十 糸車

「あれ先生せんせ、治療の最中にこんなのはいけないね。扉の鍵を閉めて。窓も閉め切って。明かりを消して。月明かりだけで十分だ。」

 彼は月明かりだけに照らされた自分の姿が最も美しく見えることを知っている。満月が梔子の葉の影を頬へはらりと落とす。雪柳の手を伸ばし白衣の袖を引いて、

「こっちにきて。遠いと聞こえにくいだろう。そう、怖がらないで……」

 消えそうな風音かざおとのような声は脳に直接届き心地よく響くようだった。ミーシャの言葉は人や事象を思い通りにする。奥ゆかしい、星のような銀色に映るのは、首筋に蝶、夜明け前の氷柱つららを簪に、髪から引き抜きあわせべにへ。

「朔夜はぼくの味方だ。だから、これからぼくが話すことは決してユルには言わないね。

 さて、ここに針がある。ほらしっかり持って。それは糸車の針だ。紡錘ぼうすいと言う。触っても怪我をしないように先は削ってある。けれど勢いよく刺せば、子供の喉くらいは貫くだろうね。ユルが触ると危ないから隠している。

 糸車の持ち主だったのは、昔知り合ったイグという男の子だよ。

 クレアを連れてアトリエを去った後、遥か北、高い山々に遮られ昼間の僅かな時間しか光が届かない、そんな場所にある古い教会、人の気配は無く、廃墟となっていた……ぼくたちには都合がいい、そこでひっそりと隠れ住むことにしたんだ。まわりは小さな集落だが、とうの昔に住民はいなくなったようだった。でも外れの家には少年がひとり住んでいた。見つけたのはクレアだ。

 クレアが散歩をしていると、少女みたいな男の子が転倒していた。倒れた車椅子の車輪の片方がからからと廻って、張り付いた雪を振り落としていた。クレアはその子を助け起こして、初めて会ったのにたくさんのことを尋ねて、おしゃべりをして。お友達になったのだと楽しそうに話していた。

 糸車を廻そうか。糸の紡ぎ方は知ってる?知らないよね。教えてあげるよ。始まりの糸を引き出して、こう、通して、右へ廻して。あの子は彫刻のような顔を白い布で覆った魔女から糸の紡ぎ方を教わったと言っていた。ただの糸ではない、積もったばかりの雪から糸を紡ぐんだよ。その魔女とイグしか知らない秘術。魔女はぼくたちがイグと出会う前に失踪していた。イグはもうこの世にはいない。イグの後には誰にも受け継がれないまま秘術は失われた。だが彼らが紡いだ糸は残っている。半透明で色とりどりに輝く糸は美しく、しかも魔法をかけるのに適しているから、非常に人気が高かった。それをひとりの病弱な職人が作っている。貴重で高価な糸だった。当時でさえそうなんだ、職人がいなくなった現在では、そうだね、貴婦人の衣装を一着綾取る長さで、ガルデニア邸と同等の邸を建てられるほどの価値があるそうだよ。古着から丁寧に解いて巻き直して繰り返し使われることもある。滅多に目にすることはできないが、朔夜は見たことがあるはずだよ。

 こら、廻転かいてんを止めないで。夜が明けるまで廻し続けないと。良い音がする。続けて。

 イグが使っていた糸車は彼の死と同時に壊れた。くちなしの枝に包まれて、融けるように崩れた。残ったのがこの針。形見としてもらっておいたんだ。忘れないために。ぼくはあの子のことを決してひと時も忘れてはならない。くちなしの香りが毎晩漂うこの邸に留まるのもそのため。

イグはクレアに殺された。クレアを愛して、自ら望んで。潔いよね。彼には覚悟があったんだ。シェデーヴルの愛が欲しいなら、そうでなくてはならない。とはいえ、彼の死によってぼくたちはシェデーヴルの生まれ持つ残虐性を自覚させられた。

