五 化物邸
「おばけのお話はたくさんです。それよりもお伺いしたいのは、あなたが
客人はおかしそうに笑い、
「ええ、ですから、私がガルデニア家の者であるとすればそれだけで全てご納得頂けますでしょう。」
「だとしても今は他人の家です。梔子が許してもぼくたちが許しません。」
「それは申し訳ない。本当に知らなかったのですよ、ここしばらく……一、二年ほど来ない間に、物好きなご主人に買い取られたのですね。
今は遠慮をしているのか随分と気配が薄れていますが、どなたも住んでおられない頃に訪れました折は、まったく噂通りの幽霊邸でしたよ。
日が暮れてきますと、梔子が花を開き、甘い香りを奏でます、ええちょうどこのくらいの時間でしょうね、窓を開ければ香りが飛び込んでくるはずです。
白い衣装の歌姫が、
邸の鍵は持っております。ご主人、不用心なことに、鍵は当時のまま変えずにおいていらっしゃるのですね。私は旅の途中で邸を訪れると、去り際には必ずこれで戸締りをするようにしておりました。以前と同じようにこの鍵で開けてしまうことができましたから、きょうはこの通り、気付かずに。
ところで気になったことがあります、額縁です。当時はあの廊下を進んだ部屋の壁いっぱいに、絵の入っていない空の額縁が掛けられておりました。理由は知りません。ずっと昔からそうしてあったのだそうで。ガルデニアの者とて、よく知らぬまま勝手に外すわけにはいきません。それが今は無くなっている。」
「ぼくがここに住み込みはじめたときには、そんなものはありませんでした。」
「ではその前にご主人が外したのでしょうね。額縁を外し、新しい壁紙を張って、そのまま……額縁の行方は。まさか燃やしたりなどしてはいないでしょうね。」
ミーシャさんは額縁が嫌いですから、意図的に撤去したのでしょう。どこかに保管してあるとは思えません。あのひとのことだから、間違いなく処分しています……などとはとても言えなくて、曖昧に頷きました。
「額縁といえば……二階の廊下に丸い額縁が掛けられていました。住んでおりました当時は、それは窓なのだと思っていました。壁にぴったりと平行に付いていて、揺れたことがないのです。何も見えませんが、昼は明るく、夜は暗く明るさが変化しました。額縁だと知ったのはつい先程です。無くなっていましたから。額縁でしょうね。
旅人として以前邸を訪れたときのことです。丸い窓のような額縁の前を通ると、なぜだかそれが気になってたまりません。枠は
「それはどのあたりに……いえ、聞きません、ぼくの部屋の前だったらどうしましょう。」
「ご心配なく。階段を上がって、左へ進んだ廊下の奥の方です。ご主人の書斎の近くですね。
ですがそのかわりに、あなたのお部屋から水が湧き出たことがありました。
あれは夏のことです、邸へ足を踏み入れますと、奥へと進むにつれ、自分の足音が、コトンコトン、から、パシャンパシャン、ザブンザブン、という具合に変わりました。水面は真っ黒で、暗いためにそう見えるのか、濃い色のついた水なのか。靴に生暖かい水が入り込んできて、巨人に足を掴まれているような気味の悪さと重さには参りました。靴を履いたまま水に入るものではありません。
一階だけではなく、二階も水に浸かっていました。こちらは流れがある。二階のどこかから水が出て、一階へ流れているようです。上流へ向かって歩きますと、部屋の前に辿り着きました。扉は仔猫が通り抜けられる程度に開いていて、隙間あたりの水面が黒くゆらゆらと揺れていました。石膏像が割れるような音や怪物が呻くような低い音が扉の向こうから聞こえましたが、開いて正体を確かめる気にはなれませんでした。その部屋はかつて、私の姉マンジェータの寝室でした。
邸の外へ出ますと、靴や服は濡れておりませんでした。それから大雨が降ってきて、結局びっしょりと濡れてしまいましたが。」
「それはただの、あなたの幻覚でしょう。」
「その幻覚を見せるのは何だと思います。」
「たくさんです、たくさんです、人の家をそんなふうに。あなたは怪談をお話しにみえたのですか。」
「興味深そうに聞いていらっしゃるので。怪談がお好きかとお見受けしまして、思い出すままにお話いたしました。」
客人の語る怪談は聞いていると懐かしいような気持ちになり、じっと聞き入ってしまうのでした。聞きたくないのに聞かずにはいられないのです。
「もうこんな時間に。すっかり日が沈んでしまいました。厚かましいお願いですが、一晩宿を頂けますまいか。」
「いけません。朝早くにミーシャさんが帰ってきてしまいますから。実は、留守の間にはどなたも入れてはいけないと厳しく言われているんです。見つかったら大変です。」
「おや、この家の主人は肺の病で亡くなったはずですが。」
「え……?」
頭が真っ白になりました。まったく突拍子のないことを言います。なのに、この言葉を反芻しているとだんだんと胸がざわついてくるのを感じました。
「そう伺っておりますよ。」
「いいえ、そんなことはありません。一体どなたがそんなことを言ったのですか。」
「誰が、も何も……。月の国セレーネではよく知られていることです。彼は北国育ちの傭兵ですが、セレーネの第二王女に大変気に入られていたそうで、城を囲うように広がる湖に棲まう悪竜を討伐したこともある方ですから。ですが幼い頃から患っていた病が重くなり……美人薄命、若くして亡くなりました。二十四歳でした。日付は十二月十八日。邸のどこかに、八時四十九分で止まった置き時計があるはずです。これはご主人が亡くなった時刻です。」
頭の奥にツンと痛みが走りました。
「北国育ちとおっしゃる他には、どれも心当たりがありません。うちのミーシャさんではない、どなたかと勘違いされているのでは。」
客人は否定されて目をぱちくりとしています。わざとでたらめを言っているような様子ではありません。まるでこれが真実であるかのように。
「名前はミハイルといいました。ミーシャは愛称ですね。ユルという少年の助手が一人で邸に残されているというのも本当らしい。こんな邸は他にありません。間違えるはずがありますまい……如何なさいましたか。顔色が悪いですよ。」
「もう聞きたくありません、人をばかにした嘘ばかり。出てってください。」
「追い出すとはひどい。」
「当然です。二度と来ないでください!」
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