4

 無事に事務所まで辿り着いたロックは、すぐにエヴァを風呂場へ入れ、その間に諸々の準備を済ませることにした。


 久しく目に触れていなかった女物の衣類を引っ張り出し、湯を沸かし、チェストに立てかけた遺影をそっと自分の服が仕舞ってある箪笥に隠す。


「あのぉ、すいません」


 イヴにまつわる小物の整理をしていると、風呂場から困ったような声が聞こえてきた。


「トリートメントは、ないんでしょうか」


「……男二人住まいなんだ。今日は我慢してくれ」


「あ、そうでしたね……すみません。ご厄介になっているのにわがままを……」


「いや、構わない。タオルと替えの服を置いておく。自由に使ってくれ」


「ありがとうございます」


 シャワーの音に混じって鼻歌が聞こえてくる。


 耳を澄まして聞いているだけで荒んだ心が洗われるようだった。


 きっとそれは、彼女の声が似ているから、という事実も多分に影響している。


「そういやぁ、イヴも好きだったな」


 機嫌のいいときに聞かせてくれたイヴの歌声が好きだった。ロックがギターを鳴らし、ダインは興味がないふりをして小難しい小説を読みながらも耳をそばだてていたあの頃の記憶が瞼の裏に蘇る。


 他愛のない退屈しのぎは、いつしか掛け替えのない思い出になってしまった。


 彼女の歌声に添えるギターの音色はもうない。


 イヴを焼いたとき、ギターを一緒に天国へ送ったから。


 それに、弦を弾くには、この手は汚れすぎてしまった。


「……そろそろ上がるか。飯を準備しないとな」


 ジャケットを脱ぎ、ラフな格好に着替えたロックはキッチンに立つ。


 たいした腕前ではないが、ホストとして飯くらいは提供しなければ。


 風呂上がりのエヴァが恐縮しきった様子でキッチンにやってきた。イヴと瓜二つだから、近くに寄られるだけでどぎまぎしてしまう。同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてここまで違う香りが漂ってくるのか。


「あの……色々とありがとうございます。男物の服じゃ、ないんですね……」


「ん、ああ。そいつは妹のだ」


「そういうことですか。妹さんは、いいのですか?」


「……まぁ、気にすんな。もうこの世にはいないんだ」


「…………気にするな、というほうが無理ですよ、それは」


「悪い。本当に気にしないでくれ。もう過ぎたことだ」


 適当に誤魔化してしまえばよかったかとも思ったが、どうせダインが戻ってくれば隠し通さずにはいられなくなるのだ。中途半端に隠してあとでばれたり、変に勘ぐられて余計な気遣いをされるよりはずっといい。


「喉渇いたろ。ココアでいいか」


「え、あ……、その……」


「遠慮しなくていい。事務所に連れてきたのは俺だ。リビングで適当にくつろいでくれ。つっても、娯楽になるのはラジオかテレビくらいしかないがな。ソファーが煙草臭いかもしれんが、そこは勘弁してくれ」


「……ご厄介になります」


 ぺこりと頭を下げたエヴァは、ホットココアの入ったマグカップを握ってリビングへ向かうと、クッション性の強い革張りのソファーに身体を沈め、ココアを啜りながらその眼を窓の外へ向けた。


 彼女にとって激動の一日だったのだろう。


「そろそろ飯もできる。軽く食べたら横になったほうがいい」


 沸騰した大鍋にパスタを二束突っ込んだ。平行してフライパンに火をかけ、油を敷いて、刻んだピーマンやウィンナーを炒めておく。


「食事まで……ありがとう、ございます」


「野暮なことかもしれないけど、一人でうろついてたのか」


「……そう、みたいですね」


 その言い方が引っ掛かった。


「……これまでの記憶が、ないんです」


「そう、か……」


 そんなことだろうと思ってはいたが。


「名前以外、なにも、思い出せなくて」


 どこか投げやりで、諦めたような声音だった。


「気付くとこの街にいました。あてもなくふらついていたら、怖い人たちに捕まって、変なところへ連れて行かれそうになって……そこで、ロックに助けられました。あのときはお礼も言えずに逃げてしまって、すみませんでした」


