2

 吐きそうなくらいに、身体を動かした。

 こんなに走ったことは、短い人生の中でもあまりない。身体も靴も、泥が詰められた袋みたいに重たかったけれど、走らなければ命の危険があった。殺されてしまうよりは、心臓が破裂して死ぬほうがずっとよかった。

 なんとか、近くの森に隠れる。

 木にもたれかかって、息をした。

「はあ…………はあ…………彩佳……」

 気がつくと、信じられないくらい気分が悪い。走りすぎた? いや、それだけではない。

 携帯端末を起動する。電話をかけないと、彼女の上司に。

 通称は「医師」。あの女も、本名は不詳だった。

 呼び出すと、すぐさま気だるそうな耳元から、声がする。

『大丈夫か? なにがあった』

「はあ…………彩佳が…………彩佳を助けないと……」

『落ち着け』医師は叱咤する。『深呼吸をしろ。そして何があったかを説明するんだ』

 吸えない息を吸って、インスタントみたいな落ち着き方をして、ふくみは医師にさっきの出来事を伝える。

『……身体は、どんな具合だ』

 さっきから、ふらふらする。頭も働かない。酔いつぶれたときみたいに気持ち悪い。いや、眠ってしまえば気持ちいいのかもしれない。

 つまりは変な気分だった。

「……最悪。歩くのも、辛い」

『何を注射されたんだろうな……。ボーッとするというのなら、鎮静剤の一種か? 麻薬という線も捨てきれないが』

「大したこと、ないわ……彩佳を、助ける……」

 ふくみがそう絞り出すと、医師は怒る。

『なにが大したことないだバカ。一人では無理だ。待ってろ、応援を寄越す。ちょうど、チーム宮殿が非番だ。すぐに声をかけて向かわせる』

「いいえ……今に何されるかわからないわ。そんなの、待てない。こうしてる間に、彩佳やみんなが……」

『待て! 待機しろ!』

「彩佳が危ないのよ! 待てるわけないじゃない!」

 切った。

 息が上がっている。

 冷静になればよかったと少しだけ後悔はした。だけど、応援を待っている暇すら無いのも事実。施設からここまでは、それなりの距離がある。数時間ではたどり着けないだろう。

 だるい。

 死にたいくらいに、身体がだるかった。

 耳の調子をチェックする。

 問題はない。だったら、大丈夫。自分が信頼を置いているのは、この耳だけだった。

 彩佳と、それから美雪と精密女を助ける。ただそれだけ。



 木につかまりながら、慎重に森を下った。

 何処かから聞こえる、異音。

 これは美雪の持っている、特殊な超音波発生装置の音。何かあったときのふくみとの連絡用に、彼女はいつも持ち歩いている。

 つまり、美雪が近くにいる。寺から移された? 何のために? そんなこと、考えるだけ無駄だった。どうでもいい。

 頭が働かない。首筋の注射跡から、少しだけ出血している。

 森に隣接する民家から、超音波は聞こえた。外壁が黄色くて、悪趣味だと感じた。

 森は高い位置にあり、その民家の二階に面していた。せり出した屋根に乗って、ゆっくりと窓に近づいて、ふくみは内部の様子をうかがった。

 個人の部屋のような場所だった。そこに美雪と数人の町民がいた。美雪は倒れて眠っているみたいだったが、手にはこっそりと超音波発生装置が握られていた。聞き間違えるはずもなく、ここから聞こえる。

 しばらくすると、町民は去った。この家の住人だろう。美雪を見張っておくように言われたのかもしれない。階段を下る音が聞こえる。おそらくは、階下に消えた。

 森にあった大きめな石を掴んで、窓ガラスに慎重に叩きつけた。時間がかかったが、少しだけ大きな音を立てて窓が割れた。そこから手を突っ込んで、解錠して中に入り込む。バレていないだろうか心配だった。

