九 鬼女

 旧ガルデニア邸が薄暗いのは書斎だけではない。

 広い部屋であれば強い灯りを使ったり、二つ三つと数を増やして部屋全体に光が行き届くように工夫するものだが、この邸ではそれをしない。部屋の隅の方は暗く、実際よりも狭く感じる。廊下も弱い灯りが広い感覚で取り付けられていて、昼間でも奥まで見渡すことはできない。ミーシャが好んでわざと灯りを控えているのだろう。

 深緑のカーテンは閉ざされていることが多く、開けたとしても日光は窓際のみを照らし、部屋の奥までは届かない。建物が光を取り込みにくい造りになっているようだ。ガルデニア家も強い光を嫌ったのかもしれない。梔子は夜の花だ。

 客人から怪談を聞かされた後のユルはさぞ怖かったに違いない。夜におばけを見てしまうのは、闇に沈んで目に見えない部分を想像で補うからだ。それでも暗闇に包まれて建物の奥へ閉ざされていると、なんとも言えない安心感に満たされるような感じがする。遠くから子守唄が聞こえてきそうだ。

 ユルの胸を切り開いて分かったのは、過去にこの邸の中で大人の心臓を移植されていたらしい、ということ。客人の話は全くのでたらめとは言いきれないようだ。ユルはどのように受け止めたらいいのか分からず戸惑っている様子だった。ガルデニアの心臓だという確証は無いが、おそらくそうなのだろう。見た目は通常の人間の心臓と同じで、変わったことといえば、移植を繰り返された縫い痕が残っているということだけだった。

 だが、あれは人間の心臓ではなかった。何であるかは分からない。手を触れた時、シェデーヴルを思い出した。

 ところで、ミーシャは本当に何も知らないのだろうか。恐ろしさを感じるほどの洞察力を持っているはずの彼が気付かないのはおかしい。客人の来訪はもちろん、ユルの心臓のこと、ガルデニアを滅亡に導いた怪異の正体さえも全て知っているのではないか。

 いずれにせよ、そろそろ様子を見に行った方がよさそうだ。ユルには言わずにおいたが、ミーシャは内部の不具合か外傷で臥せているようだった。あのときは人に会う気分ではなかったらしく強く拒否されたから、痛みを抑える薬を置いて部屋を出た。

 人間の患者とは違い対応を急ぐ必要は無いとはいえ、あまり長く放っておくのも気掛かりだ。薬を使っていたとして、もうすぐ切れてくる頃だ。トランクを持ってミーシャの部屋へ向かった。預けられている鍵で扉を開け、灯りを付ける。それでもやはり薄暗い。



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 邸の主人は背を向けて横たわっていた。

 仄かに紫の差した銀色の髪が紗を広げたように優美に寝台にこぼれている。

 天蓋のカーテンを開けられても気付かないとは珍しい、と思っていると、髪がゆらりと波打った。振り向いたのは、美しいミーシャの顔ではなく、般若の面。

「ふふ、驚いたかな、」

 笑いながら面を取って身体を起こすが弱々しい。

「逃げないの。追いかけてあげるのに。」

「お前はまたこんな遊びを、」

「でもね、本当に……」

 面を顔に当て、

「こんな姿をあさまにされて。」

「悪かったよ。」

「朔夜でよかった。」

 紫水晶が露になった手首の継目から、ゆらゆらと光る銀色の液体……水銀が滲んでいた。雪解けで育った毬が緒を切り突き落とされる。

「近頃ユルに顔を見せないそうだな。」

「……そうだね。」

「ミーシャのことが心配だって言ってた。」

「大丈夫って伝えておいて。朔夜が言うならそれで安心するだろうから。」

「どうせ弱っているのを見せたくないんだろ。」

「猫じゃないんだから。」

 頬が凍っている。髪や服で隠れて外気に触れにくい肌にはいつも細かな氷の粒が覆っているが、露出した肌が凍るのは普通ではない。

 手術用の白い手袋を外して、ミーシャの首に触れた。拒否する素振りを見せて顔を背けたが、諦めたように息を吐いて大人しくなった。ぱきぱきと薄い膜が割れるような感触がする。

「冷たいな、」

「シェデーヴルだからね。」

「いつもよりも。」

「咲夜の手が熱いんだよ。火照っているからよけいに冷たく感じるんだ。……ユルと何をしたの。」

「ミーシャの保護者会。」

「適当なことを言って。勝手にユルに手を出さないで。」

「分かるのか。」

「わかるよ、薬みたいな匂いがするから。それと、いつもと違う沈香が。これは好きじゃないな、なんだか落ち着かない。もういいだろう、出てって。ひとりにして。」

「もうすぐ冬になる。雪が深い時期はうちからここへ来るための列車が走らないから、今日を最後にしばらく来られなくなる。せめて手首はそのままにしておけない。人間なら血を流しているのと同じだからな。何よりそんな妖怪のような姿なりをしていてはいつまでもユルに会えないだろう。道具を揃えてきたし、何日かの間は居るつもりだ。直しておいた方がいいと思うが。」

