1987年5月 雨とネオン

 一九八七年五月


 出遭いは最初の三角点となる。




 雨の歓楽街。まばゆいネオンが煌めく眠らない街、新宿歌舞伎町を少女はアテもなくさ迷っていた。


 おなか、すいた。住むところを、失った。

 ほんの少しの着替えが入っただけのバッグを1つ。けれど、財布は空っぽ。


 目に映り込むネオンの光は雨に濡れた路面に反射し輝いていた。


 虚飾の灯りは、冷たく生気を感じない。夜のこの街を、傘も差さずに歩く少女の姿は異常だったが、彼女に声を掛ける者はいなかった。


 不意に腕を掴まれた少女は人通りの少ない汚い路地裏に一瞬で引き込まれた。


「……きゃっ!」


 コンクリートの壁に叩き付けられた身体に恐怖という震えが走る。


「なんだぁ? お嬢ちゃん、行くとこないのかなー?」


 この場所に引き込んだ男は、まだ少女の腕を掴んだままだ。薄暗い中で彼女は目を凝らし、腕を掴む男の背後に数人の男の姿を確認した。


 ドクドクという激しい鼓動に心臓が壊れてしまいそうだった。叫びたくとも喉の奥が張り付いたように塞がって声がでない。


 ガクガクと震える少女を男達の冷笑が押さえ込む。


「こんな時間にこんなとこ1人で歩いててよぉ。襲ってくださいって言ってるみてーなもんじゃねーか」

「ヤるだけヤったら剣崎んとこにでも売り付けようぜ」

「へへへ、そうだな」


 男達の不快な笑いがビルの壁に囲まれた狭い路地裏にこだました。


「や……っ……はな……っ!」


 乱暴に押し倒され、手足を押さえつけられた少女は必死に叫ぼうとしたが、思うように声が出ない。


 抗う少女の力など赤子に等しく、ビリビリと布を引き裂く音と共にまだ幼い躰が露になった時だった。


「悪いけど、お前らの汚い手垢が付いた女なんて、星児は買わないぜ」


 響きの良い低い声が路地裏に響き、男達の手が止まった。


「兵藤……」


 振り向いた男が舌打ちと共に吐き捨てるように呟いた。


「今ならまだセーフだ。買ってやるよ、その女」


 薄暗がりの中、少女に群がる男達の背後に立つ長身の男。


「これ持ってとっとと失せろ」


 兵藤と呼ばれた男は財布から札束を出して見せた。


「チッ」


 少女を一番初めにこの路地裏に連れ込んだ、リーダー格と見られる男が兵藤の手から乱暴に札束を受け取った。


「お前ら、行くぞ!」


 顎を上げる仕草をする。


「そんな汚ぇガキ、この金額に見合うモンでもねーかもな」


 去り際、男は兵藤の耳元でそう言い、ケケケと笑った。




 取り残された少女は胸元を腕で隠し、壁を背に座り込んでいた。未だガクガクと小刻みに震え、兵藤を怯えた瞳で見上げている。


 兵藤は少女に近づきながら着ていたジャケットを脱ぎ、彼女に羽織らせた。


「何もしないよ」


 静かな、感情を読ませない低い声だった。少女は警戒したように顔を強張らせたままだ。


「立てるか?」


 小さく頷いた少女に兵藤は手を差し出し、静かに立たせた。


「お前、行くとこないのか?」


 彼女はまた頷いた。歯の根が合わない程震える彼女は声が出ない。


 兵藤はまだ幼いこの少女が遭遇した恐怖を想い、肩を竦めた。


「一緒に来るか? とりあえず、ここにいても仕方ないだろ?」


 顔を上げた少女の顔には驚きの色が浮かんでいた。まだあどけないその顔を見て兵藤は考える。


 星児はこんな時どうするだろうな。




 兵藤保の相棒であり、ボスでもある剣崎星児の事務所はこの歓楽街の外れにある雑居ビルの三階にあった。


 エレベーターの扉が開くと、スーツ姿の厳つい男が2人。彼等は保に「よお」と挨拶をし、その隣にいた男物のジャケットを着た小柄な少女に目をやった。


「なんだ保、その女。まだガキじゃねーか」

「ああ、拾った」

「ひろった!? んじゃ後でこっちに回せよな」


 ヒヒッと笑いながら言った男の言葉に、少女がビクリと震えたのが保には直ぐに分かった。


「この子はそういうんじゃねぇよ」


 低く、凄みの効いた声だった。保の迫力に、卑下た笑いをその顔に貼り付けたまま男達は思わず黙る。


「……な、なんだよ、マジになってよ。わーったよ」


 そう言い、フンッと彼等はエレベーターの扉の向こうに消えた。


 何故か、なんて分からない。ただ、この少女は守りたい、守らなければ。そう思ったのだ。


 保の中に湧いた気持ち。その気持ちが、自分でも驚くような言葉を口から放たせていた。



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