六 針の怪
涙が止まらず、一睡もできないまま夜が明けてしまいました。
一階で扉が開いて、階段を昇る踵の音。
廊下に飛び出して、ミーシャさんの姿を見つけて一目散に駆け寄り、思い切り飛びついて、わあっと泣きました。
「びっくりした。今帰ったよ。どうしたんだい、そんなに泣いて。目が真っ赤だね。よしよし。」
こんな困った顔はさせたくありません。軽率な行動を恥じました。腰に両腕を回してしがみついたまま、優しく頭を撫でられて、それを嬉しく思うのも恥ずかしく、でもこうしているのがやっとなのでした。
「寂しい思いをさせてしまったかい、ごめんね。着替えておいで、書斎で待っているよ。」
帰ったばかりなのに、これから世話を焼いてくださるというのです。それではぼくの本意ではありません。
「大丈夫、大丈夫、ぼくはいなくならないから。ずっとだよ。こんな可愛い子を置いて消えてしまうものか。何があっても死にやしないよ。シェデーヴルだからね。」
耳の側に口を寄せ、穏やかにはっきりと綴る言葉に、ふわりと包まれるような心地がしました。
「ミーシャさん、」
「何だい。」
「もう大丈夫です。見苦しいところを、ごめんなさい。」
「いいんだよ。会いたくなったらいつでもおいで。」
肩に手を滑らせるように指先を残しつつ離して、ゆったりと書斎の方へ歩きかけて、ふと立ち止まって斜めに振り向き、
「くちなしの香りが強いね。」
「ええ、」
「……
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「いいえ、誰方も。」
そうかい、ならよかった、と哀しいほどに優しく。
靴の音が遠ざかってゆきました。
もしや知られてしまったのではないかと不安になりましたが、それからミーシャさんに何か聞かれたりすることはありませんでした。
数日経って、またお留守番を任されました。台本の翻訳を依頼された劇団さんの公演に招かれたのだそうです。それから打ち合わせをして、夜遅く、ぼくが眠った後に帰ってきます。
学校から帰って鞄を置くと、錆びついた呼び鈴を鳴らす音。あれは誰方にも鳴らせないはずです。……まさか。
玄関の扉を細く開けました。ああ、やっぱり。
「ごきげんよう。」
「二度と来ないでくださいと言ったのをお忘れですか。」
「通りかかりましたものですから。旅先でお菓子を頂きまして、一緒に如何かなと。このあたりでは珍しいお菓子ですよ。」
結局、応接室に通してしまいました。お菓子に釣られたのではありません。
「羊羹といいます。美味しいですよ。さて、今日はどんなお話をいたしましょうね、」
窓辺に差し向かい。薄暗い夕暮れ時でした。
「おばけのお話はたくさんです。」
「ではガルデニア家の昔話をいたしましょうか。ご興味はおありでしょう。
秘密の多い一家でしたから、根拠のない作り話や逸話が多いのです。実のところ、私も全てを知っているわけではありません。先日お話いたしました額縁のお話然り、身内であっても知らぬこと、隠し事、嘘の多い。ですが当時を知る人物は、今や私の他にはおりません。どなたよりも真実に近いことをお話することができましょう。
ガルデニア家はこの国の儀式を司る一族でした。絹のような白く冷たいふっくらとした花弁を広げた梔子のすがたは、まさに北国の花。我々の美貌と美しい歌声を人々は信仰しました。その
ガルデニアの系譜が一つの心臓によって繋がれている、という話を聞いたことはありますか。」
「いいえ。……ひとつの、とは、どういった意味でしょう。移植でもするのですか。」
「ええ、大方その通りです。ガルデニアの心臓はこの国の核と言われておりますそうで。月に竜神、東に種子、西に朝露、南に胡蝶、そして北には心臓。ただの心臓ではありません、血管の代わりに梔子が根を張ります。
その存在は所詮伝説といえばそれまでなのですが、信仰する者がいる、研究する者がいる。存在しておりますも同然でしょう。どれも特別な人物でなければ目にすることができません。心臓はガルデニア家の長女が代々受け継いでおります。体の外へ出され目に見えるのは、母が子の空洞の胸へ移すその瞬間だけでしょう。医師には触れさせず側近にも立ち入らせず、窓の無い部屋を締め切り、一つ蝋燭のみを灯して、必ず母みずからの手で行うのだそうです。どなたの目にも触れさせません。たとえ身内であってもです。
セレーネ王家の女性は竜神と婚姻を結ぶのだそうです。ガルデニア家もまた、母の心臓を持つ長女は夫を迎えず、処女でありながら子を宿すことができると言われております。
