二 檸檬クッキー
夜更けの
こどもはなにも知らぬまま……
「誰が唄っていたのだろうね。」
ペンの走る音。音程の曖昧な、囁くような声が耳を優しく
「時々ふと口ずさみたくなるんだ。ユル、眠たいの。眠るなら自分の部屋で眠っておいで。ここにいては冷えてしまうから。もうすっかり夜が降りてきた頃だよ。くちなしの香りが窓を叩いている。けれども酔うにはまだ早い。」
「唄うなんて呑気ですね。翻訳の締め切りは……」
「せっかく良い晩なのに辛辣だね。見張っているつもりかい。こんなに可愛らしい編集者さんがいるものか。心配しなくても大丈夫だよ。ぼくは一度だって待たせたことがない。いいからおやすみ。
風邪をひかないようにとストールを掛けてくれたけれど、
ミーシャさんのそばにいるとあたたかいのに、それを言うと、気のせいだよと寂しそうな顔をする。
寝台の上で丸くなって目を閉じていると、どこか遠くから優しい唄声が聞こえる。
身体を包む毛布は凍るように冷たいが、あの腕に抱かれているのだと思うと心地良い。
大きな手はぼくの頬をすっかり覆ってしまう。冷気が背中から爪先までゆったりと通り抜けていく。凍てつくような空気が次々と肺の中に流れ込んできて、体の中が冷やされて怖くなったけれど、ふと白の森に炎が起こるように熱くなった。
朧月が灯る暗闇で、瞼の裏に幻想を描く。五の指先は胡粉を撫でるよう、ゆらゆらと吸い付いては離れる銀色の帳に包まれて眠るのだ。
熟すばかりの猫柳の蕾を食み、舌の上で転がして、雪化粧。
・・・・・・・・・・・・・
夜の残り香を鼻の奥に感じながらカーテンを開けました。
朝は庭の枝葉が放つ湿り気さえも冴えていて、深く息を吸いこむと体が目を覚ましていくのでした。
窓から身を乗り出して庭を見下ろすと、濃い緑の谷、その奥には日陰に咲く俯いた白百合が頭をむくりと反らしたのを花嫁の衣装へ仕立てたような、純白の粒が輝いていました。香りを解き放つ儀式を終えて亜麻色に、これから命を断つための準備を始めるところなのでしょう。
門の向こうに、大きな鞄を肩に掛けた男の子の姿。庭に立ち入ろうとせず、音も立てず、こちらを伺っていました。彼はこの邸の掟を知っています。合図をして、急いで服を着て、階段を降りてゆきました。
この要塞と外界との橋渡しは、ぼくの重要な役目のひとつだと自覚しています。
原稿用紙ほどの封筒がふたつと、辞書ほどの小包がひとつ、小さな封筒や葉書が何枚か束ねられたもの。
落とさないよう気遣いながら階段を昇って、一際冷たい扉を引きました。
「おはよう。おや、郵便屋さんが来ていたんだね。気付いてくれてありがとう。」
この邸の主人、ミーシャさんは、昨晩と同じように、部屋いっぱいに本が詰まった書斎で翻訳のお仕事をしていました。足の踏み場もないとはこのような部屋を指すのでしょう、どこを見ても、本、本、本。ミーシャさんが向かっている机の上も本と紙がたくさん重なっていて、本の山と机の境目がわからないほどです。本の虫にとっては楽園なのかもしれません。外が明るくても、ここは積み上げられた本で光が遮られて薄暗いのでした。
「ユルが何を言いたいのかわかるよ。檸檬クッキーが食べたい、だよね。」
「ちがいます、」
「いらないの、」
「食べたいですけど。」
「ならちょうどいい。今日はカティアが来るからね。先週はチョコレートのお菓子だったから、今日は檸檬のクッキーを焼いてきてくれるんじゃないかな。」
画家のカティアさんが趣味で作るお菓子は絶品で、作っては持ってきてくれるのをぼくは密かに楽しみにしています。中でも檸檬のお菓子が一等好きなので、檸檬クッキーと聞いて小躍りしたいくらいに心が舞い上がってしまいましたが、子供扱いされたくなくて、綻んだ顔を俯けました。
「雑誌の原稿が返ってきました。こちらは本ですね、セレーネの図書館から。クローザさんに依頼していた資料だと思います。それと、またこの方に宛てた手紙が来ています。パドール・カナレノ・ガルデニア、マンジェータ・セーデ・ガルデニア……」
「封を開けずに庭の土に埋めるといい。数年後には、くちなしの低木になっているよ。死者の情念は埋葬してしまおう。」
「ではこれから、」
「夕方がいいだろうね。」
「そういうものなんですか。」
「たぶんね。暗くなりかけたら、一緒に埋めに行こうか。」
「これから何かお手伝いすることはありますか。」
「気持ちは嬉しいが子供がそんなに働くものではないよ。好きなことをしておいで。」