 クレアは(ほんとうは生きたイグと愛し合いたかった、)と言っていた。ぼくたちは生きているものと心を交わすことはできない。あの子はクレアに死を与えられて初めて本物の愛を勝ち得た。」





麻草まそうの糸を繰り返し 麻草乃絲まそうのいとを繰り返し 昔を今になさばや





「さて、その糸を何色と見る。

 紅色べにいろ

 螺旋状に撚りあわせ、結ぶのは。

 空蝉の幻。

 種子は見られぬ。

 あわれな白無垢。秘する猟銃。子鹿はそうとも気付かずに。愛おしい。

 冷たい水に湯を注ぐのは死者の為。

(クレアは清らかでした。一切のけがれを受け入れないのです。永遠の文学少女は、空想の世界を愛するあまり、現実を醜いものと忌み嫌いました。そんな彼女が、目に見えるものしか知らないぼくの話を嬉しそうに聞いてくれるんです。なぜでしょう、)

 そう語る彼の、清らかなこと。清らかだからこそ、又危うい。

(糸車をからからと、指先から紡がれる、美しい唄が聞こえるよう。言葉は内へ、口を閉ざして、ただそれを見ているのが好きなのよ。)

 イグの脚は針の形。枝を与えた。手袋越しに手を取って、子鹿が踏むのはつの花。挿し木は根を張らず。

(教えてくれたの、イグのこと。二人のお姉様がいらっしゃったのですって。)

 花弁が落ちた。白く細長い、ひとひら。染まった雪の色は融けて流れ、糸を濡らす。螺旋状に滲んだ、シェデーヴルのお揃い。

 硝子にかすみの掛かるよう

 指切り、

 針千本。

 だから教えてあげたんだ、大切なことだよ。ぼくとクレアは同じだということは彼も知っていたはずだ。赤いリボン、薄い刃で首をぐるりと切った傷から、二筋の血が流れているように見えた。だから解いてあげた。それでもあの子の首はまだ、かすかに赤い。(怖い?)と聞いたら(怖くありません。)と答えた。花を落とす間際にこうべを垂れるように、そう、今も残っている、この割れあとだ。

 まだ話は終わっていないよ。きみの薬指は何処にあるだろう。離してほしいの、意気地なし、最後まで耐えて。猫に爪を立てられるのは好きじゃないの、好きだろう、知ってるよ。ほら、ここに……まだ夜は長いんだから。ユルは大人しく眠っているだろうね。起こしてはいけないから静かに。息を潜めて。良い子だ。

 その糸で少年の皮膚を縫い合わせて毬を作ったら、さぞ美しかろうね。心臓を芯にするといい。よく跳ねて突きやすいだろう。

 月は白金しろかね、今宵は物語を。

(イグの目って、なんだか懐かしい色ね。)

 と、うっとりした、そのときには。

(石英を割ってみたことはある?きれいに二つに割れなくて、歪な割れ目になるでしょう。)

 きみはよく知っているように。

(羨ましいな、って思ったの。お兄ちゃん。)

 かないはずのくちなしの果実をこじ開けて、凍った土壌へ。

(きっと咲かせるわ、)

(額縁に臨んだ、)

(イグの瞳の色は、わたしのお母様によく似ているの。だから懐かしい。)

 クレアから仄かにくちなしの香りがした。

(幸せだったの。わたしたちが許された、いちばんの幸せ。)

 どうして、

(これがどんなに幸せなことか、お兄ちゃんにもいずれ分かるわ。)

 くちなしの花を一輪、口を隠して。

(お兄ちゃん、シェデーヴルの半分は、イグのものになったのよ。)

 帰っておいで。

(戻れやしないわ、ほら、)

 これは、

(何でしょうね、でも痛くない、怖くないわ、)

 何かがいる、

(イグはここにいる、)

 薄紅梅があわれに、

(きれいでしょう、)



 語る唇、葬る指先。さて、現在の時刻は。」


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