6章 シスターノ詩(うた) ~刻まれ消えぬ記憶の傷跡~ その2
家に帰った時には、もう朝食の時間だった。
一晩寝ていないせいか少し頭がぼうっとしていたが、料理となると自然に体が動いた。
いや、こうしてやるべきことがあるおかげで気を紛らわせることができる。むしろありがたいぐらいだ。
「雪奈、ご飯できたぞ」
「わーい。お腹ペコペコだったんだ」
無邪気に喜ぶ雪奈と一緒に食卓を整える。ずっと二人でやってきたため、連携はばっちりで手慣れたものだった。
それから席に着いて、浦野の墓前ではやらなかった合掌をやり「いただきます」と食前の挨拶をした。
今日の朝食メニューは根菜の味噌汁に目玉焼き、鮭のテリーヌにしめじの炒め物。主食は鰹節にチーズ、醤油と刻んだ青ネギを加えた即席混ぜご飯。
一応は和洋折衷がテーマになっている。
なかなか見た目がちぐはぐなのは美的センスがないからだろう。
「美味しい!」
それでも喜んでくれる雪奈には作った側でありながら感謝を感じてしまう。
「やっぱりお兄ちゃんが作ってくれたご飯が一番だよ」
「そういや、昨日は夕食と昼食を作ってやれなかったな」
「うん。一人で食べるカップラーメンは本当に悲しい味だよ。お兄ちゃんとだったら、きっとそれでも美味しいと思うんだけど」
言いつつ、雪奈は目玉焼きに醤油をかける。
ちなみに俺も醤油派だ。
幼い頃は俺一人だけが醤油をかけていたが、いつからか雪奈も真似してかそうするようになっていた。
雪奈の箸は進み、あっという間にどの皿も空になっていた。
「デザートもあるぞ。抹茶寒天の黒糖がけだ」
「さすがお兄ちゃん、カロリー計算バッチリだね」
「いや、雪奈は全然太ってないだろ。っていうか黒糖はどうなんだ?」
「黒糖は白糖よりもカロリーが低くて、フェニルグルコシドっていう成分が糖の吸収を抑えてくれるんだよ。むしろ難敵は一緒にかかってるきな粉だね」
「へえ」
「あはは、興味無さそう。まあ、お兄ちゃんも別に太ってないもんね」
「じゃあ、食べるか」
「うんっ」
雪奈と俺の前に抹茶寒天を置き、食べ始める。
「うーんっ、これも美味しい! お店に並んでてもおかしくないね」
「いや、それは言いすぎだろ」
「お世辞や冗談なんかじゃないよ。もしもこれが和菓子店で『暁夜の詩』みたいな品名で売られてたら、雪奈だったら迷わず即買いするよ」
「和菓子店ってよく商品に『なんとかの詩』って名前つけるよな……」
ふと詩という単語から、香夢居の仮の葬式を思い出した。
「そういや雪奈って、香夢居と他愛ない話ができるぐらいに仲良かったんだな」
寒天を食(は)んでいた雪奈は、飲みこんでから言った。
「ん? まあ、そうだね。ずっと一緒にいたから、それなりに色々話したよ」
「へえ。たとえば?」
「……うーんと、いっぱいありすぎて逆に思い出せないな。ぱっと一番最初に出てくるのはやっぱり詩のことだよ」
「そうか……」
「ねえねえ、お兄ちゃんも好きな詩ってあるの?」
「俺か? 俺は……」
詩人と言われてもぱっと思い浮かぶ名前がない。ゲームのタイトルだったらぽんぽん出てくるのだが。
「やっぱりみんなちがって、みんないいかな」
「金子みすゞの『私と小鳥と鈴と』だね。あの人の詩は易しい言葉で優しい世界観を紡ぐ作風だから親しみやすくて心に残りやすいし、好きな人が多いよね」
「まあ、そうだな。雪奈も好きな詩人とかいるのか?」
「雪奈の? うーん、お兄ちゃん知ってるかな」
ちょっと溜めを作った後、雪奈は言った。
「酉隠粋光(とりがくしすいこう)っていうんだ」
「随分変わった名前だな?」
「三十年ぐらい前に、若くして亡くなった詩人なんだけどね。日本のピエール・フランソワ・ラスネール、あるいはゾディアックって呼ばれてるんだよ」