「美雪……!」

 畳の上に寝転がっている彼女を揺り起こした。眠っていたわけでもないのだろうが、美雪は目を開けて返事をした。

「あ、ふくみ……」

 力がこもっていない。もしかすると薬を注射されたのかと尋ねてみたが、予想に反して美雪は首を振った。

「違う……なんか、懐かしくなって」

「懐かしい?」

「うん……それと、なんで今の自分はこうなんだろうとか、何かどこかで間違えたかなっていう気分になる……こうして眠ってるのが、すごい落ち着く……これが、ルノミの機能なのかな……」

 ふくみは、遠慮もせずに美雪の顔を平手で殴った。

 美雪は部位を押さえながら、呟く。

「…………ごめん、目、覚めてきた。ありがとう、もう大丈夫だよ……」

「いえ、こっちも、殴ってごめん……彩佳は?」

「わからない……寺かな……。ねえ、ふくみ、顔色……なんか悪いよ……」

「逃げるときに、変な薬を注射されたわ……吐きそう」

 美雪の脇に腕を通して起き上がらせる。予想外に重い。屋根伝いに森に抜ければすこしは安心だろうが、それすら可能なのか難しくなってきた。

「歩ける? 美雪」

「……頑張る」

 急にドアが開いた。

 向く。

「お、お前!」

 町民だった。階下に消えたはずの、さっき見かけた男だ。

 まずい。

 男はふくみに掴みかかろうとした。

 ふくみは、向かってくる男の腹部に、迷わず蹴りを入れた。

 後ろに転がる男。

「逃げるわよ美雪!」

 入り口を閉じて、鍵をかける。

 窓から、美雪を連れ出して、外へ飛び出した。



 ルノミは町民から貰ったお菓子を食べながら、自分を取り囲む町民たちの顔を眺めていった。

 寺。先程、来客たちといざこざがあった部屋。そこにルノミと数人の町民が集まっていた。町内会議、とルノミはいつも銘打っている。いつもなら町民の様子を見ることが主たる目的なのだろうが、今回は違った。あの来客たちの身元調査の結果を聞くのが一番だった。

 椅子を円形に並べて、巨大タブレットを背中にしてルノミ。あとは町民が腰掛けている。各家庭の代表者だった。この町では、誰もがルノミの味方だった。

「……茅島ふくみ、というのね、あいつは」

 自分の元から逃げた、あの憎たらしい女の名前を聞くと、ルノミは嫉妬にも似た感情を抱いた。名前と機能と容姿以外は、未だによくわかっていないらしい。だがそれだけ判明すれば十分だった。写真も入手してあるので、あとはこれを周知させれば、自ずとあいつは捕まるだろう。

「今、茅島はどこにいるの?」

「八頭司美雪……例の金髪の女を連れ出した後、何処かに逃げましたが」町民は答える。

「あの金髪女をもう連れ出したの?」

「はい……すみません。予想以上に強引な女らしくて」

「ふうん……」

 あいつを捕まえないといけない。

 ルノミは写真を眺めた。茅島ふくみが写っている。

 機械の耳を持ち、聴力が異様に優れている。髪は長く、そして見たこともないような美貌を誇るこの女。

「綺麗な顔の割に、性格は悪そうですね」

 だけどなんで、ルノミの機能が通用しないのか、それだけがわからない。

 八頭司を手早く助け出したことから、それなりの手練だろうとは理解ができる。薬も打たれたというのに、とんでもない女だ。華奢な見た目よりも、ずっと虫みたいにしぶといだろう。

 更に、ここから逃げ出したというのに、施設とやらにおめおめ帰るつもりはないらしいのが、一番厄介だった。

 その理由は、あいつの友人らしい加賀谷彩佳がまだいるからだろう。あの女を助けたいに違いない。傍から見ていても茅島と加賀谷、二人の関係はただの友達という段階を逸していた。

「みなさん、この女は危険人物です。見つけ次第、自由を奪って捕まえるように。そして、私の前に連れてきてください」

 言い残して、ルノミは立ち上がって振り返った。

 大きな御惨那さまが、こっちを向いていた。

 手を合わせる。いつもやっているみたいに、台所に立って包丁を取り出すみたいに。

 ああ御惨那さま、

 ああ御惨那さま、

 ここを崩壊させるわけにはいきません。どうか私達を守ってください。



 高根沢洋介は、九曜ルノミに恋心を抱いていた。

 この町に引っ越してきて、最初に驚いたのは九曜ルノミの美しさだった。それまでいた土地の、何処にだってこんな女はいない。いや、いないことによる新鮮さに惹かれたわけではない。どことなく心の奥底の、思い出しもしないような記憶に、直接訴えかけるような感覚が、彼女からした。それが一番の理由だった。