困りました。
「ミーシャさんのお仕事を隣で見ていたいです。」
「昨晩と同じじゃないか。こっちにおいで……あれ、ユルがあのとき座っていた椅子はどこへいったのだろう。」
「まさかその山が……」
ミーシャさんのすぐ横に新しくできている本の山の隙間に覗く、あれは椅子の背もたれの一部分でしょうか。きっと、資料や辞書などを開いては積み、開いては積み……。それにしても、一晩で山がひとつできてしまうなんて、ただごとではありません。
「ちょっとまってね、片づけるから。やっぱり新しいのを持ってきて反対側に置いたほうがいいかな。これからまた使う本だから、ここに積んでおきたいんだ。まだ何も乗せていない椅子が向こうにあったはずだよ。」
「山の向こうにですね。」
背の高さまで積み上がった本の間の僅かな隙間に細い体を器用に滑り込ませて、姿が見えなくなって、しばらくしてようやく気が付いたようでした。
「狭いから椅子を持っては通れないね。」
「そうですよ。」
「高く持ち上げればなんとか。」
「横着はやめてください。」
結局、本をどかして昨晩と同じ椅子を使うことにしました。
椅子を用意するだけでもこの騒ぎです。部屋中が本で溢れているのはミーシャさんの書斎だけではありません。二階の部屋は、ぼくの一人部屋や応接室などを除いては、ほとんどこのようになっています。近頃は廊下まで出てきたので、さすがにこれはと意見しました。しかしミーシャさんは「お行儀の悪い子がいたものだ、」と他人事。まるで本が勝手に動き回ったかのように言うのです。
「昔住んでいたところは足の不自由な友人が出入りしていたから、車椅子が通れるだけの隙間は自然とできていた。ここには彼がいないから、狭くなる。かつて貴族の一家が所有していたという広大な邸。曰く付きとのことで、ただ同然で譲り受けた。こんなに広ければ本の置き場に困ることはないだろうと喜んだが……思いの外、住民はあっというまに増えてしまった。だが彼らに囲まれた生活もそう悪くはないだろう。賑やかなのはいいことだよ。」
「わかりましたから仕事してください。明日の昼過ぎに原稿を届けに行くのでしょう。」
「これは来週の締切の分。明日のはとっくに終わっているよ。」
ミーシャさんのお仕事を見ているのは好きでした。ペンを動かすよりも、翻訳前の原文を読み込んだり資料や辞書を開いて何か調べていることの方が多いです。そのほとんどは外国の言葉で書かれていてぼくには読めないので、ここにはこんなことが書いてあるとか、これを書くためにこういうことについて知りたいから調べているなど説明をしてくれます。
今翻訳しているのは外国の舞台の台本なのだそうです。役者さんは原文の台本の通りに歌い、翻訳した詞を字幕のように見せながら上演するそうで、そのための翻訳を依頼されたのです。ミーシャさんは何百年も昔から生きているということもあり古い文体や言語に通じているので、古典の翻訳や古文書の解読といった依頼も多いようです。
「あっ、カティアさんが来たようです。迎えに行ってきます。」
お客さんを門まで迎えに行かなくてはならない訳は、邸を囲うように植えられた梔子です。ぼくとミーシャさんの他には何者も、建物まで辿り着くことができません。
庭の梔子は迷路のように植えられていて、梔子が選んだ人物は通しますが、招かれざる客人は迷わせるのだそうです。低木であるはずの梔子がずっと高く見えて、方向も分からず、どれだけ歩いても入り口へ戻ります。迷宮を抜けることのできない人物を邸へ招くには、ぼくたちが道案内をしなくてはならないのでした。
カティアさんはぼくにとって姉のような人で、ミーシャさんが頼りにしている仕事仲間でもありますが、梔子は彼女を受け入れないようです。それでも道案内があればお目こぼししてくれるところを見ると、まったく拒んでいるわけではないのかもしれません。
平たい鞄には下絵、バスケットにはお菓子。お砂糖を含んだ檸檬の香りは梔子よりも強く、しかしひととき香ったあとは散るように消え、甘い梔子の香りへ。梔子がとけると……正体は捉えられず、一際濃厚な甘い香りが小指で押さえた
「うちに檸檬の木があるの。もうすぐ実が
檸檬の果実はおばけのようです。皮にはみにくい顔が浮かび上がるようで、紡錘型の針の先から
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