「……その二つって大部違くないか? 前者は社会へ復讐する目的を持っていた貴族の犯罪者で、後者は謎の連続殺人だろ?」
雪奈はうなずいて続ける。
「お兄ちゃんの言う通りだよ。その二つの顔を粋光さんは併せ持っていた。彼女は大財閥の令嬢で、十代にして100人を越える連続殺人を行ったとされている」
「ひゃっ、百人っ!? ……組織的犯罪か?」
「ううん、単独犯って言われてるよ」
俺はあまりの荒唐無稽な話に言葉を失ってしまった。
雪奈はフォークを持ったまま右手の人差し指を立てた。
「状況的にそうとしか考えられなかったんだ。そんな罪人を生かしておくのは国の威信にかかわるからね。調査もそこそこに粋光さんは殺されたよ」
「なんか、含みのある言い方だな」
「後(のち)にいくつか冤罪の線が濃厚だとされる殺人が、ネットの有志によって見つかったんだよ。それに警察署に『あの殺人を犯したのは俺だ』っていう自供者も現れたりもした。粋光さんが逮捕され、そして半年後という異様な早さで刑が執行された後も、騒ぎはしばらく治まらなかったらしいね」
「……じゃあ、証拠もロクになかったのか?」
「確実だとされる殺人はたった一件だけなんだ」
「それって……?」
「恋人の想い人を、ナイフでめった刺しにしたらしいよ」
ついさっき食べたものが、喉元まで込み上げてきそうになった。
「この最後の殺人から特定されて逮捕されたんだ。多くの殺人への関与を否認していた粋光さんもこの一件だけは自身がやったって認めてたみたい」
「最後のたった一件だけ……。つまりそれ以外は完全犯罪をやってのけたってわけか」
「そう言う見方をする人は多いね」
肌を悪寒が走り抜けていった。エアコンが効きすぎているのかと思ったが、起動させる前にちゃんと温度は確認したはずだった。
「……その粋光っていう殺人者、本当に詩人なのか?」
「うん。逮捕されてから粋光さんは出版社の人とコンタクトを取って、とんとん拍子で本として出すことが決まったみたいだよ」
「ええ……? 日本の出版社、大丈夫かよ」
「それが良書になるなら、たとえ著者が誰であっても出版するのがジャパニーズ・スタイルだからね」
寒天を食べ終え、皿の上のきな粉をフォークにつけ、ぺろりと舐める雪奈。散々カロリーがうんぬんと言っていたのだが。
「俺のも食うか?」
「えっ、そんなの悪いよ」
「遠慮するな。どんどん食べて大きくなれ」
おれはすっと皿を雪奈の前に差し出した。
彼女は少しためらっていたが、やがて俺のフォークを手にしてはむっと口に含んだ。
「ちょっ、雪奈!?」
「もぐもぐ、美味しいー」
「……はあ、ったく。自分のフォーク使えよ」
「えへへ」
謝るでもなく言うことを聞くでもなく、軽く一笑。
これだけで怒る気力を失くしてしまうのだから、俺も甘い。
「太陽の チョンボ見つけりゃ ノーベル賞」
「なんだそれ?」
「粋光の詠んだ一句だよ」
●
翌日、6月8日。二限目前の休み時間。
俺は大学の講義室を訪れていた。
今日の講義を受けるのはもう四回目だ。
最初からほどんど興味がないものを、もう三度も受けているのだ。いい加減イヤになってくる。内容は毎回変化らしい変化もない。これならお経を聞いていた方がまだ退屈しのぎになるというものだ。
まあ、平和な時間は嫌いじゃない。今夜はいよいよ妖穴に足を踏み入れるのだ。むしろ変わらぬ日常に感謝すべきなのかもしれない。
早めに着いていたので最初はほぼ無人だった講義室にも徐々に人が集まりだしてきた。
俺は気まぐれで買った文庫本を読みながら、訪れる人の顔をチラチラと眺めていた。
段々と違和感が湧いてくる。
いつも早くに来ている本月の姿が、未だ室内にない。