 辛いことしかなく、本気で死んでしまいたいと思っていた時期だった。もうこの世界に順応する余裕なんて、彼には残されていなかった。それではいけないと思うことすら強要されているような気がした。

 ルノミは、そんな中で出会った転機だった。社会から落ちぶれた彼を、ルノミは必要としてくれた。散歩をしながら、空をぼーっと見上げるのが好きだった彼を、ルノミはそのままでいいと告げた。もう自分の居場所は、晴堀町の他には存在しない気がした。

 幸せだった。間違いなく、満たされていた。誰かが定義した本当の幸せ、そのイミテーションとは違っていた。これが真実の幸福だとしか、高根沢には思えなかった。

 全てはルノミがもたらしてくれたものだった。彼女が家を用意して、ここでの仕事も与えてくれた。ここは、ルノミと似た趣向の人間が集まる理想郷だと彼女は口にした。高根沢も、強くそう思った。

 そんな楽園が、叩き壊されるかもしれない。ルノミの口から耳にしたときは、恐怖に近いものを覚えた。またあの辛い社会に舞い戻らないといけなくなることが、ルノミの望ましくない結果が降りかかるよりも正直なところ怖かった。

 だからあの女を捕まえてやらなければならない。

「俺に任せてくださいよ、茅島って女は」

 倉庫で、使えそうな物を物色しながら、高根沢は勇ましく宣言した。

 この場にルノミはいないが、彼女に言って聞かせるつもりで口にした。

「だから大楽さん、あんたは休んでてもいいですよ」

「おい。そんなもの、使う必要があるか?」

 連れの男、大楽が高根沢の用意するものに対して、口うるさいくらいの疑問を呈した。

 この男は、高根沢よりもかなり年齢が上だった。だから高根沢は、常々大楽が頭の固い老人だと感じていた。本人に向かって言い放ったことはないが。

「あのね、大楽さん。相手はここを崩壊させようっていう悪人なんですよ? 生活が破壊されるんですよ。あんただって、家族を守りたいでしょう。だったら、手なんか抜いたら駄目ですよ」

 大楽は渋い顔をしたまま黙った。決して納得をしたわけではないのだろうが、とにかくくだらない小言を口にすることを止めたらしい。

 そうだ。このくらいやったほうが良い。

 高根沢は見つけた板に釘を打ち付けた。

 想い人のルノミさんを思いながら。



 日が落ちてきていた。

 ふくみは森で息を潜めて、辺りから町民が去るのをじっと待った。もう何時間もこうしているのかもしれない。美雪は、土の上に座りながら、ずっと木にもたれて深呼吸をしている。ふくみも、いっそのこと倒れてしまいたくはなったが、首を振って正気に戻った。

 待っているとようやく町民の数が減ってきた。だが、いずれこの森もドブさらいみたく捜索されるだろう。今のうちに、もう少し安全な場所を見つけて、せめて美雪だけでも隠れさせないといけないのかもしれない。そう思ってふくみは、美雪を連れて森を出た。

 薄暗い分、状況はふくみに傾いている。民家の脇に隠れながら、彼女たちは進んだ。何処へ向かうのかは決まっていない。近くに倉庫がある。そこの様子を改めてから、隠れ家にするかどうかの判断を下してもいいだろう。

 歩く。スパイクが重い。なんでこんな物を履いてきたのだろうと少しだけ後悔した。だけど、町民を蹴って制圧できたことも、また一つの事実だった。役に立たなくても良かったのに。

