4
アパートを出て、歩道を歩いた。
寺の方角は覚えている。真っ直ぐに進んでいけば、見えてくるはずだ。歩道を通るのは、田んぼは変な罠が仕掛けられていると判断したからだった。見つかるリスクは高かったが、罠に比べればどうにかしようはある。
「彩佳……」
こんなことに巻き込んで、ごめん。
ふくみは心のなかで謝る。
簡単な任務だからって、危険には変わりはなかったのに、止めもしなかった自分の責任だ。なにが簡単だ。過去最悪と言ってもいいくらいに追い詰められているじゃないか。全部、全部、全部自分のせい。
ただ歩いていると、自己嫌悪に押しつぶされそうになった。
夜風が寒い。肌の表面をナイフで削られているみたいだ。
高根沢は歩道にも罠を仕掛ける。
引っかかれば矢が飛んで行くだけの簡単なものだ。作り方はインターネットで仕入れた。通販で材料は調達した。初めてにしては、なかなか質の高い罠を構築できた気さえした。
歩道に仕掛けていれば、他の町民ですら引っかかって怪我をする。だけどもうそんなことはどうだって良い。高根沢の目的は、茅島ふくみの始末。ただそれだけ。町民が最悪、死んでしまおうが、知らない。勝手に死ねばいい。
「ルノミさん」
全ては、好きな女のために身を捧げるだけの行為。
なにか不味い予感がして、茅島ふくみは飛び退いた。
同時に、耳には奇妙な断続的な電子音が響いた。
電子センサー。しまった。見つかった。
数秒もしないうちに、町民らが集まってきた。
逃げ場は、後ろしか無い。だけど、一刻も早く寺へ向かわないといけない。逃げ出している暇なんて、ないのに。
町民を束ねているような男が、前に出た。その後ろは、五人ほど。それほど多くはないが、もちろん制圧できる術はない。
「お前が、茅島ふくみか」
「……誰よあんた」
男は返事もしないまま合図を出す。町民が、一斉にふくみに向かった。
逃げよう。どこかから回り込めば良い。そう考えた。
走った。脇道に入る。ここから、寺への道が繋がっていればいいが、地理関係はよくわかっていない。
「待て犯罪者!」
「逃げるな!」
追ってくる町民から、罵声を浴びせられる。
知るか。
大丈夫。そんなに、奴らの足は速くはない。もともとふくみは、運動には自信のある方だった。いくら体調がどん底だとは言え、そういった連中に捕まるような彼女ではなかった。
と、
なにかに足を引っ掛けた感覚。
止まる。
鼻先を、何かがかすめていく。
塀に当たって、コンクリートに転がる。
矢?
木材を削って作られた、矢だった。
先端には何かが塗ってある。
畏怖。
そこで考えに至る。
さっきのあの男が、これを仕掛けたのだろうと。
「頭おかしいんじゃないの……」
気にしている暇はない。走れ。捕まったら殺される。
別のアパートの脇をすり抜ける。
すると、窓が開いた。
「出ていけ!」
「町を壊すな!」
「糞女!」
石が、顔めがけて飛んでくる。
とっさに手で庇って、突き進んだ。
背中に当たる。倒れ込みそうになりながら耐えた。
惨めだ。
もともと崇高だという意識はなかった。だが、ただただ惨めな気持ちが募っていった。
――不健全な状態。
その言葉の意味を、本当に理解できたような気さえする。
ここは、蝕まれている。町民がひとり残らず、ルノミという女に。
こいつらをそれから開放しようとして、なんとか頑張ってきたつもりだった。
だけど誰もルノミの元を離れたがっていない。
なにしてるんだろう、私。
嘆きたくなった。
いや、そんな大義名分や任務の単なる名目なんかどうだっていい。
彩佳のことだけを考えろ。
あいつらは、彩佳に害を与える敵だ。
