4章 よすがのソナタ
4章 よすがのソナタ その1
過去の喪失を時に思い出す。
二度と戻らないものに思いを馳せ、どうしようもない無力感に襲われる。
あの時にああしていれば、こうしていれば……。
後悔から来る憂鬱に胸が塞ぐ。死んでしまいたくなることだってある。
特に未来に希望が見えない時は。
6月1日10時頃、大学へ向かう途中。
暗澹たる思いが胸中を巡っていた。
雲から糸を引いたかのような雨。
歩く度に靴の裏からいつもと違う感触が伝わってくる。
雨粒のカーテンの先では、黒と透明な傘の群れが微かに揺れている。
ため息。
本当は大学に行っている場合じゃない。この永遠の6月から抜け出すべく、ツユバライの捜索に全力を注ぐべきなのだ。
しかし全てが解決し、この世界が真になった時、まるまる1ヶ月の時間を喪失してしまっていたら……。
その恐怖が、俺の足に迷いという重石をつけながらも講義室へ向かわせる。
……本当に?
俺の心が自身に問いかける。
迷いの正体は、本当にそれであっているのか?
首を大きく左右に振る。冷たく濡れっぽい空気を頬に感じる。
我思うゆえに我あり。裏を返せば、自分自身を意識しなければ、己という存在はたちまち霧散していくということでもある。
ならば不都合なことからは目を背ければ、その事物はこの世界から消え去るとも考えられないだろうか。
普通なら無理だろう。
だがここは永遠の6月。
異常な法則で成り立つここなら、その望みだって叶うはずだ。多分。
自動ドアをくぐり、校内へ入る。
エントランスに続く、駅の改札口に似たゲート。
そこにIDカードを読みこませると、フラップドアが音もなく開く。
俺は脚を引きずるような思いで先に進む。
エレベーターホールまでやってくると、すでに一つのドアが開いていた。
ドアの脇の小さなスクリーンには俺のと、もう一つ別のID番号が表示されている。つまり俺以外にも誰か同じ階へ行くヤツがいるということだろう。
中に入ってソイツが来るのをぼんやり待つ。
床の黒いカーペットと白いざらざらした壁と天井、乳白色の照明。壁には馴染みの階数ボタン――今はもうほとんど使われていないが――と銀色の手すりがついている。
味気ないと言えば味気ないし、芸術美はまるでないわけでもない気がする。物事の曖昧さは混乱を生むが、人を人たらしめているのもまた事実であり、その境界線上を綱渡りのように歩き続けるのが人生だと定義づけることもできる。もしもどちらか一方の考えしか持てなくなった時、その人はある種の死を迎えるのかもしれない。
降水によるセンチメンタルさでらしくないことを思索していると、待ち人がやってきた。
「……え?」
俺は思わず目を疑った。
乗ってきたのはあろうことか、本月だった。
雨に濡れた白いレースのついた傘を手に、彼女はゆったりした足取りで壁際に向かう。こちらへはちらりと視線を向けただけで声はかけてこない。
今の本月には、前の6月の記憶はない。
だから俺への関心はない……はずだ。
エレベーターのドアが閉まる。
大した音も振動もなく、カゴが上階へと動き出す。
本月はじっと、科学者が実験動物を前にした時のような瞳で、モニターの階数表示が変わるのを眺めている。
俺もそれに倣って、数字が増えるのを眺めていた。
ややあってドアが開く。
本月はこちらに見向きもせずにカゴから出ていく。
俺も後に続こうとした時、ふと壁際に白いレースのついた傘を見つけた。さっき本月が持っていたのと同じデザイン。
壁に立てかけて、うっかり忘れたのだろう。そういうところが本月にはあった。
俺はその傘を手に急いでエレベーターを出て、「本月」と名を呼んだ。
彼女はゆっくり振り返り、訝し気にこちらを見やる。その目が、俺が手に持っていた傘へと向けられる。
「これ、忘れてたぞ」
「……そう。ありがとう」
本月はこちらへ歩いてきて、差し出した傘を受け取った。
それから少しこちらを見やり、首を傾げた。
「あなた、確か……沖田君だったかしら?」
「ああ」
「同じ講義を受けてる」
「そうだな」
「ふうん……」
何やら得心がいったようにうなずき、背を向けて歩き出す。
「ちょ、ちょっと待てよ」
俺は引っ掛かりを覚えて、本月を呼び止めていた。
