6章 シスターノ詩(うた) ~刻まれ消えぬ記憶の傷跡~

6章 シスターノ詩(うた) ~刻まれ消えぬ記憶の傷跡~ その1

 視界が真っ赤に染まっていく。血のような紅色に。

 息ができない。

 頭が割れそうだ。

 首を絞めつけているものを外そうとする……無理だ。力が強すぎる。

 足をばたつかせるも地に足がつかず、強襲者にさえ届かない。


 このまま首の骨が折れてしまうんじゃないか。

 そう思った時。


「はぁあああああッ!」

 ブォンッ!

 空を薙ぐ音がした。

 直後、首を絞めつけていた力が緩む。

 俺は宙に投げだされた。

 浮遊感。

 徐々に重力の力を身に感じ、落下し、地面に叩き付けられると思った時。

 再び浮遊感。

 そのままゆっくり地面に体が着地する。


「お兄ちゃんっ、大丈夫!?」

 急ぎ駆け寄ってきた雪奈が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 ジャランという音。

 ぼやけながらも戻ってきた視界の中、彼女の手に山伏が持つような錫杖が目に留まった。どうやら今の音はその先にある金属製の輪、遊環から発せられたらしい。


「ったく、こんなザコ共に苦戦するなんて情けないじゃん」

「い、今すぐ治療しますので、その、頑張ってください!」

 その後ろから要津と小租田がやってくる。要津はドデカい鉈みたいなものを担ぎ、小租田は小袖箪笥(こそでたんす)をさらに小さくしたような木製の箱を持っていた。


 彼女はそこから緑色の葉を取り出し、湿布のように俺の首周りに貼っていく。するとすぐさま痛みが和らぎ、ままならなかった呼吸も快復してきた。


「どうでしょうか?」

「ああ、ありがとう。大分楽になってきた」

 ほっと小租田は胸を撫で下ろした。

「俺より、香夢居のことを……」


 そう言った途端、場にいる全員の表情が固まった。

 小租田は今にも泣きそうな表情で俯き、雪奈は真顔でこちらを見据えてきて、要津はそっぽを向き……よく見ると唇を噛んでいた。


謎の空気を払拭すべく俺は笑みを作ってみんなを見回した。「

「なあ、香夢居はどうしたんだよ? 俺と一緒に救ってくれたんだろ?」

「……お兄ちゃん、浦野さん……」

「わたしも全力を尽くしたのですが、その……」


 言い淀む二人の声を要津が遮った。

「死んだよ」

 端的な一言。そのたった4文字が、俺の心にどしりとのしかかる。

「死んだ……?」

「そう。首の骨をぽっきりやられて、即死だったみたいだし」


 記憶がまざまざと蘇ってくる。

 白い布が香夢居の首に巻き付き、目の前で顔が青白くなり、体が冷たくなっていく。

 ああ、俺は確かに見た……。死にかける前にその光景を実際に……。


「あっ……ああッ!」

 喉から勝手に声が漏れ出す。

 脳内が再生される記憶に閉められ、感情を恐怖で寝食していく。

「ぁああっ、ああぁぁああっ……、ゥワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!」


 自身の悲鳴が過去と現在から響き反響しあって、理性と意識を容赦なくずたずたに引き裂いていった……。


   ●


 気持ちが落ち着く頃にはもう夜が明けかけていた。

 峡谷の端で朝日をぼんやり眺めていると、背後から足音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん」

「……雪奈か」

 彼女はこちらの様子を窺うよう、ゆっくりした口調で言った。

「……お墓、できたよ」

「そうか」

「次の6月になったらまた生き返るけど、こういうのはしっかりしとかないとね」

「……ありがとな」

「なんでお兄ちゃんがお礼言ってるの?」

 雪奈は軽く声を立てて笑った。だがそれは見ていると痛ましく思ってしまうほど弱々しいものだった。


 だがそれは俺も同じだ。

 昨晩と気持ちは落ち着いたが、心が荒涼とした大地を抱えてしまったように寒々しかった。

 もう一人でその苦痛に耐えるのは限界だった。


「……なあ、聞いてほしいことがあるんだが」

「うん? 何かな」

 雪奈が隣に腰を下ろしてきた。

 俺は彼女の顔を見ながら、切り出した。

「香夢居とのことなんだが……」




「……そっか。だから下の名前で呼んでたんだね」

 そう言って雪奈は何度かうなずいた。

「……俺がもっと強ければ、香夢居のことを守ってやれた」

「仕方ないよ。むしろ責任は、こういう事態を想定せずに送り出した雪奈にあるよ」

「そんなわけないだろ」

「ううん。お兄ちゃんは悪くない。だから、自分を責めなくていいんだよ」

 雪奈の言葉が、心に沁みてくる。

 視界が涙で霞んでくる。けれどそれはさっきまでの冷たいものとは違い、微かな熱を持っていた。

「うっ、ぅうう……」

「いいんだよ。ここには、雪奈とお兄ちゃんしかいないんだから」

 雪奈は腰を浮かして、俺の頭をそっと胸に抱いた。

 控えめな膨らみが、顔を覆う。とくん、とくんと脈打つ音。

 もう、我慢なんてできなかった。


   ●


 墓に向かう途中、雪奈はふと「あっ、そういえば」とポケットを探りだした。

「すっかり忘れてたよ。はい、これ」

 彼女が差し出してきたのは俺のスマホだった。

「あれ、これ……?」

「襲われた場所に落としてたでしょ」

「ああ、そうだったのか」

