3/3
美雪は不思議なほど緊張感というものを、まるで覚えていなかった。
これから、短時間とはいえ脱走するというのに、そんな心構えで良いのだろうかとすら思えたけれど、きっと一人ではないからだろうと美雪自身もわかっていた。
決行日の夜。集合場所は、美雪の部屋に決まっていた。三人の中では地下水道の入り口に、最も近い所に位置していることが理由だった。
消灯時間は夜、九時。もちろんそんな時間に、普段だって律儀には眠らない。美雪は電気の消えた部屋で、窓から流れ込んでくる夜風と月明かりを楽しみながら、ただ待った。
丸杉と木又は、示し合わせたように同時に現れた。鍵は開けておくからノックもしないで入ってきてくれと美雪が頼んでいたから、急に二人が顔をのぞかせて、少し驚く。
「見つかりませんでしたか」
美雪が一応念の為尋ねると、木又がはっきりと、遠足に行く前のような高揚感を振りまきながら頷く。
「ええ。ちあきちゃんには気をつけていたから、大丈夫。彼女は今、一階を離れてる」
二人の進捗を確認する。この日まで、怪しまれないように口すら効いていなかった。上手くいっていなければ、なんとか別の手を考える必要があったが、二人共無事に仕事をこなせたようだった。木又は、機械の方の腕の指を広げてひらひらと見せびらかす。見たところで、わからないというのに。
「よし、これであとは出口までたどり着ければ、問題ないですね」
美雪が言うと、丸杉が気になっていたのか口を開いた。
「ねえー、茅島さんは結局どうにかできたんですかー?」
「そうそうそれ、私も気になってた」木又が続く。「ここで美雪ちゃんがなんにもしてません、とか言い出したら、それこそ中止にせざるを得ないわよ?」
そういえば、何も説明していなかった。というのも、誰かから美雪の考えた対策が漏れるのを嫌ったためだったし、なにより少々説明が面倒だった。
「まあ、大丈夫ですよ」
時計を見る。
茅島ふくみに対する策は、もうそろそろか。
機械の耳を持つ女は、ぼーっと端末を開いて読書を行っていた。
夜の食堂は、当たり前だけれど誰もいない。それが、彼女の琴線に触れた。静かで、位置としては施設の中央にあり、誰も近寄ってこない。彼女がここを見つけたのは、二回ほど前の夜回り当番の際だった。
ここにいれば、歩き回る必要なんて無い。バカ正直に夜回りなんてやる必要は、彼女の機能を持ってすればなおさらだった。食堂にいれば、施設すべての音を拾えるし、現にもうひとりの当番である二條が今何処にいるのかもわかった。彼女は今、二階でうろうろしている。規則正しい足音が、なによりも二條を現していた。
非合理だな。前時代的で、非合理な運動だった。
とは言っても、自分もこの耳がなければ、素直に歩き回っていたのかと思うと、恐ろしくなる。
目で、文字を読みながら、茅島ふくみは美雪のことを考える。
湯浅夏代、彼女とは随分と親密だと、本人の行動はそう物語っていたが、美雪自身を分析すると、どうにも腑に落ちない点がある。
彼女は、なにか後ろ暗い気持ちを抱えている。これは、明確だった。友達に会いに行くような心境ではないと思う。
それが今夜、悪い方向に働かなければ良いけれど。
電話が鳴る。開いていたウィンドウが、電話画面に切り替わる。
こんな時間に誰だろう。名前を読む。
加賀谷彩佳。茅島ふくみの過去を知っている、彼女の昔の友人だった。
「……まったく」
呆れた風なため息を泡みたいに漏らして、茅島ふくみは電話に出た。
「彩佳? どうしたの?」
その声色は、彼女が極限までリラックスをしていることを、物語っていた。
廊下に出ながら、木又はいまだに信じられないような目で、美雪を見つめた。
二條は、いない。足音も立てたくなかった。靴を脱いで、手に持った。
「ねえ、美雪ちゃん。本当に、ふくみちゃんをどうにか出来てるの?」
囁くような声で、木又マリナは美雪に耳打ちをする。何度言っても信じない女だな、と内心では思いながら、美雪は親指を立てて答えた。
「任せてくださいって。大丈夫ですから」
「本当なの? このまま行って、大丈夫? ふくみちゃんにバレたりしない?」
確かに、靴を脱いでいるとはいえども、茅島ふくみにとっては衣擦れの音さえすれば、それで探知できる。彼女の機能の有効範囲は、美雪がよく知っている。つまり、手を打っていなければ、もう既にバレているのだけれど、茅島ふくみが迫ってくる気配はない。
美雪の言う対策とは、茅島ふくみの友人、加賀谷彩佳に頼んで、指定した時間に電話をかけてもらうことだった。いくら茅島ふくみだと言っても、大切な友人との会話にはその神経を大きく傾けるはずだった。あの二人の絆というかお互いの思い入れは、美雪が少し嫉妬を覚えてしまうくらいに強かった。
ともかく、これで茅島ふくみの問題はクリアできた。美雪は既に、もう脱走が成功したかのような、大きな安堵感を覚えてすらいた。