 記憶喪失で混乱しているところを拉致されかけたのだ。襲った側も救った側も区別できず、恐怖でいっぱいになってその場から逃げ出してしまうのは無理もない。


「あの後、ずっと公園の茂みに隠れていたんです。どうしようもなくて、どうすればいいのかわからなくて……そしたら今度は、白装束の人たちに見つかって……」


「……つまり、どうして追われていたのかもわからないってことだよな」


 エヴァは力なく首を横に振った。


「理想郷がどうのこうのとか、れふぃくーる?様に捧げるとか……そんなことを呟いてました……」


「レフィクール……」


 忌々しい名前を耳にして、ロックは渋面を浮かべた。


 ダインが戻ったら、色々と話し合う必要がありそうだ。


 エヴァからも、もっと話を聞かなければならないだろう。


 だが、その前に。


「飯にするか」


 茹で上がったパスタをフライパンに移し、ケチャップを入れて強火で炒める。


 食欲を掻き立てる香りが鼻孔をくすぐる。匂いにつられたように、エヴァが弾んだ声とともにリビングからやってきた。


「ナポリタンっ!! 私、大好きですっ!!」


 ――だろうな。


 エヴァも好きだった一品を作ったのは、随分と久しいことだった。




※※※




 疲れが溜まっていたのだろう、ナポリタンを平らげたエヴァはそのあとすぐに意識を落としてしまった。


 ソファーに身体を沈めたまま、安らかな顔をして、静かな寝息をたてている。


 後片付けを終えたロックがブラックコーヒーを煎れて一息ついていると、悄然とした様子でダインが戻ってきた。


「……おう、戻ったか」


「こんな役目、引き受けなければよかった。とんだ大誤算です。まさかあんなに白装束がいるとはね。今日だけで三桁は殺しましたよ。まったく、どいつもこいつも本当に理想郷とやらを信じているんですか。ふざけてますね、まったく……」


「手間をかけさせちまったな」


「お義兄さんのお節介に巻き込まれる身も考えてください。……それで、例の彼女はどうしたんです?」


「エヴァならソファーでぐっすり眠ってるよ。色んな奴らに追っかけ回されて疲れてたみたいだ。ベッドに移そうとも思ったんだが、あまりにも気持ちよさそうにしてるから今日はここで寝かせることにした」


「そうですか」


「寝顔、見てみるか? きっと驚くぜ?」


「いまさら他人の顔を見て驚くやつがありますか。僕ら、五千年も生きているんですよ。パーツが欠けたものから潰れて原型を留めていない顔まで、ごまんと見てきた」


「……まぁ、見てみろって」


「ちょっと……っ、これ、お気に入りのジャケットなんです、引っ張らないでください。しつこいですね……わかりました、見ればいいんでしょう、見ればっ!!」


 ジャケットを脱ぎ、「まったく……」と目を眇めてエヴァの寝顔を覗き込むダイン。


 ソファーの背もたれに手をかけ、彼女を覗き込んだまま、唖然としたように固まった。




「………………………………え、なっ」


 たたらを踏んだダインは、そのまま腰を抜かしたように尻餅をついた。


 見開かれた双眸に浮かぶ動揺は計り知れない。


「な、んで…………そんな…………っ!!」


 声にならない悲鳴のようだった。

 いまにも泣き出しそうな顔をして、小さく首を左右に振る。


「冗談、でしょう…………っ」


「名前はエヴァーガーデン、というらしい。名前以外の記憶はないんだとさ」


「……彼女は、イヴだ」


 それはどこか、そうであってほしいと懇願するような響きが宿っていた。


「だって、こんな……あり得ない、ですよ。そっくり、なんてもんじゃない……」


「気持ちはわかるが、エヴァ、なんだよ。イヴじゃねぇ。どれだけ外見が似ていようが、死人は戻らない。それは世界の絶対法則だ。それこそあり得ねぇ」


「そんな絶対なんて、存在しませんよ……。現に、時間という流れが延々と同じ一ヶ月を繰り返しているんです。故人が息を吹き返すことくらい、わけないでしょう。世界の法則なんてもの、とっくのとうに壊れてしまっているんだから」


