四 客人

「原稿を届けに行ってくるよ。明日の朝の列車で帰る。お留守番をよろしくね。知らない人が訪ねてきても決して内へ入れてはいけないよ。」

 今日は隣の国まで出かけるそうです。近くへのお出かけのときはいつも連れて行ってくれますが、遠出のときは危ないからと言って連れて行ってはくれず、お留守番を任されます。

 自分の部屋にいれば一人なのはいつもと変わらないのに、なんだか寂しく感じます。宿題をして、本を読んで、そうしているうちに夜になります、夜更かししないで早く眠ってしまえば朝がきて、ミーシャさんが帰ってきます。たったそれだけのことです。

 宿題は得意な国語の問題で、すぐに済ませてしまい、まだ日が高い。厚い本を本棚から取って、カーペットの上にぺたんと座って読み始めました。お行儀が悪いですがこうするのが好きなので、ミーシャさんがいないときにはこっそりと。

 邸に異変が起きました。読んでいる本が中盤に差し掛かり、日が沈みかけた頃。黄昏時です。怪事はこのような曖昧な時間に起こるものです。

 ぼくの他には誰もいないはずなのに、ギシギシと足音が聞こえてきました。

 百年以上も昔に建てられたという古いやしきなので、歩くと音が鳴るのです。

 廊下から聞こえます。ここと同じ、二階です。そろりそろりと扉の方へ向かい、細く開けて、見ると、人。人がいます。高貴な風体ふうていで、短いふわふわとした亜麻色の髪、大人の男性です。おばけでしょうか。いいえ、おばけが足音を鳴らすはずがありません。それにしても、人間だとしたら一体どうやって入ってきたのでしょう。梔子の迷宮を抜けなければ邸へ入ることはできないはずです。

 そういえば、ミーシャさんがこう言っていたことがあります。

「気をつけなくてはいけないよ、客人を選別するのはあくまでもくちなしだ。くちなしが認めた人物が必ずしもぼくたちにとっても歓迎するべき客人であるとは限らないだろうからね。」

 他人の家に無断で侵入するような無礼な人物を認めるだなんて、梔子の目は節穴です。

 とにかく不法侵入者を追い出さなくてはいけません。それに一体どこの者がどんな目的でここへ来たのか聞き出さなくては。

 こんなときにミーシャさんがいてくれたら……などと考えてはいけません、留守の間の一切を任されたのですから。

 穏便に済ませられたらなによりですが、万が一の為に枕元の短剣を。

 深呼吸をして、意を決して扉を押すと、重いはずの扉が勢いよく開きました。

「可愛らしい、こんなところに子供がいるとは驚いた。」

 驚いたのはこちらです。声が出ません。すぐ目前にくだんの不審者がいたのです。ちょうど向こうから扉を開こうとしたのと同時に押したために勢いよく開いたようです。

「坊やがひとりで化物邸ばけものやしき逗留とうりゅうですか。一体どんな訳かは知らないが、早く逃れたほうがいい。」

 化物とはミーシャさんのことでしょうか。夜な夜な悪趣味ないたずらをしているから、いい大人まで化物邸呼ばわりするのです。

 体が震えて力が入らなくなって、座り込んでしまいました。落とした短剣を拾われました。

 怪しい大人はぼくと目線の高さを合わせて、優しい声で言いました。

「怖がらなくてもいいのですよ、私はおばけや妖怪ではありません、怪しい人物でもありません。かつてこの邸に住んでいた者です。イグ・セーデ・ガルデニアと申します。ガルデニア家の長男です。まあ、ガルデニア家が滅亡した今ではただの旅人ですがね。せっかくのご縁ですからお話をいたしましょう。坊やのお名前は。」

「……ユルといいます。」

「ユルさん。まずは落ち着いてくださいね。驚かせてしまってすまない。しかし私の姿を見て腰を抜かしているようでは、この邸の怪異に耐え抜くことはできませんよ。」

 気を許してはいけません。親切そうなふりをしていますが、何だか言っていることがおかしいのです。何よりこの人は不法侵入者です。

 ところが、どうしてかぼくはこの人物を応接室に案内し、お茶の用意をしていました。

 目を合わせて彼の名前を聞いたときに、ある一種の親しみを感じてしまったのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・


「まさか人が住んでいるとは思いもよりませんでした。これは失礼を。」

 西日も僅かに差すばかりの窓辺で、寛いだ様子の客人。

 短剣は返してもらいました。向かいに座って、お茶菓子にはカティアさんのレモンクッキーを。これでは本当に客人としてもてなしているようです、留守番の間は誰も入れてはいけないと言われているのに。