 美雪も歩けてはいるが、今にも倒れ込みそうだった。早く、何処か隠れる場所を見つけないと……。

 ふと、道端に小さな社みたいなものがあるのが目に止まった。気にもとめなかったがよく見ると、一定間隔で設置してある。覗き込むと、タブレット端末が現れた。

「これ……九曜ルノミが言ってた、あれと同じやつかしら」

 そうふくみが呟くと、急に美雪が叫んだ。

「きゃあ……!」

 振り返る。美雪は社を指して、うずくまっている。

「どうしたの!?」

「なにこれ…………それ……どうにかして……もういや! 嫌……!」

「こ、これ!?」

「そう…………ふくみ……たすけて……!」

 慌ててタブレットを蹴って破壊した。

 踏んだ。砕いた。社自体も、跡形も残らないような気持ちで蹴り壊した。

 肩で息をする。

 美雪は治まった。だけど、うずくまったまま涙を流していた。

「美雪……もう、大丈夫だから」

「ねえ……ふくみ」

 濡れた顔を、まっすぐに向けられる。

「どうしてこんなに現実が辛いの? こんなつもりで生まれてきたわけじゃない、ふくみたちと一緒にいるわけじゃない……けど、ここにいると、そんな気持ちでいっぱいになるよ……ねえ、なにこれ……昔に、戻りたいよ……やり直したい……楽しかったのに、どうしてこんなことになってるの」

「美雪。気の迷いよ、それは……。ルノミになにかされてるの。あなたの本心じゃない」

「本心じゃなかったら、こんな事思わないよ……」

「駄目。人は、思い出に依存して生きていくわけにはいかないわ」

 残骸を見る。

 だれが片付けるのだろう。

「ふくみは、記憶がないからそんな台詞が言えるんだよ……」

「記憶があろうがなかろうが、現実をどうにかすることしか、私達には許されてないの」

 なんて、

 現在しか知らない自分が口にしたって、それが正しいのかどうかわからなかった。



 高根沢は罠を張るのが好きだった。

 一度晴堀町に、外から不届きな輩が現れたことがあった。ここの生活を脅かす、言ってしまえばクソ野郎たちだった。

 もちろん真正面からでも迎え撃てたが、高根沢の対策は違った。罠にかける。この方が、武力で抵抗するよりも、精神的なダメージを多く与えられる高根沢は考えた。

 結果は、その通りになった。不届きな輩は、排泄物を巻き散らすみたいにして、ここをあとに逃げ帰った。それ以来、晴堀町の近くで、彼らのような人間を見かけることすらなくなった。

 茅島ふくみとやらも、結局は人間だろう。さらには女だ。適当に脅しをかければ、泣いて謝るのかもしれない。

 これはそう、脅しが主たる目的だった。だったら有用性というよりも、苦痛を与えるのが大事になってくる。罠として機能しなくても良い。気持ち悪いと思わせれば、それでよかった。

 豚を殺して、血を抽出した。これを、あの女に浴びせる。ロープを使えば、扉の真上にでも設置できる。頭からかぶれば、気を失ってしまうかもしれない。

 近くの田んぼでは、すでに草を結んでおいた。その倒れる先には、板に打ち付けた釘。錆びている。ひとたまりもない。これがちょうど、倒れ込んだときに、顔に刺さるような位置に置いておく。

 鎌には農薬を塗った。扉を開ければ飛び出すようにしてある。農薬を塗ることで、なにか意味があるのかどうは、高根沢の知るところではない。

 あとは爆竹を用意した。茅島は耳が良いと聞く。良いが故に、衝撃的な爆音には、身体の方が拒否反応を示すのかもしれなかった。耳鳴りでも引き起こせられれば、やつの最大の武器を無効化出来ると言っても過言ではなかった。

 釘を打った棒きれ。小型のハンマー。包丁。ナイフ。自動車にバイク。ガソリン。トラバサミ。

 用意しすぎるということはない。

 あの女は、われわれの敵だった。

 あとは、ここに誘い込むだけだった。

「おい」

 寝転がっている女、精密女とかいうのに声をかけた。ずっとぐったりと眠っていたその女は、高根沢の呼びかけに反応して、嫌そうに目を開いた。

「……なんでしょう。今、誰の顔も見たくないんですけど」

 殴った。

 それでも、精密女の表情は崩れなかった。

「茅島をベランダから呼べ」

「……………………はい」

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