三 迷宮

 度々届く手紙の宛名は、かつてこのやしきに住んでいた人物の名前なのだそうです。

 ガルデニア。

 梔子くちなしという意味の言葉なのだとミーシャさんが教えてくれました。これ以上のことを語ってくれることはありませんでした。

「外国の本を読んであげると約束していたね。」

「この本がいいです。本棚にとてもきれいな本があったのを見つけたんです。」

 表紙のカバーに大きく手毬の刺繍があしらわれた、濃い緑色の表紙の、美しい装丁。随分古いようで、本文の紙は熟した本のよい香りがしました。

「こっちに持っておいで。」

 本当は親子がするみたいに膝に乗せて読んでほしい、そうとは言えず、椅子を隣に並べて座りました。

 即興で訳した言葉をゆっくりと安定した、抑揚はなく、子守唄をうたうような語り。心地良くて、うとうとしてしまいます。

「向うの小沢にじゃが立って、八幡長者の、おと娘、」

 今日の本はこんな唄で始まりました。作中にたびたび出てくる唄の歌詞には軽く節をつけて唄ってくれました。

「眠くなってきたかい。クレアもぼくが本を読むのを聞きながら寝てしまう子だった。懐かしいな、こうしているとクレアを思い出す。」

「また妹さんの話ばかり。」

「そろそろ寝る時間だよ。続きは明日読んであげよう。」

 栞を挟んで引き出しの中に丁寧に仕舞い、別の本を机の上に開いて原稿用紙を広げてペンをとりました。ペン先は金属で、雑然とした部屋の中で無くさないようにと大きな黒い羽が付いたものを使っています。

 今夜も朝まで書き続けるつもりなのでしょう。鉱物で造られた人形の身体は人間のように毎晩の睡眠が必要ないとはいえ、無理をしていないかと心配になります。

「おやすみなさい。ミーシャさんも早く寝てくださいね。」

 ふと何かに気付いたように、ミーシャさんが窓の方へ歩いて行き、カーテンの隙間を覗き見ました。

「おや、外が騒がしいね。」

「どうしましたか。」

「庭に子供達が入ってきたようだよ。見てごらん。」

 双眼鏡で見下ろすと、たしかに、梔子の木々の中に、小さな光がちらちらとしています。

「肝試しにでも来たのだろう。心配はいらない、あのくちなしの迷宮はどこへ向かって歩いても入口へ帰してくれるのだから。迷って帰れなくなることは決して無いが、ここへ辿り着くこともできまいよ。」

「あれ、」

「ユルの知っている子かな。」

「ひとつ年上の学級です。話したことはありませんが、やんちゃで目立つひとたちなので顔を知っています。」

「夜更けにこんなところへ遊びに来るとはいけない子たちだね。まあ、くちなしが相手をしてくれるだろうが……ぼくも少しばかり遊んでやりたくなった。」

 そう言いながらバイオリンを構え……楽しそうです。悪趣味なおばけごっこ遊びのせいで、この邸は魔所だなんて噂されているのに。

「ねえユル、部屋の明かりを消してみてよ。その小さな洋燈ランプは付けたままでね。」

 そっと開けた窓の枠にひらりと軽やかに腰掛け、妖艶な横顔を見せつつ、女の声に似た物悲しげな美しい音色を奏で始めました。鈍い光が後ろから影を浮かび上がらせて、波打つ長い髪が夜の雪のように妖しく光るのが窓の向こうからは見えるのでしょう。

「こっちを見ているよ。目を離さない。聴かずにはいられない。怖ろしいのだろう、身を寄せ合っている。引き返そうとする。ふふ、どちらへ向かっても帰り道だよ。震えながら、振り向きながら、遠ざかっていく。大きな声を上げるのではないよ、賑やかなのは好きだが、騒がしいのは嫌いだ。大人しくして、お母様のところへ帰りなさい。良い子だね、それでいい。またおいで、遊んであげるから。」

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