「好きにして。」

「よし、好きにする。なんだ今日は素直だな。」

「終わったら出てって。」

「はいはい。そうかこの様子だと……後ろを向け。」

 黙って言う通りにした。大人しくするつもりのようだ。

 固く締められたコルセットの紐を緩めて外すと、ばらばらと水晶の肌が崩れ落ち、遅れて水銀が流れてきた。これは手がかかりそうだ。古傷が脆くなっているらしい。

「動くな、手元が狂う。お前がそんな顔をするということは相当だろう。眠り薬を使おうか。」

「いらない。退屈な作業だろうから話し相手になってあげる。」

「静かにしていてくれた方がありがたいんだけどな。」

「なら喋らないよ。でもね朔夜はそのうちぼくに話しかけたくなる。」

「どうだろうな。」

 左脚の付け根の継目も表面が剥がれて、白い肌の間に透明な紫色が覗いていた。ここは折れてしまうと繋ぐのが大変だから、先に応急処置として補強をしておくことにした。幼い頃にこの折れた脚を繋いだときは運良くまっすぐに付けることができたが、もう一度付け直せる自信はない。シェデーヴルの脚が歪んでいるなど、あってはならないことだ。

「この間うちに遊びに来たツレの話の続きなんだけどさ、」

「ほら構ってほしいんだ。」

「悪いか。」

 振り向いて、指を軽く揃えた手を口許に当ててくすくすと笑う。

「ミーシャは邸の前の持ち主を知ってるんだっけ。」

「貴族の一家だと聞いているよ。ガルデニア家……一夜にして滅亡を遂げた一族。この邸には亡くなった一族や使用人たちのおばけが住んでいると評判だ。まあ半分はぼくのいたずらのせいなんだけどね、ふふ、」

「ミーシャが見たことは、」

「いちどもないよ。居たとしても、ぼくは死者とは縁のない存在だからね、首を絞められたって気付かないだろう。」

「おばけではなく、本当にいるのかもしれないな。」

「それはそれは、突拍子も無いことを。おばけよりも怖いね。」

「庭の梔子の迷宮が人を選別すると言っていたな。なぜガルデニアの一族でも使用人でもないミーシャとユルが通れるのだろう。」

「わからない。考えたこともないよ。たまたま受け入れられた、それだけだよ。」

「理由があるとは思わないか。」

「何が言いたいの、」

「本当に何も知らないのか。」

「……知らないよ。不思議だけれど、気にしない。こうも長く生きていると色々な不思議が起こる。気に留めていてはきりがない。」

「昨晩、手掛かりを掴んだ。ユルの……っ、おい、」

 ミーシャの長い睫毛が瞼に触れた。辰砂の紅い瞳を見開きまっすぐに睨んでいる。

「何でも口に出すものではないよ。それはぼくに言うべきではない。秘密にしておいて。」

「お前、やっぱり、」

「言うな。その口を利けなくしてやろうか。」

「落ち着けよ、」

 ミーシャの頭を引き寄せて僅かだった距離を詰め、冷たい唇が触れる。咄嗟に離れようとするが力が入らないようだった。

「どうしたんだ驚いて。」

「いつまで経っても死に切れないくせに。」

「そうだな、まだ少しだけ命が惜しいのかもしれない。」

「邸があまりにも不思議なところだと言いたいんだね、それなら教えてあげよう。ここに意思を持った人形がいるからだよ。魔所と呼ぶには十分だろう。」

「それだけではない。ミーシャも気づいているはずだ。」

「分からないな、何のことだか。仮に何かあるとして、朔夜は知りたいの。」

「そうするべきだと思う。」

「けれども謎は必ずしも解いてしまうのが正しいとは限らない。よく分からぬままが美しいかもしれないよ。」

「好奇心のためばかりではない。語られるべきだ。」

「誰のために、」

 言いかけて、はっ、と詰まったように息を止めたかと思うと、邸の主人はおもてを冷たく正し、秘密を語るように、

「朔夜は呼ばれたのではなくて、通りかかっただけなのだろうね。流れ着いた先が舞台になる。そこに座って。ならばぼくは、くちなしの果実を据えよう。くちなしの実を食べるような物好きはくちなわくらいだと言う。」

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