谷中

「この間、姉貴が言ってた《松花堂》という和菓子屋はここ」


 保が指差したのは、歴史を感じさせる風情ある日本家屋だった。小さな交差点の門で暖簾を下げる趣ある和菓子屋だ。


「そうなの……」


 みちるはキョロキョロと辺りを見回した。


 拾われたあの日からひと月ほどが経っていた。身の回りのものもだいぶ落ち着いた為、未だ外出していなかったみちるを保が外に連れ出していた。


 星児と保の住まいであるマンションは台東区の谷中という場所にある事を、みちるは今初めて知った。


〝流れ者〟みちるにとっての東京は、あの歓楽街でしかなかった。


 多くの寺がある谷中。夕方には、何処かの寺の境内で打つ鐘の音が聞こえてくる。軒先で昼寝をする猫が見られた。ゆっくりとした時間が流れる街だ。


「東京の真ん中でもこんなとこがあるんだね」


 みちるにとって、きらびやかな街で暮らすイメージがあった星児と保だけに意外だった。


「俺達は、もともと田舎から出てきた人間なんだ。だからギラギラの大都会になんて、ホントは住めないんだよ」


「……ギラギラ」


 フフッと笑ったみちるだったが、自分の考えの先を取られた事にすぐ気付き、保を見上げる。


「また保さんに心読まれてしまいました」

「みちるは単純すぎです。顔に書いてあります、いっつも」

「えー」


 みちるは両手で顔を隠しながら指の間から目を覗かせた。それを見て保はハハッと笑った。


 星児は夜型、とはいえ昼夜問わず働いておりあまり家にはいなかった為、同居生活は自ずと保と過ごす時間が多くなっていた。


 実際のところ、ひと月経っても星児の仕事をみちるにはよく分かっていない。それに対し、保の仕事は某高級外車販売店のディーラーという事が直ぐに判明した。


 外回りの営業が多く、近くに来た時は家に寄り、みちるの様子を見に来てくれた。


 料理を始めとする家事全般をこなせる保。みちるはそれらを教わりながら手伝いをし、という生活の中で保は至極身近な存在となっていった。


 今日は営業を終えそのまま帰宅した保が外に出た事のなかったみちるを連れ出していた。


「ほら、そこに懐かしい感じのお煎餅屋がある」

「あ、ホントだ」

「ちょっと待ってろ」

「え?」


 保は自分で指差した煎餅屋の店先に走って行った。キョトンとするみちるの前に戻って来ると、手の平サイズの紙の袋に入ったお煎餅が手渡された。


「はい」

「ありがと……あ、まだ温かいよ?」

「この時間はね、ちょうど焼きたての煎餅があるんだ、あの店」


 そうなんだ、と焼いたお醤油の香ばしい香りに幸せそうな表情をみせたみちるを見て、保が優しく笑う。


「ウマイか?」


 一口かじるみちるに保が聞く。


「うん」

「よしっ」


 頭を撫でられたみちるは満足そうに微笑む保を見て、そういえば、と思う。


 初めて夕食を食べさせてくれた時もそうだった。


「さて、次は」と腰に手を当て考える保をみちるはさりげなく見上げた。


 ちゃんと見上げないと顔が見られない、スラリとした長身。目鼻立ちのハッキリの顔。


 ちょっぴり、童顔、ですね。お煎餅をかじるみちるの心が心地よい温かかさに抱かれていた。


 フワッとみちるの脳裏を過った星児の姿に胸がキュッと締め付けられた。


 星児さんは、苦しい。うつ向いたみちるの顔を保が覗く。


「歩こうか」

「うん……」


 柔らかな笑顔が今締め付けた心を優しく解してくれた。


「あ」


 ゆっくり歩き始めた保とみちるの前を、日暮里駅から出てきた学校帰りの女子高生達が通り過ぎて行った。楽しそうにお喋りをしじゃれ合う彼女達は、みちるにはキラキラと輝いて見えた。


 自分には、もう決して訪れる事のない瞬間に、彼女達はいる。眩しさと息苦しさに視線を反らしたみちるに保はさり気なく聞く。



「みちる、あの街に来る前の友達とかは?」


「……いなかった、かなぁ……多分」


 サーっと幕が引かれたように記憶が塞がれた。


 あれ、私は何処から?


 優しい手がみちるの手を握った。顔を上げると保が前を見たまま静かに言った。


「ゆっくり」

「え?」

「ゆっくり、少しずつみちるの話、聞かせてくれればいい。勿論、無理にとは言わないからさ。話せる気持ちになったら、でいいんだ」

「保さん……」


 みちるは保に笑みを返す。手を繋ぎ、ゆっくり歩き出すと保は続けた。


「みちるには、あの子達が過ごすような時間は確かにないかもしれない。でも、みちるにしか過ごせないような密な時間がこれから沢山あるから。他の誰もが過ごせないような。ごめんな、上手くは言えないけど」


 保の言葉は乾いた砂に水が染み込んでいくように、みちるの心を潤してくれる。握られた手が、大丈夫だよ、と言っていた。


「うん」


 胸の奥、芯がジンと熱くなり、溢れそうになる涙を必死に堪え、みちるは保を見上げ笑った。






 みちるの精一杯の愛らしい笑顔に保もニコッと笑って返したが、胸に去来する想いは複雑だった。


 家出し、あんな夜の街をさ迷っていたみちる。どんなスレた子かと思えば、ひどく不器用で純粋で、寂しがり屋な少女だった。


 星児がみちるをどうしようとしてるのか。もう、傷つきたくはないよな、みちる?


 不意に、保の中に疑問が生まれた。


 これは情か。それとも。


 いや、と保は内心で首を振った。


 情だ。ただの、情。一緒にいる時間は長いから生まれた、情だ。


 保はふと思った事を呟いていた。



「過去は、みんなそれぞれだもんな」


 保の言葉に小首を傾げ、人差し指を顎に当てたみちるに保は微笑んだ。


「お互い、少しずつ話していこうな」

「はい」


 笑みを交わし、繋いだ手を振りながら先へと進む。保が「さあ次は」と指差した先には夕焼けに染まる賑やかな商店街の入り口があった。


「谷中銀座でコロッケでも買うか~」

「はーい」


 このまま。このままでいいかもしれない。


 ふと浮かんだ想いを保は頭を振り、搔き消した。

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