彼女はぴたりと立ち止まり、体ごと振り返った。
「何かしら?」
「えっと、その……」
弱気に先の言葉がまるごと食われる。
廊下の真ん中で立ち止まっている俺たちを不思議そうに眺めながら、何人かが通り過ぎていく。
その間、本月は一言も発さずじっと俺の顔を見てきた。
口の中が渇く。喉にさえそれは達している。
だけど、それでも。
ここで訊かないと、後悔する。
「……なあ、本月」
本月は人形のように反応を示さない。
俺はきっと声が届いているはずだと信じ、続ける。
「転入学するって、本当か?」
しんと音が消失する。
辺りには誰もいない。
本月は薄い桃色の唇を開き、無感情な声で言った。
「いいえ。今のところ、そういう予定はないわ」
肩から力が抜けていく。重かった胸の内が軽くなっていく。
「そ、そっか……」
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
「いや、なんというか、……そんな気がしたから」
「……そう。用件はそれだけ?」
「ああ」
本月は目を何度かしばたかせてから、俺に背を向けて講義室へ歩いていった。
俺は放心したようにしばらくそこに立ち尽くしていた。
●
講義が終わり、真琴の遊びの誘いを断り帰路に就く。
途中、何度か立ち止まって背後を振り返ったが、本月が追いかけてくることはなかった。
何事もなく家に着き、ドアを開けて家に入る。
玄関で靴を脱ぎ散らかし、手を洗ってから二階へ。
雨雲のせいで薄暗い廊下。雪奈の部屋から、薄っすら室内灯の光が漏れていた。
その明かりに、なんだかほっとした気持ちを覚える。
部屋の前まで行き、ノックをする。
すぐに「はーい」と雪奈の声が聞こえ、ドアが開いた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「……どうしたんだ、雪奈?」
「ほえ?」
俺が問い返したのも無理はあるまい。
雪奈は下着売り場で売っていそうな、薄い生地のネグリジェ姿で出てきたのだから。
リボンとかついていて、セクシーというよりはキュートというデザイン。
だがその機能性は凶悪で、全身の肌色がほぼ露わになっている状態だ。一応パンツは穿いていたが、上はネグリジェの心許ない生地に守られているのみ。触れたら肌の温もりをほぼ直に感じることだろう。
「すまん、もしかして着替え中だったか?」
「ううん」
「じゃあ、その恰好でずっと過ごしていたと」
「そうだよ」
絶句。
俺の妹が私室でランジェリーなネグリジェとパンツだけで過ごしていた。
「あのさ、こう……肌寒くないか?」
「ううん。夏が近いからね、雨が降ってても全然平気だよ」
「……ああ、あれか。永遠の6月でどうせリセットされるから、取り返しのつかないことをしてみようっていう」
「別にそんなことは考えてないよ」
「じゃあ、なぜ?」
雪奈は人差し指を立てて右に左に回しつつ述べた。
「ブラジャーを長時間装着するとね、乳癌になりやすいっていう説があるんだ。だから健康のためにもノーブラで過ごしてみようかなって」
「お前の場合、キャミソールでもいいと思うんだが?」
「……大きくなるもん、いつか」
むすっとした表情で睨まれてしまった。
「っていうか、ブラさえつけなければいいなら、服は着てもいいんじゃないか?」
「意外とすっぽんぽん同然で過ごすのって、快適なんだよ。身軽と言うか、開放的な気分になって」
頭がずきずきと痛んできた。
「ねえ、お兄ちゃん。似合ってる、かな?」
はにかんだ様子で問われる。
雪奈が前のめりになったせいで、角度を間違えば中が見えてしまいそうだった。
「どう答えろってんだ……?」
胸の内の苦悩がそのまま口に出てしまった。
「忌憚なき素直な感想が聞きたいな」
体を揺らして「まだかな、まだかな」とワクワクしながら、妹は待っている。自身のネグリジェ姿を見た、兄の胸中の思いを。
これが裸だったら一も二もなく服を着ろの一言で済むし、服を着ているなら可愛いと本心から言えるだろう。
だが下着……しかもネグリジェである。
この絶妙なライン。服とも裸とも言えない、曖昧な境界線。
いかに答えるべきか、頭を悩ませた結果。
「……天使みたいだ」