三人は、施設の裏口に向かった。廊下を抜けて、トイレの先にガラスが張ってある扉がある。鍵は、内側から開けられる。ここから、地下水道がある方面に通じているのは、施設で暮らしていれば常識に近かった。
監視カメラには当然写っているだろうけれど、なにか問題が発覚しなければ確認されるものでもない。要するに、写っていようが問題はない。
地下水道の入り口は、木又マリナの機能で開けた。きちんと鍵を取得していたらしい。指先で、二秒ほどパネルに触れるだけで、解錠された。彼女の機能を、美雪は近くで初めて見る。自分のよくわからない機能なんかより、ずっと利便性に長けていて、うらやましい。
順調。ものの十五分で、マンホールにたどり着くと丸杉は言う。
内部は、足音が反響していて、気味が悪い。湿気と暗闇が結びついて洗い落とせなくなっているみたいだった。変な匂いもする。美雪は、これから会う夏代を気にかけてしまう。
そして、扉。
「ここはえっと、この指だったかな」
木又マリナがまた指をかざした。このルートだと、木又の指を三本ほど使わなければたどり着くことが出来ない。というより、指の数を考えて、壁に穴を開けたり、鉄格子を切断したりを丸杉に頼んでいた。
それなのに、数秒経ったが、扉は開かなかった。
「あれ? この指のはずだけど」
木又マリナが不思議そうに首を傾げた。
「ちゃんと取得しました?」
「そのはずなんだけど……どの指で試しても開かないのよね……道を間違えた? そんなはず無いんだけどな……」
「マリナさん、業者の人が入ったんじゃないですかー?」
丸杉が話す。彼女の声は、ここでは妙なくらいに響く。
「鍵を変えられた? ならもうこの認証キー自体が古いってことかな……。だけど、業者なんて入る予定、なかったわよね?」
それに関しては美雪も頷いた。この数日間、地下水道に関するとこに、随分と敏感になっていたからだった。業者が入る予定なんて、美雪が知る限りはない。
そこで美雪は、新たな疑いを抱えてしまった。木又マリナが裏切ろうとしていると。美雪らを罠にはめるために、何処かへ導こうとしているのではないかと。
「とにかく、ルートを変えましょうよ」美雪は見取り図を表示させてから、そんな考えを潰すために言う。「見取り図だと……こっちからこの扉の先に通じてるらしいですよ。でも、そのためには扉を一つ増やさないといけないけど」
「うーん、どうしよっか。念の為、指全部は使いたくないけど、しょうがないかしらね」
木又マリナが言うと、丸杉が手を挙げた。
「私なら、切断できますよー。扉を開けることくらい、私にだって造作もないですよー」
「本当?」少し訝りながら美雪は尋ねた。
「まあ見てて下さいよー」
迂回するような違うルートを取って、別の扉の前に立った。ここはもちろん、木又が鍵すら持っていない扉だった。
隙間を確認すると丸杉は、指先からナイフのようなものを伸ばして、デッドボルトにあてがった。一見すると、空き巣にでも入ろうとしているような格好だった。
「少しうるさいし、時間もかかりますけどー、良いですか?」
「マリナさん、良いですよね?」
美雪が尋ねると、木又も頷く。
丸杉はその顔を確認すると、作業を始めた。鉄を切断しようという。あんな矮小なカッターナイフみたいな刃物で、はたしてそんなことが可能なのだろうか。美雪は自分の目で見るまで全く信じてはいなかったが、丸杉の立てる音を聞くと、冗談でも無いらしいと実感を持って感じた。
うるさい。心配になる。近くに立っていると、耳をふさぎたくなるほどだった。どうしよう。誰もいないとはわかっていても、自分たちが今来た暗闇の奥のほうが、痒い背中のように気になってくる。
数分後に、音が止んだ。
「終わりましたよー」
見ると、認証パネルごと破壊されていた。これが一番早いのだろうか。留め具を失った扉は、引っ張るだけで簡単に開いた。なんというか、丸杉だけは敵対したくないなと言う気分になる。
「すごいじゃない、由恵ちゃん」木又マリナが手を叩いて、褒める。「こんなことも出来るの?」
「まあー、刃が痛むんであんまりやりたくないんですけどねー」
三人は更に進む。見取り図をチェックしながら、元のルートに慎重に戻ろうとしていた。
道は、そう複雑ではない。分かれ道があるというだけで、必要のない道を考えないようにすれば、そう迷うわけもなかった。
立って現在位置を確かめようとしたときだった。
「…………マリナさん」
美雪は、人差し指を唇に当てながら、呟く。
「何か、聞こえません?」
「え? 何かって……」
この、規則性のある音。
そんなものは、考えられる中では、一つしか無い。
「――足音!」
真っ先に気づいたのは木又マリナ。
彼女は慌てて、美雪と丸杉の腕を引っ張って、脇道に連れ込んだ。
だ、誰だ?