どういうことだろう。
不安が胸を占めていく。
何かが引っかかる。
間違ってるのはわかってる。
でもどうしても本月が来ないのは香夢居が死んだことと関係あるのではと、結びつけてしまいそうになる……。
講義開始五分前に、真琴が講義室に入ってきた。
違和感が加速していく。
いつも無駄なぐらい元気があり余っているのが真琴という男のはずだ。しかし今のヤツの表情は死んでおり、陰鬱な空気を纏わせていた。
「おい、どうしたんだよ?」
俺が声をかけると、暗い顔をヤツは上げた。
「……おめぇ、まさかまだ知らないのか?」
「知らないのかって、何を?」
真琴は生気を失った目を周囲に向けてから、かぶりを振った。
「……ここじゃあなんだ。講義が終わってから話そう」
学校の食堂。
入学してすぐに意気投合した俺と真琴は、四月頃はよくここを訪れていた。
だがメニューが少なくゴールデンウイークに入る前に全品制覇してしまい、以後は来なくなっていた。
ただメニューには良心的な価格が並び、貧乏学生には重宝されている。
そのおかげもあって、食堂内は程よく席が埋まっていた。
俺たちは窓際の席を選び、椅子に腰かけた。
外では雨が降っている。塞ぎ込んだ思いが溢れ出したような雨だ。見ているとこっちまで気分が鬱々としてくる。
さっきからとある二色の傘ばかり見かける。
黒と透明。SNS上でどこぞのアカウント主が『傘の色が就職や出世にかかわる』だとかコメントし、それが瞬く間に広まったせいらしい。まずネット民が率先して傘の色をそろえ、それを見た共感性の強い中高年者が真似し、残りのヤツ等も取り込まれた。
いくらディスコミュニケーションな時代になろうとも、流行は起こりうる。今の雨中の光景はそれを証明していた。
カレーを口に運びながら、真琴の方を見やる。
彼はさっきからずっと、深刻な顔をして俯いていた。
今まで一度だって、こんな顔は見たことがない。2週目の6月に『本月に遊ばれている』と言った時だって、これほどじゃあなかったはずだ。
「なあ、真琴」
「なっ、なんだ?」
「伸びるぞ、うどん」
指差して言ってやった。四月頃、ソシャゲに夢中になってる真琴に一言一句今とまったく同じことを何度も言った。
だが今日のヤツは「ああ……」と生返事をするだけだった。
調子が狂う。カレーのルーがいつもより重く感じる。
そろそろアクセントにと福神漬けにスプーンを向けた時、ようやく真琴はこちらを向いて口を開いた。
「……覚悟をして聞いてくれ」
「覚悟をって……なんだよ?」
「多分、これを聞いたら暁夜はショックを受ける。いや、おめぇじゃなくたってそうなるだろうけどさ」
「聞いてみないことにはなんとも言えないな」
真琴は口を閉ざし、その覚悟とやらを見極めるかのようにじっとこちらを見てくる。
したかなく俺はスプーンを置き、その目を見返した。
長い沈黙が続いた。騒々しい雨の音が一転して静寂の象徴となるぐらいの時間だ。
食堂を飛び交う話声はとうに別世界のものになっている。
食事に戻ろうとスプーンを手に取った時、それを見計らったかのように真琴が言った。
「本月が死んだ」
「えっ……?」
カラン、皿の上にスプーンが落ちた音が響いた。
全てが無音になった。
だが直後に雨の音がさっきよりも何倍も音を増して耳を占めた。
そんな中、真琴の声が聞こえてくる。
「昨日のことだ。早朝に死体が発見されたらしい。死因は不明。葬儀は身内だけでひっそりと行われるとのことだ」
もう言葉を解する機能は故障していた。
理解したのはずっと後、大学を出て一人雨に打たれていた時のことだ。
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