茜色の願い

 タクシーに乗ったのは何年ぶりだろうか、都会に住んでからというもの、全てのものは手を伸ばせば手に入る位置にあり、あまり長距離を移動することは無かった。僕は大きめのリュックを横の席に置くと、行き先を伝える。運転手は「どうしてそんなところへ」と訪ねたけれど、「用事があるんで」と、無愛想に応えた。


 都会に住むというのは想像していたよりも快適だった。本屋だって探さずとも見つかるし、美味しいものは身近に溢れている。夜は騒がしく仲間と遊ぶ事もできるし、まったりと自室で過ごすこともできる。何から何まで近くにあって、重い腰を上げずとも欲しい物を買いに行ったり、体に異常があればすぐに医療を受けることもできる。


 でも、僕には一つだけ足りないものがあった。それはずっと昔からの趣味で、僕にとって人生だったものだ。


 田舎に住んでいた頃は空を見上げると、無数の星々と輝く月を見ることができた。それは都会に住んでみると、違った形となった。星々の光は人工的なLEDに変わり、月の輝きはオフィスの光にかき消されていた。それもそれで神秘的だとは思ったけれど、やはり星空には敵わないものであった。


方路ほうろ学校の生徒さんかい?」

 運転手が話しかける。

「ええ、そうです。あそこには思い出がありますから、もう一度見に行こうとは思って」

「兄ちゃんも大変やなぁ、あの不祥事のせいでしんどかったやろ?」

「そうですね」


 方路学校が廃校になったのは、今から10年ほど前のことだ。当時、虐待されていた女の子が居たのだけれど、それを教師ぐるみで隠したり、相談をしても対応をしていなかったとして問題となった。


 最悪だったのは、その虐待されていた女の子が死んでしまったことだった。その出来事は当然ニュースにとりあげられ、マスコミは毎日のように訪れた。田舎の小さな学校だったから、当然その話はまたたく間に広まり、学校の評判はみるみる落ちていった。親からの抗議や、ジャーナリスト達の限度のない押しかけ、学校ぐるみでの隠蔽。そうしたことが重なって、子供たちは登校すらままならなくなった。虐待されていた女の子に文句を言う親も居て、「死ぬならひっそりと死んでくれればよかったのに」と、言っていた事もある。たまたま僕はそれを聞いてしまって、思わず殴ってしまいそうになった。


 このようにして、方路学校は廃校に追い込まれることとなった。生徒たちはそれぞれ違う小学校に通うこととなり、僕もその一人だった。

 あれからというもの、僕は家族以外の大人を信用しなくなった。あの暴言を吐いた親も、ジャーナリストも、教師も、校長も、そして世間すら、自分のことしか考えていないような、下劣な存在だと思ったからだった。自分さえ良ければ子供のことなんて関係ないのだろうと、子供心にそう思った。


 廃校になればどうなるかなんて、誰も考えはしない。子供達は仲の良かった友達と半ば強制的に別れさせられ、新しい環境に馴染めず不登校になったり、そうでなくても今まで通りの生活とはいかない者もいた。何より、僕の大切な友達を虐待して殺したのだって、身勝手な大人だった。


 そんなことを思い出すと、手に汗が滲んだ。頭がだんだんと熱くなって、体中の血液が沸いているような不快感に襲われる。


 悔しさもあった。虐待されていたその女の子とはよく遊んでいたからだ。

 何かがおかしいとは感じていた。夏だって長袖に長ズボンであったし、髪はいつもボサボサだった。あまり活発な子ではなかったのに、ランドセルは劣化が激しく、穴すら空いていたのだから。

 そこで気づいてやれたら良かったのに、僕が確信を持ったのは虐待によって死んだという噂話が流れてきてからだった。

 気づいてやれなかった後悔がずっと僕には残っていた。


「もう、十年ほども前ですか」

 僕はぼそっと口に出した。それは心の中にある膿を出したかったのか、それとも何か話を聞きたかったのかはわからない。


「そんな前になりますかねぇ、わたしにとっちゃぁつい先日のように思えちまいますけどね、ところで……」

「なんでしょう」

「いや、ちょいとそのロケットが気になってねぇ、それって結構前にあった万博の記念品じゃなかったですかい?」

「もう、十年以上前の……ですね」

「随分のプレミア品だって聞く。それを身につけるなんて中々肝の座った兄ちゃんやなぁと思ってな」


 それは、ロケットの形をしたロケットのことだった。揺らせばちゃりちゃりとした音が鳴る、若干子供っぽいロケットだ。事実、十年前の万博で五百人の子供に先着で配られたもので、僕はそれを宝物にしている。


 ロケットを持ち歩いているのには理由がある、中には薬を入れているからだ。もうずっと子供の頃から飲み続けているもので、今でも必ず飲まなければならない。ロケットに入れているのは単なる趣味だ、この首飾りと共に過ごした時間が長すぎて、すっかり愛着が湧いているからである。

 

 僕には先天性の病気があった。その病気は日に日に僕を蝕んでいった。まだ幼かった頃の僕は、何度も医者に「今生きていることは奇跡に近い」と言われた程だった。幼心に、僕はもう長くないのだというのを感じていた。