美雪は考える。茅島ふくみなら、なんとかしたはず。もしかして、失敗した? 彩佳が電話を忘れていた? そもそもふくみに全部バレていた?
わからない。
足音の正体を明らかにするような術すら無かった。
二條ちあきの凝った靴では、この地下水道は歩き辛い。
濡れたような石畳を踏みしめると、滑って転びそうなイメージが頭を離れない。だけどそれでも、彼女の好奇心というか、使命感のようなものを途絶するのには不十分だった。
鍵は、細工しておいた。木又マリナが通る扉となれば、入り口と出口を除けば、あの扉が最も可能性としては濃厚だった。医師の部屋に保管されていたカードキーを拝借して、夜中に忍び込んで、アクセスキーを変更した。これも、バレればかなり重いペナルティが発生する。
誰かを咎めるために罪を犯すなんて、矛盾しているな。
二條ちあきは、そこで笑った。自分のバカさ加減に対する嘲りに近かった。
まあ、地下水道なんて、忍び込んだところでバレるリスクなんか、殆どないのだが。
夜回り当番として巡回が始まった瞬間に、二條は木又の部屋を確かめに行った。いてくれればいいという安堵なんて、最早持ち合わせていなかった。いなくなっていてくれとさえ望んでいた。
結果は、木又の姿は何処にもなかった。
指を鳴らしたほどに、二條は喜んでしまった。やっぱりあの女は怪しかった。何かを企んでいて、見つからないように暗躍している。施設への反逆か? それとも非合法な物、例えばパーツや薬物なんかを地下水道に隠していて、こっそりと販売しているのだろうか。考えは尽きなかったが、まあいい。これから本人を捕まえて、確かめればよかった。
マリナさん、一体何を考えているの。
本人が見つからなくても、ここに隠してあるなにかを見つけられれば、木又を脅迫すら出来る。探そう。
歩いていると、先の方から大きな音がする。
まさか、ネズミか何かではないだろう。
「ちあきちゃんだ……」
低い姿勢で木又マリナは、息を荒くしながら呟いた。
「ど……どうしてわかるんですか?」
美雪は顔をしかめながら尋ねる。相手の姿なんて見えないし、足音しか聞こえない。
「勘よ。彼女と、地下水道に来る直前に会ったことがあるわ。目星をつけられていても、おかしくないもの……それに、ふくみちゃんだったら、もっとこっそり近づいて来てるでしょ? そうじゃないってことは、ちあきちゃんよ」
言われてみれば、ふくみならいつの間にか背中に立っていてもおかしくない。結局彼女のスタンスというのは、脱走者を見かけたところで上層部に報告すらしないで、本人を直接嗜めるだけに終止するだろう。
だが二條は、本気で脱走者を捕まえようとしてくる。だから、足音を隠す必要すらない。自分の存在を使って、脅して、その隙を突こうとでもしているに決まっていた。
木又マリナは、しょうがないわね、と言って立ち上がる。
「どうするんですか……」丸杉が訊く。
「まあまあ、ここは年長者に任せて」
「その言いぐさが不安ですよ……」美雪が口にする。
「なんだか、あなたたちを見てると……尽くしたくなるっていうか、放っておけないのよね」木又が足音の方を睨んだ。「ちあきちゃんだとしたら、私が撒いた種だもの。私がどうにか誤魔化してくるわ。残念だけど、ここでお別れね。あなたたちは、出口を目指して。扉なら、由恵ちゃんが開けられるでしょう?」
「はい……」
自分でも驚くくらい、素直に返事をした美雪。木又に対してさして思い入れもないのかと、自分の冷酷さに気味が悪くなった。
手を振って、木又は去った。
なら、悪いけど、出口を目指さなくてはいけない。
美雪は、手を差し伸べた。
「丸杉さん、行こう?」
「……うん」
丸杉は、彼女の手を取って、勢いよく立ち上がった。
大きな音が止んで、足音が動いていく。そちらの方向に急いで向かうと、何の気配もなくなった。