心臓を子に与えた母は言葉を忘れ、話すことや書くことができなくなります。歌うこともできません。たったひとつの唄を除いては。ガルデニア家に伝わる子守唄です。心臓と同じく先祖代々母から子へ伝えられております。」
わたしの梔子、お眠りよ
針は隠しておきましょう
月の
まばたき静かに白い夢
唄は懐かしい響きを持っていて、聴いているうちにすとんと夢の中へ落ちてしまいそうな感じがしました。
窓の外では夜が瞼を閉じていきます。
「この先の歌詞は知りません。幼い頃に時々母が唄ってくれたのですが、寝付きの良い子供だったようで、いつも唄い終わる前に眠ってしまったのです。
私が大きくなりますと、母は子守唄を唄ってくれなくなりました。どうしても知りたくて、姉にこっそりと歌詞を書いて教えて欲しいとお願いしましたが、いけませんと、きっぱり。子守唄の歌詞は心臓を受け継いだ子だけが知っていればよいのだそうで。それに唄は唄い継ぐものであって、歌詞を紙に書き残すことは
ガルデニアの歴史の中で、母の心臓を持つ者が亡くなるのはこれが初めてです。我々は心臓が失われることを最も恐れていましたから、安全の確保には細心の注意を払っておりました。もしものことがあってはいけませんから、
あれから十二年になりましょう、針の怪です。
針が手足に刺さると、そこから体内へ入り込んだ針が血管を通り心臓に刺さって死ぬ、という迷信がありますね。縫い物をするときには針が手に刺さらないように気を付けなさい、片付けるときには針の数を合わせなさい、と子供に教えるための作り話……と思うでしょう。いいえ、違うのです。これは実際にガルデニア家を滅亡に導いた怪異が元となった話です。広く知られてはおりませんが、ご主人の蔵書の内どれかには書かれているかもしれません……いえ、書かれているに違いない。あれだけの本をお持ちなら、これについて書かれた本が一冊くらいはあるはずです。
ガルデニア家は一人の仕立屋を雇っておりました。彼女ももちろんセレッサ家の者です。大変腕の良い仕立屋でした。ガルデニアとセレッサの身を包む衣装は一枚残らず彼女の手によるものです。服だけではなくカーテンやテーブルクロスなども彼女が全て縫いました。決まったお店で糸や布、金具などを買い、針が紛れ込んでいないか丹念に調べてから使います。このようにするのは、布に残された針を、食事に仕込まれた毒と同等に恐れるためでした。
仕立屋は必ず、作業の始まりと終わりには針の数をきちんと数えました。針仕事の間は最低限の数だけを針箱から出して、布に刺した待ち針と右手に持つ縫い針の他は手首の針山にしっかりと刺しておきます。待ち針は抜け落ちないよう工夫して留めておりました。ガルデニア家に仕え始めてから十年以上、小さな針の一つも落としたことはありません。
ですが、或る冬の日、ついに。
いつも通り針仕事を終えて、片付けます、いつもの習慣で針を数えます。すると、数えても数えても、長い手縫い針が一本足りません。床や作業台の上、道具箱の中、その日に作業をした服や布の間、絨毯の下まで……全て探しましたが見つからず。
翌朝、女中が一人亡くなっておりました。眠るうちに静かに息を引き取ったようです。遺体の右足に針で刺したような小さな傷があるのを仕立屋だけが見つけました。
それから同じことが二度起こり、女中の弔いが続きます。
仕立屋は深夜にひとりで墓場へ向かい、土葬された女中の胸を
針を落とすと人が死ぬ。
仕立屋にとってどんなに恐ろしい事実であったでしょうか。しかし針仕事をやめるわけにはいきません。それ以来の仕立屋は病的なまでに神経質で、針を何度数えても安心ができず、合っているのに夜が明けるまで数え直し続けることもしばしば。何かに取り憑かれたようで、針を数える姿には恐ろしさを感じるほどでした。
それだけ慎重になっても、やはり針は無くなります。目を離した隙に、姿の見えない何者かに奪われたかのように。針箱の蓋を閉めておいてもどこからか逃げていきます。こうなれば、仕立屋にはどうすることもできません。針を落とす、人が死ぬ。さて、これで五人の女中が亡くなりました。恐怖と疲労でどうかしてしまったのでしょうか、わざと針を一本落としてみたそうです。落とした針はやはり消えてしまいました。翌朝、またひとり女中が亡くなりました。この頃の仕立屋はまるで別人のようでした。しきりに後ろを振り向き、足元を見回し、手は震え……何かに怯えていると思えば突然笑い出してみたり。明らかに様子がおかしいものですから、当然疑われます。ですが仕立屋は上手く針の数を合わせて報告。
