ダブルダウン

「アイ アム ア ジンザブロウ オトナシ」

「あいあむあ音無仁三郎」

「ダメダメダメ!  イングリッシュは名と姓を逆さに名乗るのだ! アイ アム…」

「島本殿、某には【いんげりっし】は荷が重うござります」

「イングリッシュ! イングリッシュだぞ音無殿。これから我が国は他国の言葉も学ばねばならん!ほら! 先程の『私は、音無仁三郎です』とイングリッシュで話してみよ!」

「私は、音無仁三郎です」

「違う!」


 パン!と扇子が畳を叩く。

 先程から茶を換えに来る下女が笑いを堪えるように袖を口元にやりながら、此方をチラチラと見るので、本当に居心地が悪い。

 音無仁三郎は、勝安房守の屋敷の空室にて、通詞の島本藤吉から英語の手解きを受けていた。

 島本は仁三郎より3つ下だが、分厚い眼鏡と猫背、への字に曲がった口元は如何にも学者然としており、頑固そうな性格が現れていた。


「おう藤吉よぉ。仁三郎はお前ぇみてぇにすぐイングリッシュが喋れるわけじゃあねぇんだ。もちっと手加減してやんな」


 座敷の奥からひょこりと顔を出した勝が呆れたように言った。


「しかしながら勝様。攘夷など掲げていてはいずれ我が国は他国より取り残されるは必定にござります。他国の文化を知るには言葉から! スチーブンソン先生はそう仰っておりました」


 鼻息荒く島本が言った。仁三郎は一層項垂れたが、勝はからからと笑い、頷いた。


「そうだなぁ。お前さんの言うとおりだ。だがよ藤吉。その御方はお前ぇの用心棒でもあるんだぜ?」


 おどけたように言う勝に、島本は「何ですって!?」と正に青天の霹靂だと言うように言った。まさか知らされてなかったのか、と思ったが、勝のやる事だ。その反応を見れば一目瞭然であった。


「その、島本殿……亜米利加と言う国は一体どのような国なのです?」


 仁三郎は場の空気を変えんと恐る恐る問いかけた。島本は待ってましたとばかりに向き直り、顔を近づけた。


「よう聞いてくれました。亜米利加、所謂ゆないてっどすていつ、は沢山の人種からなる国です」

「人種、でございますか」

「左様。亜米利加は他国からの移民と元から住んでいた人間からなる複雑なる国と、スチーブンソン先生から聞きおよんでおります」

「なるほど」


 旨そうに煙をふかしていた勝が、ふと口を開いた。


「亜米利加って国は広くてなあ。どでかい街があると思ったら、見渡す限りの草原に、岩だらけの山。見た事もねえ数の馬や牛の群れ。この日本なんか豆粒に見えちまうぜ」

「何と……」


 そう言われても、仁三郎の想像すらつかなかった。生まれてこの方、江戸を出た事すらない。仁三郎の世界はこの江戸の町だけだった。

 すると、島本が神妙そうにこちらを見た。


「音無殿、亜米利加は広すぎてお上の目が行き届いておらぬと聞いたことあります。特に西の方は、荒くれの無頼者が闊歩し、盗みや殺しが頻発しているのです」


 今の江戸そのものだな、と仁三郎は思った。


「だからお前ぇさんの力が必要なんだよ。仁三郎よ」

「さあ、また最初から始めまするぞ。音無殿」


 からからと笑う勝と、やる気満々の島本に、仁三郎は眉を下げて「はぁ」と言った。



 ――――――


 久しぶりのベッドにローガンは鼻歌を歌いながら煙草をふかしていた。


「それ、昨日も歌ってたわね」


 開け放たれた窓辺で、豊かなブロンドを靡かせた若い女が、コルセットを着けながら振り返った。白く豊満な胸は露わのままだ。決して少なくない報奨金を保安官事務所で貰い、彼女達との約束通り昨晩は柔らかな肌と吐息を存分に楽しみながら、素晴らしい時間をベッドで過ごしたので、体も心も若い馬のように軽かった。


「死んだ爺さんが好きだったんだ」


 ローガンは煙草を消すと、ガンベルトを着け、立ち上がった。すると窓辺で髪を梳かしていた彼女が何かに気づいたようにローガンを呼んだ。


「旦那、ちょっと」

「どうした?」

「誰かこっちを見てるよ」

「……髪を梳かしながら通りを眺めていてくれ。そいつは見るなよ。どんな服装だ?」

「趣味の悪い黒いハットに、灰色の上等なスーツだよ。でも商人じゃないね。目つきが違う」


 娼婦という職業柄、沢山の人間を見て来た彼女の言は信用に値するとローガンは判断した。ポケットから紙幣を数枚出すと、ローテーブルの上に置いた。


「ありがとう。これはお礼だ」

「いいよ。後ろの窓から行きなよ」

「いい女だよ。君は」

「名前も覚えてないくせに。ほら、行って。カウボーイ」


 ひらひらと動く細い指がさっさと行けと示していて、ローガンは苦笑しながら帽子を被り直して、二階の窓から飛び降りた。

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