心の底からの本心が口から出た。
雪奈の顔がぱっと輝く。
「えっ、それって、可愛いってこと?」
「いや、違う」
「え?」
首を傾げる雪奈に、俺は語る。
「ただ可愛いというわけではない。確かにそのネグリジェはガーリーさを意識したロリータ的なデザインだ。雪奈の低身長も相まって、一見するとキュートさ全振りしたかのような空気感になっている。しかしっ! ネグリジェというインナー的な要素、薄っすら見える白く純潔な肌が加わることで、それ等要素は複合的に高め合い昇華し、次の次元へと到達する! それは萌えというレベルを限界突破した、そう、尊いと呼ばれるものである! だが俗人はこう言うだろう『そんなの萌えと一緒じゃね』と。ああそうかもしれない、尊いという言葉が原初時に使用されたのは存在するかしないか不明である、神やそれに類する神秘的なものに対してだからだ。そも、尊いとは『問う』『問い』と疑問二つを内在していることからもわかるように、単語自体が疑問を使用者に投げかけているという、矛盾的構造を成しているのである。だがっ! その疑問を受けてなお、自信を持って口にできるからこそっ!! 尊いという言葉の真価、その者に対する尊敬の念を表現できるのだッ!! ゆえにこそ、感嘆的な萌えと尊いという言葉には明確な線引きがあり、後者は単なる情動だけでなく覚悟を秘めており、絶対的揺るぎない信念を要してもなお自分の思いが正しいと証明したい時にこそ使用すべきなのである――」
とここで眼前の雪奈に向かって、指を突きつける。
「そこでもう一度、雪奈の格好を見てみよう。短い四肢、三つ編みサイドテール、膨らみかけの胸にぽっこりお腹と幼さの象徴を残しつつも、ネグリジェによって色香を出そうという背伸びした格好。本来、自分がまだ達していない高みを渇望する姿勢……さながら戸棚の砂糖瓶に懸命に腕を伸ばしているかのようである。人は寛容な生き物だ、そのやんちゃささえも許し微笑ましく眺める。だが神は違う、かつて人が上位なる存在を目指して立てた塔を打ち壊し、さらなる追い打ちまでかけてきた。だから人は、常に己に問い続けなければならんのである――今の己の行い、思いが正しいのか否かと。この心にある感動が、ときめきが、罪ではないかと。俺は己に問うた、雪奈の愛らしくも艶を求める姿勢に、ときめきを覚えるのは罪かと! その幼き体自体に愛が芽生えてしまうのは、断罪に値しないかとッ!! それでもくつがえらなかった、むしろ強固にさえなった、雪奈の今の姿を愛でることは、何よりの幸福であるとッ!! そこに一片の迷いも疑念も生じえないとッ!! だから俺は全人類に対し、胸を張って陳じよう――雪奈のネグリジェ姿が紛うことなく尊いとッ!!!!!!」
一息に声高に力強く、堂々たる態度で言い切り、雪奈の反応を待つ。
最初はぽかんとしていた彼女は段々と顔を赤く染めていき、ぶるぶると震えだし。
「……きっ、きっ、着替えてくるねッ!!」
勢いよくドアが閉じられ、タンスへと駆けていく音が聞こえてきた。
俺は大きく息を吐き、額の汗を拭い、居間へと向かった。
テレビの前にあるソファに腰かけ、天井を見上げ。
……頭の中に、さっきの自分の熱弁が蘇ってきて。
「……うっ、う、ううう……、ウォァアアアアアアアアアアアッ!!」
恥ずかしさに身悶え、顔を覆ってごろごろとソファの上で転がりまくった。
「なっ、なんだよっ、砂糖瓶に手を伸ばすって! 愛らしくも艶をって! ってか、雪奈の体自体に愛を覚えちゃダメだろーがッ!!」
しかもその一言が引き金になって、雪奈のネグリジェ姿が頭の中に鮮明によみがえってきやがった。
「ぐぅ、うう……!」
全身が心臓になったかのように、一定のテンポで跳ね上がる。
……雪奈、雪奈、雪奈……。
「ダメだ、ダメだ……」
何か別のことを考えようと思って、最初に頭に浮かんだのが本月だった。
「はぁ、はぁ……本月、本月……」
本月の整った容姿、艶やかな髪、すらっとした体形に長い手足を思い浮かべる。
「好きだ……本月っ」
枕に顔を埋め、俺は狂信者のごとく本月の名前を呼び続けた。
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