5

 身体を蹴られ続けている。

 茅島ふくみは、あの目立つ男からの、虐待とも言える攻撃を、ただ耐え忍ぶように受け止めた。さして凡人くらいの戦闘能力しか無いふくみにとっては、それが最善だった。抜け出せるとは思えない。腹部を蹴られて、今にも吐きそうだった。

 まあ、それでやられるだけの茅島ふくみでもないのだが。

「はあ……ざまあみろ」

 男が最後の止めのように、足を振り上げた隙を見逃さなかった。

 身体を起こして、男の足を薙ぎ払うように蹴った。

 男は体勢を崩して転ぶ。

 ふくみは立った。全身が痛い。どうだっていい。

 男の腹部を蹴りかえす。

 男はうずくまる。

「……あんただけは……後で殺すわ」

 顔面を踏みつけてから、嫌な感触を思い出さないように倉庫から抜け出す。

 後ろから男のうめき声が聞こえる。

 ふくみは、なんとか身体を引きずるようにして、近くの家へ逃げ込んだ。

 戸を閉める。

「くそ…………」

 残った左耳だけで、家の様子を探った。誰もいない。目で見る。家具がところどころ古くなって壊れている。少し留守にしているといった程度には見えない。何年も前から、家主を失っているみたいだった。

 ここからなら寺も近い。とりあえず身体を整えるのには、ちょうどいい場所だった。

 リビング。もちろん誰もいない。キッチンには、洗っていない皿が山積みになっていた。途中で、夜逃げでもしたのだろうか。施設で保護した男のような、ここから逃げ出した町民が他にもいるのかもしれない。

 窓を探す。寺の様子が見たい。

 二階へ上がった。

 すると、寒気を感じた。

 見る。

 机の上に、御惨那さまが置かれている。恐る恐る近づく。画面は点灯していない。充電すらなくなってしまっている。心配はない。こうなれば、ただのタブレット端末だ。

 なんでこんなものがここに。娯楽用で使う端末にしては、サイズが大きい。道端にあった、ふくみが踏み潰したものと同じだ。

 もしかすると……。

 あたりを探った。窓際に机が備え付けられている。誰かの個室だったらしい。

 そこには、髪飾り。

 見覚えがあった。

 ――ルノミのしていたものだ。

 引き出しを開ける。写真が出てきた。そこには、九曜ルノミが写っている。髪の色こそ違ったが、顔つきも体格もまるで同じだった。

 ここは、ルノミの家だったのか。

 調べる。そんなことを、している暇なんて無いのに、あいつを知りたいと思ってしまう。

 あの女にも、なにか事情でもあるのだろうか。

 家には、家具もそうだが、壁などにも破壊されたあとがあった。端末でライトを当てると、古くなって黒ずんでしまった血痕が浮かび上がった。

 なにがあったのだろう。推測すらできない。

 仏壇。そこには、遺影。見覚えのない女性。どことなく面影がある。ルノミに似ている。

 側にはまた写真。遺影の女性とルノミ。そして男性。母屋で死んでいた男に似ている。

 家族写真だ。

 ルノミは父親を監禁して自殺に追い込んだのか? 何のために? この家の惨状。死んだ母親。なにかがわかりそうな気もした。だけど、ふくみの頭は今一歩のところで計算をやめる。

 あんな奴にも、つらい過去があったなんて知ったら……

「いや……」

 そんなこと、もうどうでもいい。知らない。無視をすると決めた。彩佳のことだけを考えた。許せないという怒りが、腐ってしまいそうなほど新鮮に思い出せる。

 すると、

 左耳が何かを捉える。

 振り返る。

 頭に衝撃があって、

「あ……」

 あの男が棒を持って立っているところが見える。

 気を失う。



 目を覚ます。

 そこはまた、倉庫。

 動こうとする。駄目。見ると、両腕を後ろに回されて、縛られている。

 頭が痛い。動きたくない。

 話し声が聞こえる。

 見上げると、あの目立つ男と、もうひとり、中年の男性。

「殺そう」目立つ方が、ふくみを見ながら言う。「もう起きやがった」

「待て、高根沢。一度ルノミさんに渡したほうが良いだろう。初めにそう言われていなかったか? 捕まえてこいって」

「大楽さん。あんたね、甘いよ。こんな危険なやつを、ルノミさんのところにつれていけるわけ無いだろう。そんなんじゃ、こいつに良いようにされるよ。殺せるときに、殺さないとな」