「世の中には自分と姿形がそっくりな人間が三人いるって言うだろ?」


「だからって、泣きぼくろの位置までまったく一緒なんてあり得ない!!」


「そうかもしれねぇ。けど、彼女はイヴじゃねぇ。これは厳然たる事実だ」


「…………っ」


 ぎりっ、と奥歯を噛みしめる音が聞こえるようだった。


 よろよろと立ち上がったダインはエヴァが眠るソファーから離れ、こめかみを押さえるようにして寝室へ。着の身着のままベッドへ倒れ込んだ。


「イヴのことは少しだけ話した。服を貸しただけなのに、申し訳ないだなんて謝ってきてな」


「……あんたって人は、とことん最悪ですね。なんですか。僕へのあてつけですか」


「釘を刺してんだよ。間違ってもイヴって呼ぶなよ」


「……明日、我慢すればいいことでしょう。それくらいだったら――」


「記憶喪失の女の子をほっぽり出すのか? それも、やつらに追われているってのに」


「冗談はよしてください。彼女、ここに暮らすってことですか!?」


「この状態のエヴァをほっぽり出すほうがよっぽど冗談だろうが。明日になったらハイサヨナラ、あとは塔都でお好きに強く生きろってか。野垂れ死ねってか。それともなんだ、捕まって、強姦されようが奴隷にされようが構わないってか。お前、いつからそんな薄情になっちまったんだよ」


「考えなしのあなたに言われたくはないですね。次の一ヶ月はどうするんですか。身寄りがない、そして奴らから追われているということは、もはや普通の生活なんて望めない。そんな彼女……エヴァさんをまた保護するんですか? 延々、その繰り返しをするってこと、理解しているんですか。責任を持つというのはそういうことですよ」


「彼女をどうするかはこれから考えるさ。まずは落ち着ける場所を与えてやるのが一番だし、そうしたら次はなんでエヴァが追われているか解明する。それで原因……いや、この場合はエヴァを狙う奴らをどうにかする」


「……思考レベルが小学生ですか。無期懲役も死刑も意味がなくなった世界なんですよ、私刑でどうにかできると本当に思っているんですか」


「だから、これからちゃんと考えるって言って――」


「だからじゃないでしょう!!」


 ロックが宥めるような口調が苛立たしくなり、ダインはベッドに拳を打ち付けた。


「そもそもエヴァさんを人身売買しようとしていた連中だって、以前にあなたが痛めつけたのに犯罪を繰り返したんですよ!? 後先考えず、中途半端に手を差し伸べて、いま僕の前で言ったことを完遂できる根拠があるんですかっ!? 下手に与えられた希望が絶望に変わる瞬間……これが、もっとも堪えるんですよ、人間はっ!!」


「落ち着け、ダイン。確かにお前が言うとおり、この一ヶ月を乗り切ったあとのことは」まだ名案がないのは事実だよ」


「だったら――」


「けどな、目の前で困ってる誰かを平気で見捨てるほど落ちぶれたつもりもねぇんだよ。それに……エヴァを狙ってる奴らの正体もわかってる。目的さえ知ることができれば対処ができるかもしれねぇ」


「……まさか、やつらを相手取るつもりですか」


 ほとんど閉じかけだったダインの双眸が見開かれた。


 碧眼に浮かぶのは、永劫の檻という名の地獄で煮えたぎった憎しみの焔。


 そして、悲哀に満ちた、どこまでも冷徹な薄闇。


「……ああ」


 ロックは厳かな面持ちで頷いた。


 腹の内を探る相手など、もはや互いに確認するまでもない。


 塔都を越え、いまや世界最大派閥となった、教祖レフィクールを頂点とする白装束集団。


 その正式名称を、塔都理想教会とうとりそうきょうかいといい。


 ロックとダインにとっては、切っても切れぬ因縁のある組織だった。

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