逃げられた? いや、このさして入り組んでもいない狭い空間。何処に逃げ場があるのだろう。二條ちあきは、ライトを向けながら、人影を探した。
しばらく待っていると、動き。追う。足音は、自分から逃げていくようだ。気づかれている。そんなことは想定内だ。だったら、気でも変わればいいのに、木又マリナと思しき人物は、まだ逃げ切れると勘違いをしているみたいだった。
突き当たり。ライト。誰もいない。壁がある。それだけだった。
何かが、角で動いた。
瞬時に二條は左腕を伸ばして、その方向へ向けた。
腕が、射出された。
彼女の機能。磁力で制御された、取り外し可能な左腕。磁力を使って、このように弾き飛ばすことも出来るし、身体と繋がっていなくても、それなりの握力は出せる。
外した腕は、磁力でまた自分の方へ引き寄せることも可能。何処かに掴まっていれば、身体の方を腕に吸い寄せられる。彼女はこれを利用して、建物を登る。
「痛い!」
叫び声が聞こえる。明かりを照らすと、木又マリナの姿があった。二條の腕に、髪の毛を掴まれており、床に転がっていた。
「待って! 待ってよちあきちゃん! 私よ!」
「…………マリナさん」
今気づいたという風な返しを二條はした。
腕を戻さないで、そのまま彼女は訊いた。
「何をしに、ここへ?」
「いやねえ、ちょっとした探検よ? そんな気持ち、わからない?」
見回す。誰もいない。
「ひとり?」
「当たり前じゃない」
「嘘言わないで」
木又ごと腕を引き寄せて、装着した。痛がる彼女は無視した。顔を真正面から見据える。
「まだ、誰かいる。あなたは、それを隠してる」
「そ、そんなことないわよ~」
木又マリナを引きずったまま、二條は来た道を戻った。
扉。そこには、切断したあとがある。こんな芸当は、木又はもちろんだが、二條が本気になったって出来はしない。こんなことが出来るのは、施設内でも限られた人間だけだった。
「ね?」
「ねって……」
「何処に行ったの?」
それでも、木又は何も答えなかった。『宮殿』の人間がそう簡単に口を割るとも、二條としても考えてはいなかった。
「良いか。行けば、わかる」
不正も、横暴も、犯罪も、いつからこんなに許せなくなったのだろう。いや、覚えてはいるが、思い出したくもない。口にしたくも見つめたくもない、過去だ。
その癖、自分に対しては甘いだなんて、最低の人間だ。でも、より最低なのは、規則を破る人間。そう決めつけなければ、正気なんてとっくに保てない。犯罪者を追い詰めるときも、似たような強固な心境だった。なんなら犯罪者なんて、腕で叩き潰してミンチにしたって許されるかもしれない。
「規則は、破らせない……」
走った。
もう、物音になんてかまっていられなかった。少しでも遠く、二條だかふくみだか、そのよくわからないものから、離れなければならなかった。
切った鉄格子と壁に空いた穴をくぐって、抜けた先は、出口への扉があるセクション。それだけしかない。
たどり着くと、開けた場所だった。周辺にはいくつかの柱、放置された廃材。そしていくつかの扉。その中で、もっとも奥まった所に位置しているのが、美雪らが今目指している出口、マンホールへのドア。
「あれかな……」
「そうみたいですねー」
本当なら、木又の機能で一秒とかからないで開けられるはずだった。今はもう、丸杉の刃物に頼るほかはなかった。
「これを、切ればいいのねー?」
「うん、お願い」
そうだ。さっさと切ってしまえば、美雪たちの勝ちと言って差し支えはない。
だけど、聞こえる。
追っ手の――
「駄目、隠れよう!」
丸杉を引いて、適当な場所に身を潜めた。
聞こえる。気配。
「隠れているなら出てきて」
間違いない。二條の声だ。彼女は、そこにいる。
マリナさん、なにやってんの?