 目立つ方、高根沢という男は革手袋をはめて、ふくみに近づく。

「殺す。大楽さん、こいつの足を持っていてくれ」

 一歩。

「い…………いや……」

 怖い。

 こんなに恐怖を感じたことって、今までにあったっけ。

 大楽と呼ばれた男は、ふくみの足を押さえた。身動きができない。

 そして高根沢は、ふくみの首に手を伸ばした。

 触れる。

「やだ……!」

 ぎゅっと、信じられないような力で絞め上げられる。

 生ぬるい、手袋の感触。

 息が、できない。

「あ…………やめ、て…………」

「だまれ、苦しめ」

 暴れようとしても、足は動かない。手も動かない。

 苦しい……

 喘ぐ。

 指が首筋に食い込んでくる。

 誰か……

 誰か助けて……

 彩佳…………

 助けて、彩佳……

 涙が出てきた。

 口も塞がれる。

 更に力を込められる。

 もうだめ、

 くるしい

 死ぬ

 いきができない

 苦しい

 彩佳



 急に、足が自由になって、

 一瞬、宙に浮いたような感覚を覚えて、

 絞められていた首の圧迫感も消えた。

 咳き込んだ。

 うつ伏せになって、床に顔を押し付けながら、とにかく息を吸った。

 涎が垂れて、染みを作った。

 その上に、涙をこぼす。

 何………………?

 なんだかわからないが、ようやく思考が追いついてくる。

 まだ咳が出る。

 吸っても吸っても、足りないくらいだった。

 何が、起こってるんだっけ……。

「やめろ、高根沢」

「なんなんだよあんたさっきから……。それじゃ甘いって言ってるんだよ! あんたのやり口で、町を守れんのかよ!」

「お前のやり方が正しいとは思えん。さっきだって、くだらない罠で、仲間を巻き込んだだろう。絶対に間違ってるよ、お前は……いや、お前だけじゃないんだろう。俺も……おかしいのかもしれない」

「じゃあ黙ってろよ! こいつを殺すぞ!」

「もう無理だ、高根沢。お前を見ているうちに、俺は覚めてしまった」

「は?」

「お前が……ルノミさんに依存して生きているお前が、醜いって気づいてしまった」

「何言ってんだよ!」

 何人かの町民が、倉庫に入って来た。彼らに大楽が頼んで、高根沢を無理やり連れて行った。

「離せよ! なにするんだ! 誰が町を守ってやってると思ってる! やめろ! 許さんぞ! 離せ!」



 うるさい声が聞こえなくなった。

 残ったのは、大楽と、縛られた茅島ふくみ。

「果たして、本当にこのままの生活が幸せなのか、わからなくなってきたんだ」

 大楽は、茅島ふくみに話しかけたつもりでそう呟いたが、返事はなかった。

 わからない。そうだ。なにもわからない。

 家族を守り、暮らしを守り、晴堀町を守ることが、自分にとっての幸せではないのか。これが幸せのはずだと、さっきまでは本気でそう信じていた。

 そのはずなのに、高根沢を見ていると、それがどこかおかしいような気がしてくる。あいつも、大楽と考えは同じだ。同じだからこそ、高根沢の考えの醜くさが我慢できなくなってくる。自分にも、その醜態が降り掛かってくるからだった。