 けれど、六歳ごろだろうか。その病気の進行を抑制する新薬が出来てからは、僕は苦しみを感じることもなく生活できるようになった。ただ、それでも病気を治すまでには至らない。僕の寿命は、せいぜい二十歳辺りが限界だと、そう告げられた。

 母は泣き崩れ僕を抱くと「ごめんね、ごめんね」と謝っていた。僕は何も言葉を発せずに、ただただ母と共に泣くことしかできなかった。それは自分の中の病魔が怖いからではない。大切な家族を苦しめてしまっている罪悪感からだった。

 

 あれから、僕は考え方を変えた。多くて十四年の寿命は、あの頃の僕には長すぎる時間に感じていたけれど、それでも焦りはあった。だから、誰も悲しませないためにも、元気に振る舞う事を決めた。それから、空を見ることが好きだったので、残りの時間を天体だったり、星だったりを見ることに充てることにした。なんの役にもたたないかもしれないけれど、僕にとってそれは希望となった。

 

 僕が死んだら、あの星々の一部になるのだろうかと半ばスピリチュアルなことも考えている。そうやって病気の苦しみから逃れていたかったのかもしれない。


 時は過ぎて一ヶ月ほど前だ、医者から突然の着信があり、僕はすぐに病院へと向かった。そこで告げられたのは、病気の進行によってあと二ヶ月程で歩くこともできなくなるだろうということだった。

 ショックじゃなかったといえば嘘になるが、ある程度、覚悟は決めていた。医者は「やり残した事があるのなら、今のうちにやっておきなさい」とだけ、僕に優しく伝えた。

 

 だから、僕はもう一度あの学校と、そして仲良くしてくれた女の子の墓参りをすることにしたのだ。これが終われば、もう僕の中に心残りはない。


「着きますよ」

 気づけば方路学校の近くまで来ていたようだ。僕はお金を払って大きなリュックを背負うと、運転手に礼を行って、まっすぐ学校へ向かった。


 廃校になった学校はどこか厳かな雰囲気すらあった。夕暮れだというのに子供の声も聞こえない。草木は生い茂っており、荒れたグラウンドが目の前に広がる。風が砂を舞い上げて、それが枯れ草を吹き飛ばしている。校舎にも木や蔦が巻き付き、誰も出入りしていないことを密かに暗示しているかのようだ。


「帰って……きたのか」

 僕は立入禁止の看板を無視して中に足を踏み入れた。雑草が邪魔で前に進むのもやっとだ。十年が過ぎたとはいえ、ここまでなるのかと内心、思った。

 一枚、写真を撮った。病室で眺められるように、最後の最後まで忘れないように。ここが僕の学び舎であった記録を残しておきたかったからだ。


 数枚ほど写真を撮った後、僕は近くの山奥へと歩いていった。この近所ではお墓を建てるといえばこの山のひと目につかないところであった。といっても、僕が向かうのは墓地ではなく、納骨堂の方だ。二十年ほど前に作られた比較的新しい納骨堂である。

 

 納骨堂に入ると、中は空調も聞いていて快適だった。けれどその重くのしかかる雰囲気と、静まり返った空間に圧倒されることになった。

 その空気をふりきって、目的のところまで歩く。歩みを進める音が、時の止まった納骨堂の中に響く。それ以外には、何もない静寂だけがある。黒と金のロッカーが立ち並び、それらそれらが一人の人生の終着点であることを偶感させる。

 そうして、目の前にあるロッカー状の扉を開けるのだった。


「朝美……ごめんな、遅くなって」

 目の前には朝美の写真と、ボロボロになった人形と、僕のプレゼントしたキーホルダーが置かれていた。

 写真の中の朝美は、あの頃と変わらない笑顔を見せている。それを見た途端、あの頃に——まだ朝美の生きていた時に戻ったような感じがして、思わず全身の血が沸き立つような感覚に襲われる。僕は、そっとポケットからくしゃくしゃの新聞紙を取り出すと、それを写真の横にゆっくりと置いた。


「あの時、朝美は来てくれていたんだよね?」

 思い出して、手を強く握りしめる。気づけば、頬を温かい液状のものが伝っているのを感じる。

「一緒に小惑星を見られて、本当に良かった。ずっと、そう伝えたかったんだ」

 心の中に溜まっていたものが、声として溢れる。

 小さな公園で、僕は朝美が居るように振る舞いながら小惑星を観察していたのを思い出す。それはただのフリだったけれど、きっと朝美に届いていると信じて、ずっと演じていたのだ。


「ごめんな、ずっと……気づいてあげられなくて。僕も、もうすぐそっちに向かうことになると思う。もし、そこで出会ったら……また、一緒に星をみよう」

 そう発した途端、足元が崩れるかのように力が抜けた。ずっと感じていた罪悪感が、一気に体の外へ放出されるような感じがした。

 あの時から、僕の時間も止まってしまっていたのかもしれない。時の止まった納骨堂の中で、僕の時間はゆっくりと動き出した。そんな気がしていた。


 これで、最後の時を僕は穏やかに過ごせるだろう。もう、心残りは無い。


 茜色に染まった空を見上げて、僕は小惑星を探していた。

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