十一 手毬


縫目にじわりと染まる色。

果実は融けて、いだく花……


 薄暗い書斎、ミーシャさんの机で、手毬の刺繍の本を読んでいました。何が書いてあるのかは分かりません。でも確かに読んでいるのです。墨の流麗な筆文字で綴られた言葉を見つめていると、色彩や形、香りが現れてくるようで、きっとこれは理解できない言葉であるために見える幻覚なのです。ミーシャさんの目には見えないのでしょう。

 扉が開く音が聞こえました。顔を上げると、待っていたひとが。

 椅子から立ち上がると、背中を抱いて胸へ引き寄せられました。長いふわふわの髪が手や頬に当たってくすぐったい。表情を動かさず、長い睫毛に覆われた瞳は瞬きをしない……人形です。ぼくの首元を撫でるように探り、襟の黒いリボンをするりと解きました。代わりに別のリボンを襟に通して、擦れる音も優しく、祈るように丁寧に結びました。蝶々の二枚の翅を引き、形を整え、氷が溶けるように微笑んで、

「こっちの方が似合う。赤がいい。」

 次の幕にはかき消すように。


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死人に梔子、お還りよ。

ころん、ころんところがして。


「やはりそうでしたか、立ち会わせてくださればよかったのに。」

「誰があなたを呼ぶものですか。」

「まあまあ、本気ではありませんよ、ガルデニアの心臓を勝手に覗き見るなど許されないことです。実に浅ましいくちなわ、まさか本当においでなさるとは。」

「もうすこし声を抑えてください。」

「失礼。おや、今日はご主人がいらっしゃるのですか。」

「おりますが、あいにくお目にかかれません。」

「残念です。」

「もちろん肺の病ではありません。」

「お葬いがありました、月が満ちておりますのに、薄雲のかかる晩に、」

「迷宮をかれて。」

「我らがゆかりと申します、露とひとひら連れ立って、お国は何方どちら、ご存知ない。幼き巡礼、かなた皆雛みなびな、お連れ申そう、橋の上より鈴のが。

 それでもあなた、他人のこととお思いで。知っても知らぬと愚かなこと。」

「お母様が書斎へいらっしゃいました。……昨晩、これを。幾度瞬けども彷徨うのです、もしかしたらぼくはまだ土の中、夢を見ているのかもしれません。」

「夢から醒めてはなりません。お似合いですよ、我が一族に相違ちがいない。ガルデニアは首許くびもとに赤いリボンを結ぶのがしきたりです。今宵、邸を歩いてごらんなさい。毬を転がし蘇り、広間に集まり懐かしがって、みながお迎え致しましょう。夜に寝室の外をひとりで歩き回ってはなりませんとご主人があなたに教えますのは……ええ、きっとご存知なのでしょうね。少々騒がしくなりますが、ご主人の耳には聞こえますまい。話し声も、足音も。」



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幕が降りれば針の音。

縫目にじわりと染まる色。


 客席にはくちなし、幕が透いて、

 糸をる、糸を繰る、夫人の手を転がって、

 指先から跳ね上がり、おいで遊ばす、

「みごとな刺繍でございます、八重に胡蝶の……お嬢様。」

「この世の花は儚いわ、夜更かしをなすって。蝶がとどまるものですか。」

「雪の糸で仕立てました、薄柳ですわ。」

「紅色でしょう。」

「紫でございましょう。」

「魔女に訊いてごらんなさい。」

「そんなことをおっしゃって、夫人様おくさまに聞かれてはいけません、」

「大丈夫よ、糸の色を知りたがったところで、お母様はお叱りなさらないから。」

 戯れる、床へふわりと花々が、銀にあおに、針を導くのは緋色。

「こつ、こつ、こつ、と針が跳ねました。まあ大変、と追いかけて、お姉様の四ノ五きぬくけ。それきりです、ついに知ることはありません、先代の仕立屋が縫い取りました、うつくしい毬は何処へ行ったのでしょうか。」

「あの坊ちゃまが抱いておられましたよ。雫をはらはら、落ちる頃には結晶に。高く澄んだ音が鳴りました、りんりんと、これは毬の転がる音ですね。」

 撫でるように風吹くと、深緑の袖が次々に、白い顔が打ち微笑んで。

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