 拳を握った。

 変な気分だ。馬鹿をやっているのかもしれない。

「俺は……何を信じてきたんだ……どうしてもあいつを許容できない」

 なんのつもりでかは知らないが、この晴堀町に来て何かをしている茅島ふくみを見ていると、違った幸せがあるような気がする。

 彼女の幸せとはなんだろう。

 きっと、我々とは違うところを見ているのかもしれない。

 家族、暮らし、柵、そしてルノミ。その先に何があるのだろう。

 急に白けたような気分だった。

 郷愁感への信頼なんて、なんだか急に、だまし絵みたいに消えてしまった。

 解脱。そう表現しても良い。

 この町から逃げた男がいたというが、彼も今の自分のような心境に至ったのだろう。

「もう、晴堀町は……九曜ルノミは限界だったのかもしれんな」

 縛られている侵入者に近づく。

「い…………嫌! 来ないで……! やめて…………お願い……」

 怯えている。無理もない。死にかけたのだから。

「落ち着け。すまなかった。もうなにもせんさ……」

 大楽は、茅島ふくみの腕を結んでいたロープを解いた。



 まだ身体が震えている。

 怯えが抜けていかない。

 殺されかけた……。

 首を擦る。跡がついてしまっているのかもしれない。まだそこに、あのねっとりとした指先が絡みついているような気さえした。

 なんだかわからないが、この大楽という男は自分を助けてくれたらしい。

「どうして……?」

 ふくみは、距離を取ったまま尋ねる。

 大楽は、頭を抱えて答えた。

「わからん……こうするのが正しいとしか思えない……。あいつ……高根沢を見ていると、九曜ルノミまで怪しく思えてくる……」

「…………」

「俺たちは、閉じすぎていた。そこから綻びが生じてこの現状だというのなら、もうシステム自体が限界なのだろう。この町は、崩れ落ちるんだろうな。それほど遠くない未来に。一度、あんたらのような外部の人間に、判断を仰いでみる時なんだろう」

「…………人間は、思い出に依存して生きてはいけないわ」

「逆だろう。思い出は嗜好品だ。楽しんだり、依存したりすることしか出来ない。過剰に味わうものでもないんだろう」

「…………」

「なあ、都会ってのは、厳しいところなのか」

「…………それは、あなたたち次第よ」

 大楽は、笑った。

「何やってたんだろうな、俺……。現実を見なくちゃいけなかったんだろうか」

「……お礼は、言わないわ」

 それでも頭を下げて、ふくみは倉庫から出た。

 大楽は、ずっと不安そうに彼女の背中を見つめ続けていた。

 寺は、すぐそこにある。



 寺へ戻ってくる。

 随分と、回り道をした。最初に訪れた時が、もう何ヶ月も前のように感じる。

 それでも懐かしいだなんて、少しも思わなかった。真新しい怨恨だけが浮かび上がってくる。ふくみはそれを発散するために、棒切れをきちんと握り直す。大楽だか誰かが持っていた物だ。勝手に拝借して来た。

 町民は誰もいない。大楽の計らいだろうか。

 本殿。

 そこにあの女は立っていた。

「茅島ふくみさん……ですか」

 御惨那さまを前にして、ゆっくりとその真っ白い女は振り返った。

 顔は、笑ってすらいない。

「名前、覚えたの?」

「気に入らない名前は、ずっと覚えておくことにしてますので」

「父親も?」

「ノーコメント」

 棒を握って、ルノミに近づく。

 一定の距離。ふくみの足なら、一気に駆け寄って、殴り伏せるくらいは可能な距離。

 睨み合っていると、ルノミは悔しげに、頭を掻く。

「なんでここまでたどり着いたんですか……あれだけの町民に頼んだというのに……なんで平然と私の目の前に……」

「意地と、執念と、彩佳のため」

「だったら、いい加減折れなさいよ」

 ルノミは舌を出す。機能が行使される。

 だけど、効くわけがない。

 ふくみは、仕返しのように微笑む。

「なんで……? なんで効かないの! おかしい……おかしいおかしいよ! 何か使ってるの!? あんたの機能!? 何よ!」

「あら、言ってなかったっけ」

 ルノミの胸ぐらを掴んで引き寄せた。

 怯えるルノミ。

「私、記憶喪失なの。懐かしむ思い出なんて、持ってないのよ」

「ああ…………そんな…………そんなことなの……そんなかんたんなことで……私の、私の晴堀町が…………ああ…………」

 ルノミを投げた。彼女は無様に転がる。そして、泣き叫んでいる。

 知らない。どうだって良い。

 ふくみは棒を構える。

 背中に問いかけられる。

「ここを……壊すの……?」

「ええ。綺麗に。この大きなタブレット端末が、あなたの機能の拡散を助けているのね」

「私達は、まがい物の幸せだっていうの!? 私達は、どうしたらいいの。生きてて、辛いことしかなかったわ! 逃げたの! 逃げないと、殺されてたから! だからずっと、楽しかったことを思い出してひっそりと生きているだけなのに、なんでこんな目に遭わないといけないの! なんで! なんでよ!」