(針の数は合っております。次々とお弔いがありますものですから、わたくしも恐ろしくてなりません。)
と、このように。
一人目の女中が亡くなってから、ひと月ほどが経ちましたでしょうか。仕立屋は遂に気が狂いました。針箱を自らひっくり返したのです。作業台の上に散らばる針。両手で乱暴に払い、絨毯へ落とす。そのうちの一本は仕立屋の右手に刺さりました。瞬きをすると、針はすべて消えていました。
私が夜明け前に目を覚まし、胸騒ぎがして部屋の外へ出てみますと、背中に刺繍を施された養育係の死体がありました。
広間には糸で首を吊る側近。階段の下には女中。調理場の台の上には、切り離された四肢を色とりどりの糸で彩り並べた料理長。工房では天井の四隅から伸びた糸に全身を縫い合わされた仕立屋。外には庭師の少女……胸には大きな
母の部屋の扉は固く閉ざされていました。これでは針も入り込めないはず、生きているかもしれない。呼びかけても返事はありません。斧で扉を破りますと、家具の無い部屋の中心に横たわる母の姿。白い衣装に身を包み、両手を胸の上で淑やかに組み……ぞっとするような。亡骸とは
姉は寝台で眠るように。露わになった身体を亜麻色の巻き毛が包み込み、胸の中心を
これがガルデニア家の滅亡の次第です。
以来、旧ガルデニア邸は魔所と呼ばれるようになりました。あの不可解な惨劇を起こしたのは何者なのか。針を落として人が死ぬのなら、世界中で針による死者が絶えないはずです。……と、思い当たりますのは私の兄。ええ、実は、私は本当の長男ではありません。年子の兄がおりました。知ったのはつい最近のことです。兄は生まれつき足を動かすことができませんでしたから、産まれて間もなくして殺されていたのです。翌年産まれた私が長男のイグということになりました。私は長男として育てられ、それを知りませんでした。自分が長男のイグだと何の疑いもなく信じておりました。その怨みではないでしょうか。私だけは兄の身代わりであるために殺せなかったのだと思います。私も母と姉と一緒に、この邸で美しい亡骸になりたかった。壁に刺さった待ち針を抜き、手に刺してみましたが、傷口から赤い硝子玉が顔を出しては虚しく崩れるばかりで、死ぬことはできません。
さて、長女マンジェータは亡くなりましたが、核たる母の心臓が滅びても北の地は何事も無いとは不思議なことです。心臓のその後については諸説ありまして、近頃では、邸に棲みついた美しい怪物が食べたという噂も。肺病のご主人が喀血する姿が、まるで心臓を食べているように見えたためだと思いますがね。血が目立たないよう
「うちのミーシャさんは肺病ではありません。追い出しますよ。」
「まあ落ち着いてお聞きなさい。とにかくも、母の心臓は今でもどこかで脈打っているはずなのです。私はそう信じています。もしや長女マンジェータが墓の中で生きているのではないかと疑ってみましたが、そこにあるのは骨ばかり。そういえば、あのとき姉は臨月でしたのに、美しい亡骸は……
客人に促され、鏡の前へ。背後から肩に手を置かれ、鏡の中に二つの顔が並びます。梔子の香りがしました。客人は囁くように、
「あなたは姉によく似ています。御覧なさい、こうして見ると本当に親子のようだ。
「いいえ。」
「お声は、」
「今でも聞こえるようです。」
「大変美しい歌声でしょうね。」
「なぜそれを。」
「私の姉、マンジェータでしょう。」
「でも、ぼくは男ですよ。」
「前例はありませんが、あの状況ですから、男の子に心臓を与えてしまっていたとしても不思議ではないでしょう。姉の子供が生きているという根拠はどこにもありませんから、これまで半信半疑、ですが先日あなたにお会いして、確信いたしました。どんなに嬉しかったことでしょうか。」
左の胸に触れる手を咄嗟に跳ね除け、客人から逃れテーブルの花瓶を倒し、溢れた水を凍らせた短剣を逆手に。
「触らないでください。そのつもりでしたら、」
「まあまあ落ち着いてお聞きなさい、決して心臓を奪おうとか、あなたを連れ去ろうというのではありませんよ。私の妄想が本当なのか、やはり妄想に過ぎないのか、確かめたいのです。
……おや、
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