「人が住んでいる家と住んでいない家では様子が違いましょう。」

「この邸はそうではないのです。或る怪異によりガルデニア家が滅びてから、たったひとり生き残った私は放浪しつつ、懐かしい、この邸……旧ガルデニア邸を何度か訪れておりますが、建物や庭が寂れていく様子はなかったのです。まるで誰かが住んでいるかのように。ですが、しばらく来ないうちに変わりましたね。内装が以前とは異なる。あの惨劇が遺しました、カーペットに染み付いた血液や、壁に針の刺さった跡。それらはすっかり無くなっています。ご主人が張り替えた……違いますね、この様子ですと、古いカーペットと壁紙は残したまま、上から重ねて隠しているのでしょう。めくってみますか。」

「いけません。」

「冗談ですよ。」

 発言はともかく、このように優雅に打ち笑う仕草などを見ると、名家の生まれであることは嘘ではないように思えてきます。

「この紅茶の風味には覚えがある。表の井戸の水を使っていますね。」

「口の中で花のような仄かに甘い香りがしますよね。ぼくは好きです。ミーシャさんはずっと知らなかったそうで、ぼくがここへ来てから分かったことなんです。薬を作ったり研究に使いたいとかで、ミーシャさんの友人の医学生が汲んでいきます。」

「何が入っているかご存知ですか。」

「彼が調べてくれて分かったようなのですが、ぼくには難しくて理解できませんでした。ただ、毎日飲んでもとくに害は無いそうです。」

「彼は分かったつもりになっているだけです。錬金術や化学なんかで説明できるようなものではないのですから。ところでこの水、夜に汲むと月明かりで、赤や黄、青、紫、緑……水面が様々な色に光るでしょう。」

「知りません。夜に汲んだことはないんです。」

「見に行くと良いですよ、綺麗ですから。落ちないように気をつけてくださいね。あの井戸は見た目よりもずっと深いのです。落ちたら助かりませんよ。」

 紅茶の溜まったカップの底が果てしなく深く見えました。覗くのが怖くなって、まだ熱いのに一息に飲んでしまいました。

「先程から気味の悪いことを。ぼくはここで暮らしはじめて一年ほどになりますが、おばけも妖怪も、ついぞ見たことがありません。」

「本当でしょうか。おばけは人に姿を見せて脅かすばかりではありませんよ。この邸のおばけはそういったことを好まないのです。姿は見えなくとも、たしかにここにおります。今も私の母や姉に宛てた手紙が届くでしょう。名前は、母はパドール、姉はマンジェータといいます。」

「届きます。昨日だって。誰かのいたずらか、亡くなったことを知らない人物が送ってくるのではありませんか。」

「手紙が届く、それは受取人がそこに居るからに他なりません。」

「まさか。」

 もっともらしく話されると信じてしまいそうです。暗くなってきたのでカーテンを閉めました。窓の外では八重咲きの梔子が咲きかけています。

「まだあります、この邸には埃がひとつも落ちていませんね。こんなに几帳面に掃除をなさるのはあなたですか。」

「いいえ、掃除はしていません。拾われたばかりの頃、ぼくが掃除をしましょうかと言いました。置いてもらうなら何かお手伝いしないとと思って。そしたら、掃除はしなくても良いと言われました。ミーシャさんもしてないのだそうです。まさか全くしないわけでは、と聞き直しましたが、全くしていないのだとやはり答えました。掃除が好きな子供だと思われたようで、物置から古びた掃除道具を出してくれました。それからしばらくして分かったのですが、どうやらこの邸は本当に掃除が必要無いようなんです。

 おっしゃる通り、どこを見ても埃ひとつ落ちていません。テーブルの上や窓が汚れていたことはありませんし、絨毯だってきれいなままです。ミーシャさんが整理整頓が苦手なひとなので、本があちこちに積み上げられて、原稿の紙や筆記具は散らばっていますが、それだけです。気になってその訳を尋ねてみましたが、わからないなと美しく微笑むばかりでした。」

「それは朝早く女中が掃除をしているからですよ。」

「うちに女中はおりません。」

「ガルデニア家に仕えておりました女中の霊です。」

「そんなことがあるでしょうか。」

「ありますよ。ついでですからもうひとつ。庭の手入れはどなたがなさっていますか。」

「誰も。時々気になった時に梔子の枯れた花を摘むだけです。」

「それにしては綺麗に整備されているように見えますが。庭はきちんと手入れをしなければ荒れていきますよ。そういえば、昔仕えていた庭師の少女も、あの怪異の犠牲になりました。」

「庭の手入れをするのも庭師の霊だと仰りたいのですか。」

「ええ。そうに違いありません。」

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