「……そんなの、私が知ったことじゃないわ」

「無責任よ! 現実になんて帰りたくない! ずっとここで暮らしたい! 嫌だ! 辛いの! 社会に戻りたくないわ! ねえ! ふくみさん! 助けてよ! ずっと思い出だけを食べて生きていっちゃいけないの!? 懐かしさを楽しんじゃいけないの!? 私は……私がかろうじて生きていられるのは、ここという逃げ場があったからなのに、それじゃあ死ねってことなの!!? ねえ! 死ねってことなのかよ!」

「私は、彩佳を助けたい。それだけ。あんたなんか、死のうが生きようがどうだって良い。あの子は、私と一緒に、未来を生きるの」

 振りかぶる。

「それを邪魔するんだったら、殺すわ」

 一撃。

 御惨那さまと呼ばれた端末は割れて、火花を吹いて何も映さなくなった。

 破片が散らばる。

 これで、終わりか。

「ああ…………お母さん…………お母さん…………」

 なにか泣いているが、棒を投げ捨てて、奥へ進んだ。

 彩佳はこの先……。

 待ってて、彩佳。



「彩佳!」

 あまり何も置かれていない小部屋の中には、

 加賀谷彩佳が、

「彩佳……?」

 近寄る。

 うずくまっている。部屋の中央で。

 生きている。

 それだけで、泣きそうなくらいに、ホッとした。

 でも、それ以上動かない。

「彩佳、大丈夫?」

 肩を揺すった。

 けれど、

「お前は、誰……?」

 彩佳がこっちを睨んだ。

 それから、押し倒される。

 頭を打つ。

 驚いて、彩佳をじっと見上げる。

 彼女の手にはロープ。

「彩佳……?」

「誰だよお前は!」

 首に、ロープを巻き付けられる。

 ロープが食い込む。

 息ができない。本気だった。

 なんで?

 どうして?

「さ…………彩佳…………くるし…………」

「違う…………お前は……ふくみじゃない……ふくみじゃないよ……ねえ、お願い、ふくみを返して……」

 ぎりぎりと首が絞まっていく。

 どうして彩佳が……。

 さっきあの男に首を絞められたときなんかより、ずっと苦しかった。

 彩佳……。

 ――彩佳さんにとっては、甘美な思い出なんて猛毒みたいなものなのですから。

 そんなような意味の言葉を、言われたのを思い出した。

 記憶の茅島ふくみと、今の茅島ふくみ。過去への郷愁感から、その齟齬を強く感じたのだとしたら。懐かしい日々への羨望が募っていったとしたら。

 人は狂ってしまう。過去になんて、帰れるわけがないから。

 それも全部。自分が悪い。

 こんなところに彩佳を連れてきたから。

 記憶を思い出すことが出来なかったから。

 そもそも記憶を失って、一度は彼女の前から消えたから。

 彼女の大切な友達が、自分しかいなから。

 それが、なにもかもが彩佳を苦しめている。

 自分の所為。

 自分の所為で、間違いない。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい彩佳。

 本当に、ごめんなさい。

「い……いいわよ、彩佳…………あなたの気が、済むのなら…………好きにして……」

「…………」

「殺して…………」

 力が増した。

「あぁ………………」

 意識が遠のいていく。

 でも、それでいい。

 死ぬ直前は、思い出が蘇ると言うけれど、

 ふくみの脳裏に浮かんだのは、自分の首を絞め続けている友人の姿だけだった。



 てっきり死んでしまったのかと思った。

 目を開ける。

 そこには、自分の胸の上で、顔を伏せながら泣きじゃくっている加賀谷彩佳の姿があった。

 首にはまだ、ロープが巻き付いていた。その先端は、未だ彩佳の手の中にある。

 気を失ってから、どれくらいの時間が経ったのかわからない。

「ふくみ…………ふくみ…………会いたいよ……」

 彩佳が、泣きながら囁いている。

 それを自分のことだとは少しも思えなかったけれど、ふくみは返事をした。

「さいか…………」

「ふくみ……何処……?」

 目が合っているのに、彼女はふくみなんて見ていなかった。

 それでも、とふくみは彼女の背中に手を回して抱きしめた。

「大丈夫…………大丈夫よ、彩佳…………私は、ここにいるから……」

「ふくみ…………ふくみ……」

 自分じゃない、知らない人間の名前を呼び続ける友人を、彼女はなるべく何も感じないように努めて、慰めていた。

 ああ、息苦しい。

 思い出なんてタバコみたいに吸ったところで、ふくみはただ窒息してしまうだけだった。

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