4章 よすがのソナタ その2
「へえ、そういうことがあったんだ」
俺は本月とのことを全て雪奈に話した。
「前の6月で弄ばれていたと思ったら、実は違った……と」
「ああ。だから今回の世界で、もう一度本月にアタックしてみようと思うんだが」
「それ自体は、別に構わないけど……」
何やら言葉を濁される。
「どうしたんだよ?」
「うん、ちょっと思うところがあってね」
沈黙が室内を占める。
俺はマンデリンを口に含んだ。深い味わいの苦味は、頭が冴え渡るような感覚をもたらしてくれる。
ややあって雪奈に尋ねられた。
「バタフライ・エフェクトって知ってるよね?」
せっかくのコーヒーの与えてくれた効力が失われていく。
「……水泳がどうかしたか?」
訊き返すと、雪奈が大きなため息を吐いた。
「……簡単に説明するとね。バタフライ・エフェクト……別の言い方だとバタフライ効果っていうんだけど、それは要するにカオス理論なんだよ」
「すまんが、広辞苑の簡単の項目に目を通してきてくれないか?」
「つまり、初期条件の些細な変化で結果に大きな変化が生じるかもしれないってこと。バタフライ効果の名称は『予測可能性:ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?』っていう講演のタイトルからつけられたんだよ」
「風が吹けば桶屋が儲かる、みたいなことか」
「……まあ、予測しないことが起こる、っていう意味ではそうだね」
雪奈はホットミルクを一口飲んで続ける。
「それに似たことが、もしかしたら前回の6月、それに今回も起きたかもしれないよ」
「……どういうことだ?」
「お兄ちゃんや、他のリメンバーズの行動によって蝶の風が吹いたかもしれない、ってこと」
リメンバーズ……久しぶりに聞いた単語の意味を、頭の中で想起する。
永遠の6月のリセットに記憶を巻き込まれない者たち。俺と雪奈、それと小租田たち四人のことだ。
「そもそも、人間には実は自由な選択権なんて生まれた時点で失われているかもしれないんだよ」
「でも俺は毎日、色々と考えながら生きてるんだぞ。次にどのゲームをやるかとか、どんなキャラでダンジョンに挑むかとかさ」
「確かに思考は存在する。だけどそれは人間が自由に生きている証左にはならないの」
「考えて行動することが、自由じゃない?」
雪奈は「うーん」と少し考え込んでから、話を再開した。
「……たとえるなら、プログラムみたいなものだよ」
「プログラム?」
「うん。プログラムはあらかじめ命令された通りのことしかできない。格ゲーならキックのコードが入力されていないキャラは、そのコマンドを使えなかったりね」
細い指が、宙に円を描く。そのペースに合わせるように雪奈は話を進める。
「同じことが、この地球上の生物に言える」
「人間じゃなくて、生物ときたか……」
「まあ、条件は同じだし。ちょっと話は逸れるけど、思考や行動規範は周囲の環境によって作られるんだ」
「思考……行動規範に、プログラムか。なんとなく話が見えてきたな」
「わぁ、本当?」
「つまり雪奈が言いたいのは、こういことだろ? 周囲の環境から蓄積された経験で育まれた思考能力、それが実質プログラムみたいなもんだ。だから自主的に選び取ったと思った行動でも、それは実質今までの積み重ねてきた記憶の上にある必然的な結果。生物の一生は結局一本道のノベルゲームをプレイしているのと変わらない」
「うん、そういうこと。だから運命っていう言葉は、あながち出鱈目(でたらめ)じゃないんだよ。人生における全ての出来事はあらかじめ定められているんだからね」
雪奈の言いたいことは理解できた。
しかしその仮説が真実だとしたら……。途端に息苦しくなってきた気がした。
自分の行動や思考、その末に得られる結果さえ全て、誰かの手によって決められたこと。未来に起こりうることも俺が何をしようが……、いや、そのすることが定められているのだから、もはや動かしようがない。変えようがない。生誕から死まで、俺が自由にできることなど一切ないのだ。
人生ってのは、こんなにも窮屈なものだったのか……?