「じゃあ行ってくるよ」
大楽良和は、町に危険な部外者が入り込んだと聞いて、すぐさま支度を済ませてルノミのいる寺へ向かおうとした。
だけど、そのまえに家族への挨拶を忘れるわけにはいかない。別に、これが職業ではない。単なる町内会の集まりに分類される。大楽はそのリーダー的な立場を任されるが、取り立てて仕切ってもいない。
町内会の活動はルノミの世話が主だった。彼女を幸せにしておくのが、町民全体の幸せにつながると、大楽が最も理解していた。
それを破壊しようとする者がいるとなると、少々手荒になったとしても、摘み取らなければ安心して眠ることすらできない。
愛する妻。いつもこういった時には、心配してくれている。
模範的な幸せを、提供してくれる妻。
大楽はそれに答えているという自信はあったし、そうしないといけないだろう。
「遅くなるの? 仕事じゃないんだし……適当に断っちゃだめなの?」
「だめだ。この町に危害を加えようとする人間は、排除しないとな……。子どもたちに危険が及ぶのが一番怖いだろう。それに、君だって安心したいだろう。大丈夫さ」
「……わかった。寝ないで待っておくわ」
「いいって、そんなの」大楽は笑う。
愛する妻と子供のことを考える。
そして愛する地元のことを考える。
どんなやつか、何もわからない。だけど、体力には自身がある。武器を持て。負けるはずがない。
妻と子供を、愛しているが故に負けたくはない。
線路の方へ、ふくみは逃げた。
かなり巻いたはずだが、一人だけしつこいのがピッタリとついてきている。あの目立つ男ではなかった。足が速い。このままでは、いずれ追いつかれる。
ふくみは脇道に入った。男も迷わず追ってくる。
その瞬間をめがけて、蹴った。走ってくる勢いと、不意を突かれた衝撃で、男は叫びながらひっくり返った。
「ああ!」
ふくみは上から踏みつけた。
「はあ…………はあ……騒いだら……殺すわ……」
「やめろ……何するんだお前……!」
「彩佳は……無事?」
「俺たちは……現実に戻らないといけないのかよ! やめろ! 何の権限があるんだ! 俺たちは……素直に暮らしてるだけじゃねえか!」
「な……何を言ってんの」
「お前たちが悪いんだ! 俺たちを放って置いてくれ! 俺たちは、静かに暮らしたいだけだ! そっとしておいてくれ! 嫌だ! 現実なんか嫌だ!」
「うるさい……あんたたちは彩佳に酷いことをしてる。それだけで十分重い罪だわ!」
蹴った。踏みつけた。踏んだ。踏んだ。何回も。
男は気を失った。
「…………」
自分が破壊者になるような感覚すらあった。
忘れろ。足の感覚は。こいつらの背景は。人となりは、家族構成は。全部忘れろ。全部。
「こっちだ! 来てくれ!」
町民に追いつかれていた。
また逃げる。
このまま寺まで行くべきだ。そう思った。
だけど、さっきまではしなかった音が聞こえる。
――バイク!
あの目立っていた男が、バイクに乗りながらこちらへ突っ込んできていた。
追われる。塀を登って道を突っ切る。石を投げられる。知らない。歩道に出る。バイクに追われる。逃げる。知らない。棒を振ってくる。避ける。転がる。走る。走った。
心臓がもう限界だった。よくもまあ、これだけ走り続けられたものだと、頭の片隅で関心はした。
追い詰められた先は、倉庫だった。町民を閉じ込めたのとは違う、もう少し広いタイプだった。
積み上げられたものの影に身を潜めた。
バイクの音も静かになった。来ている。耳よりもまず感覚で解せた。
大丈夫だ。暗闇であれば、茅島ふくみにとってこれ以上有利な環境もない。
ゆっくりと息を吐く。何も感じない。誰もいないのか?
