、車輪の音が聞こえる方向を見つめ続けました。
(寒うございますから邸へ帰りましょう、お嬢様、お身体を冷やされます。)
その後は誰も知りません。お幸せでありますように、と祈るばかりでした。」
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