「苦しそうだね、お兄ちゃん。でも『人間の一生はプログラムされたかのごとく全て定まっている』っていう命題が真なら、これほど楽なことはないんだよ」
「どうしてだよ? 自由に生きられないってのは、辛いことだろ」
「だけど行動の全てがあらかじめ自分ではない何者かに決定されているなら、それによって起こる出来事に対して、人は一切の責任を負わなくて済むようになる。だって自由意思なんて存在しないんだからね」
机上にある、さっきまで食べていたケーキの皿。そこにたった一つ残されていた赤い苺に雪奈はフォークの四本の刃を突き立てた。
「雪奈たちはただ、我を捨てて鑑賞者になればいいんだよ。自分という他人が執り行う人生もといショーの鑑賞者にね」
脊髄に液体窒素を注入されたかのように、背筋が酷く冷たくなった。
雪奈は苺の丸く突き出たところをちょっとかじり、再び口を開いた。
「でも人間の行動があらかじめ全て定まっているという理論は、この永遠の6月では通用しないんだ」
「確かに本月も真琴も、タイムリープするごとに違う行動をしてるな」
「当然だよ。雪奈たちが違う行動をしてるんだから」
雪奈は少しずつ苺を食べている。徐々に実に隠れた刃が見えてくる。
「リメンバーズはいわば、現実のバグ……、あるいは変数のような存在なんだよ」
「……定められた行動以外のアクションを起こすからか?」
「そうだよ。人間の行動は周囲の環境によって定められる。その環境というのはもちろん生物も含まれる。だから雪奈たちが以前の6月と違うことをすれば、ルザーたちの行動も自ずと変化するんだよ」
ルザー……、俺たちと違って6月が終わると同時に記憶を失う人たちのことだ。
「ここでようやく本題に戻るよ」
「ええと……、なんだっけ?」
「もー、お兄ちゃんから相談してきたんでしょ。本月さんのことだよ」
「ああ、そうだったな……」
雪奈の話についていくので精一杯で、本月のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「確かに今回の本月さんは6月1日時点では、転入学の意思はないのかもしれない。でも前回の6月1日も同じだったとは限らないんだよ」
「ええと、どういうことだ?」
「バタフライ・エフェクトだよ。雪奈たちの些細な行動の変化で、本月さんの状況や意志に変化を与えた可能性もあるんだよ」
意識がすうっと脳の奥に引っ込んでいくような感覚を覚えた。
自分自身がミクロになり、微かな音や空気の揺れが異常に大きく感じられる。
雪奈の食べていた苺は気が付けばなくなり、フォークは皿の上に置かれていた。照明の光によって四本の刃は冷たく光っていた。
「果たして、以前の本月さんは本当に6月1日……お兄ちゃんと恋人になる前に、転入学の意思はなかったのかな?」
雪奈は顔を傾け、にこりと笑った。
●
俺は部屋に戻り、ベッドに寝転んだ。
スマホの時計を見ると、15:49と表示されていた。
まだ晴れていれば太陽が照っている頃か……、体内時計はそれより三時間は先に進んでいたが。
ソシャゲをするか、家庭用ゲーム機を起動させるかと考えたが、結局どっちもやめることにした。
SNSアプリを起動し、フォロワーの欄を見る。
そこにはもう、本月の名前はない。以前の6月のデータはSNSでは引き継がれない。
当然、ソシャゲと家庭用ゲームのデータもそうだ。
これから1ヶ月の間、どれだけやり込んで進めたところで、次の6月1日には全て今の状態に戻る。
それにソシャゲは、どんなイベントや新キャラが来るかも全部わかってしまっている。
すでに今年の6月は三度目なのだ。いくらバタフライ効果なんてものがあったとしても、ソシャゲのイベントは何ヶ月も前から用意されている。さすがに効力外の期間には働きかけることもできないだろうし、イベントやキャラはどうあっても変わらないということだ。
そんな状況下では、さすがにやる気も起きない。
だったらeスポーツ種目のゲームをやり込むのはどうだろうか。記憶は受け継がれるのだから、やり込めばプロレベルになれるかもしれない……。
そんなことを考えていると、スマホが鳴った。SNSへの着信だ。
どうせ真琴からだろう。
正直面倒臭かったが、同時に興味を引かれた。以前の6月ではこのタイミングでメッセージを送ってこなかった。つまりバタフライ効果で変化が起きたということだ。
結局興味の方が勝ち、俺はSNSアプリを開いた。
予想通り真琴からのメッセージだった。
なんぞやと少しワクワクしながら読んでみる。
『今度合コンやるから、暁夜も来いよ!』
……合コン。
大学生が恋人欲しさにやるという、あの合コンか。
ぶっちゃけ一気にテンションが下がった。
なぜ、どこの馬の骨かもわからぬ輩を恋人にしようと思うのか。
正気の沙汰だとは思えない。
断りのメッセージを送ろうとした時、ふと添付された出席名簿が目に入った。
そこに並んだとある一つの名前が、梅の花に紛れた鶯(うぐいす)のように俺の注意を引いた。
『本月文香(1年)』
……本月が、合コンに?
全然想像できない。イメージに合わない。
そういう集まりなんて興味なさそうだし、誘われても断りそうなもんだが。
主催者に弱みでも握られたんだろうか?
その主催者はどうやら先輩らしかったが、俺の知らない人だった。
とにかく真相を確かめてみねばと、俺は真琴にメッセージを送った。
『本月が参加って、本当か?』
返信はすぐに来た。
『あれ、暁夜って本月と知り合いだったか?』
……しくじった。ここで迂闊な返答をすれば、すごく厄介なことになる。
俺は脳をフル回転させ計算に計算を重ね、返信した。
『今日ちょっと話した。そんだけ』
このそんだけというのがいい。たった四文字なのに、全ての興味関心を打ち消す魔力を秘めている。
さあどうだと得意満面で画面を見やるともう次のメッセージが来ていた。
『おめえもしかして、本月のこと好きなの?』
スマホが手から滑り落ち、ぽすんと枕の上に落ちた。
ため息を吐き、俺も枕に突っ伏す。
恋とケンカは若人(わこうど)の華。
死語だと思っていたが、どうやらまだまだ健在だったらしい。
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