待て、早計だ。罠が仕掛けられているかもしれない。
耳が拾う。音。何かをしている。なんだ。頭が働かないから、何をしているのかわからない。
水滴の音。
一定間隔で、急に耳に触れ始めた。
気に入らない。気が狂ってしまいそうな音だった。耳を機械化した連中にとって、これ以上の嫌がらせはないのかもしれない。
恐る恐る首を伸ばす。見えない。入り口の辺り。月明かりで何かが見える。
近寄る。あれは、
豚の首。
そこから、血が滴っている。
ぽた。
ぽた。
「ひ……」
気を取られた。そう思った時には遅かった。
耳元で、破裂音。
「あ!!」
痛
壊れた
確実に、片耳がおかしくなった
倒れた。
痛い。右耳。何も聞こえない。
爆竹か……
しまった。
腹部に、蹴りを入れられる。
意識が飛びそうになった。
転がった。
咳き込んだ。
「ゲホ…………ゲホ……」
「ふざけやがって……」
歩道を走っていた大楽が見た光景は、誰かの罠でひどい怪我を負っている町民の姿だった。
「おい、大丈夫か」
「クソ……誰がこんなことを……」
足に、深く矢が刺さっていた。病院に連れて行かないと、最悪は死ぬだろう。
「侵入者がやったのか?」
「いや、どうもちがうらしい…………」側で看病をしていた町民が答えた。「敵はそんな悠長なことは、してない」
「じゃあ誰だ」
「高根沢だと聞いた」
高根沢。比較的若いが、物事の分別がついていないガキ。
別の町民に頼んで、けが人は病院へ連れて行ってもらった。
罠……。
「何もそこまでしろとは言うってないだろう」
高根沢は、暴走している。
だからって止めるわけにもいかない。
共通の敵は、あの憎らしい侵入者なのだから。
死にたい。
死にたい。
死にたいという思考だけが辺りに散らばっている。
自分で首にロープを巻きつけて、ぎゅっと絞め上げたけれど死ねない。
ふくみ…………私を助けて……。
私を殺して。
私を……。
でも、ふくみって、だれだろう。
私の知っているふくみと、今の茅島ふくみは何処か許せないくらいの違いを感じる。
あいつはだれだ。
あいつのせいで、私は苦しんでいるんじゃないのか。
許せない。
あいつのせいだ。
死にたい。
殺してやりたい。
何がなんだか、もうわからなくなった。
全てのわけのわからない堂々巡りから、死んで開放されたかった。
美雪は、じっとその場で寝転んでいた。
動く気力がない。精密女も、それに従っている。アパートの部屋にはテレビだってパソコンだって、暇を潰せるものは一通り揃っているようだった。人が住んでいるのだから、それは当たり前なのだけれど、どれにも手を出す気にはなれない。
腕を失ったまま、寝転がる精密女を眺める。じっと目を瞑って、美雪とは違って変な思い出に苛まれることもなさそうに見える。
あんただけ、なんでそんな澄ましていられるの。
外からは騒ぎが聞こえる。ふくみが見つかったのか、わざと喧嘩を売っているのか、定かではなかった。前者だと信じたいが。
「洗脳されているわけではないんだね」
美雪はつぶやく。
町民は自分の意志で、あくまでも活動している。自分の意志で、ルノミを守ろうとしているに過ぎなかった。
「ここに寝転がっていれば、少しくらいはそんな心境、理解できますね」
精密女が口を開いた。
美雪は這って、精密女の隣へ行く。
目を見た。
「ふくみ、大丈夫かな」
「知りません……知る由もありません」
「ふくみは……彩佳を助け出せたら、私達なんて、どうでもいいのかな」
「知りません……待っていれば、どうせ宮殿の連中が、助けてくれるでしょう」
「でも、ここで暮らすのも、悪くないんじゃない……?」
かなりの間があって、精密女は絞り出した。
「だめです。私たちには、やるべきことがありますから……」
そのわりには、身体は少しも動かない。
もう、身体が融解して、床とくっついてしまったみたいな。
「じゃあ、どうすればいいの……」
「ふくみさん、どうか頑張って。そう祈るしかありません」
精密女は、再び目を瞑る。知らなかったけれど、祈っていたのか。折れてしまわないように、美雪も両手を合わせて祈った。
ふくみ、頑張って……お願い……。
人の力に全部任せようと思った瞬間に、自分の中の何かが終わってしまった気がした。
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