 受け取ったスマホで、ロック画面を表示させて時間を確認する。


 6:22。

「いつもだったらまだ寝ている時間だ」

「もうちょっと規則正しい生活を心がけようよ」

「引きこもりにそんな説教を受けるとは思わなかった……」

 ちょっとむくれた顔になる雪奈。

 だがすぐ表情をふっと和らげて言った。


「でもよかったよ。スマホのおかげで、お兄ちゃんのピンチに駆けつけることができたんだから」

「藁にも縋(すが)る思いで電話かけたんだが……。あんなすぐに駆けつけてくれるとは思わなかったよ」

「ちょうど雪奈たちも探索に出てきたところだったからね」

「そういえば、黒木は?」

「昨日は来なかったよ。何か重要な用事だったら悪いし、呼び出さなかったけど……」

 この永遠の6月の脱出より重要な要件なんてないだろうと思ったが、ふとこの前の黒木の尋常じゃない浮かれっぷりが頭に蘇ってきた。


「連絡とかしてみたのか?」

「一応、交換しておいたSNSにメッセージは送ってみたんだけど返ってこなかったよ」

「……六本木にでもいそうだな」

「六本木?」

「いや、なんでもない」

 もしも間違ってたら、ただヤツに汚名を被せるだけになってしまう。

 この想像は俺の胸の内に仕舞っておくことにした。


「あ、ほら。あれがお墓だよ」

 雪奈の指差した先、そこには盛られた土に数輪の花が置かれていた。


 汚れた手を叩いていた要津はこっちを見やり、笑みを浮かべて言った。

「おはようじゃん。もう復活した?」

「復活っていうか……まあ、なんとか立ち直れたよ」

 小租田は肩から力を抜いて、微笑んだ。

「よかったです。とてもショックを受けていたようですので、心配していたんです」

「ありがとな。でも、もう大丈夫だ」


 俺はぐっと握った拳を振り上げて言った。

「また香夢居が生き返る前に、サヤの探索を進めておいてやるっ!」

「おーおー、完全復活じゃん」

「ふふっ。わたしも微力ながら、お力添えしますね」

 雪奈は笑顔で一度うなずいて言った。


「じゃあとりあえずは、せっかくお墓を作ったんだし、浦野さんに何か言葉をかけてあげたいんだけど……」

「葬式ってこと? まあ、ちょっとだけ休んでてって意味ならいいんじゃん?」

「でもこういう場合、なんて言えばいいんでしょう?」

「お兄ちゃんは何か思いつく?」

「俺か? えーっと……」


 考えてみたが、とっさには何も思い浮かばなかった。

 しばらくして、雪奈が言った。

「雪奈ね、浦野さんと一緒にいる時に色々とお話をしたんだけど、その時に好きな詩を聞いたの。それを聞かせてあげるっていうのは、ダメかな?」

「おっ、いいんじゃないか?」

「あたしもそれで構わないし」

「わ、わたしもです」

 雪奈は一度うなずき、墓の前に進み出て膝をついた。


 そっと盛られた土を撫で、優しく静かな声で唱え始めた。


 その詩は単純な言葉ばかり。だがそれが連なることで、とある情景が色彩豊かに頭の中に確かに浮かび、紡がれる意味に心が温かくなってくる。

 桜の花びらが舞う、地面に落ちる――それは終わりであり、だが何かの始まりで。

 それは当たり前のことだけど、とてもかけがえのないこと。


 要津の言う通り、これはある種の葬式なのかもしれない。

 しかし悲しみはなかった。

 誰も泣かず、ただ笑みを浮かべて。

 来たる再会を、心待ちにしている。

 最後に雪奈が言った。

「ゆっくり休んでね、浦野さん」


 ふわっと優しい風が吹いた。それは香夢居が「わかったよ」と答えたかのように俺には感じられた。

 立ち上がった雪奈は俺たちを見回し、毅然とした態度で言った。

「明日の夜から、二つ目の妖穴に挑むよ」

「二つ目?」

「うん。ほら、一つ目の虹色の鍵はもう手に入れたから」

 そう言って雪奈はポケットから赤く輝く鍵を取り出した。

「いつの間に……」

「二つ目の妖穴は一昨日に発見したんだ。行こうと思えば今からでもできるけど、ちゃんと疲れをとって万全のコンディションで挑みたいんだ」


 そう言った雪奈の眼は、香夢居の眠っている墓に向けられていた。

 俺は一度唾を飲みこみ、慎重に切り出した。

「……なあ。その探索に、俺も連れて行ってくれないか?」

 途端、雪奈の顔がさっと青く変わった。

「なっ、何言ってるの!? お兄ちゃんを連れていけるわけないでしょ!」

「雪奈っちの言う通りじゃん。一反木綿程度に苦戦してるような暁夜っちを連れてけるわけないし」

「でもっ……、でもっ!」

 俺は握った拳をブルブルと震わせ、叫んだ。

「仲間が殺されたってのにっ、一人だけ何もせずに留守番なんて、我慢できっかよッ!」


 怒鳴り声に音が吸収されたかのように、場が静まり返る。

 雪奈は思案げに俺と墓とを交互に見やった後、ため息を吐いて言った。


「……わかったよ」

「一緒に行っても……いいのか?」

「うん。だけど、絶対に無理はしないでね」

 強い口調で雪奈は念を押してくる。俺は「ああ、わかった」と真摯な思いでうなずいた。

 もう一度、香夢居の墓を見やった。そこには紫の花が供えられている。

 気になった俺は雪奈に何気なく訊いた。

「なあ、あの供えられた花はなんて名前なんだ?」

「この世界の花にはまだ詳しくないけど。スカビオサによく似てるよ」

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