二條を、止めてくれるんじゃなかったの?
二條は続けた。
「出てきなさい。さもないと、マリナさんは殺す」
「ええ? そういう冗談はちょっと……」木又の声もする。一緒にいる。捕まえられている。
「私は本気」
二條が毅然と口にすると、空気が変わった。
「どうせ、脱走がバレたらあなた達は、施設や社会に仇をなす異分子として処分される。もちろんそれを逃した私も、なんにもしていない茅島ふくみだって、そうなる。だから一人殺してでも、あなた達を止めるほうが、効率的」
「馬鹿なことはやめてよ……」
「バカはどっち? マリナさん。こんなの、許されないってわからなかった?」
考える。二條は、木又に任せるのがいいか。
出口はほど近い。あそこまでたどり着ければ、あの扉さえ開けられれば、マンホールへ到達できる。開けるには、丸杉の機能、もしくは木又の機能でもいい。木又のほうが迅速だったが、彼女はそれが可能な状況ではない。
どうする。
二條をどうにか黙らせるか。丸杉の機能は、幸いにも凶器となりうる。扉を切断するとなると、要す時間は十分。騒音も鳴る。こうして時間を稼いでいるうちに、こっそりとやるのは、現実離れした空想だった。
ここは、脅すとかよりも、殴って気絶させるのが良いのか?
なら相応の凶器は……。木又マリナの腕か。機械化されていることから、かなりの強度がある。殴り倒すのも容易だ。
それしかない。だけど、木又マリナにどう伝えれば良いのか。
マリナさんを殺す、とまで伝えたというのに、返事がない。
二條ちあきは辺りを見回す。扉は全て施錠されている。何処へも行っていない。ここにいるのは、馬鹿でもわかるくらいに明らかだった。
だけど、物が多すぎる。物置の代わりにでもされていたのだろうか。これでは、不用意に近づくと、後ろから襲われるかもしれない。追い詰めた人間が何より凶暴だと、二條は経験則で知っていた。
「他の連中は、どこ?」
木又マリナに訊く。彼女は今、壁にもたれ掛かっている。二條からは逃げられないと悟っているので、捕まえておく必要すらない。
「仲間を売るような真似、したくないわ」
「……強情」
「もう。あなたに言われたくないわよ」
こうなったら、リスクを承知で物陰を確かめていくか? だったら施設に残っている茅島ふくみを呼びつけるか? 彼女の機能を使えば、リスクが大幅に減る。だけど、来てくれるのかどうかもわからないし、そもそも二條は彼女の連絡先を知らない。
ふと、木又をまた見てしまう。
木又がいる場所。
壁際じゃない。
扉だ。
「マリナさん、どいて」
「どうして?」
「そこが怪しい」
「嫌よ。なんでそんな事……」
「どいて」
木又を突き飛ばした。鍵が開いている。さっきは木又マリナの身体で見えなかった。こんなところにも、扉があったのか……。
入る。中。ライトを照らした。ここにいるはずだ。廃材が転がっている。
いるはず。
だった。
おかしい。
いない。
なんでいないの。
そこで気がつく。
――マリナ!
「ちあきちゃんと言えども、大したことないわね」
扉を閉められる。ロックが掛かる。
は。
この女、騙しやがった。
「念の為に、指を空けておいてよかったわ。それを今、あなた話している横で、壁にもたれながら使ってた。あなたがもう少し、私に気がつくのが遅かったら、全部失敗だったけど」
「クソ………………」
これが、『宮殿』に属している女か。
二條は、名誉になんか興味ないと自覚している以上に、今彼女に対して悔しさを募らせていた。
この女と、自分の差がここまで悔しいなんて。
「評判なら……私も負けてなかった……私だって、施設に必要とされている……」
「まあ、場数の問題よ」
顔を出す。
そこには、木又マリナが扉の前で佇んでいるだけの光景があった。
「あ、ありがとうございます……」
美雪は呟く。少しだけ、二條と木又への恐怖心を覚えながら。
「そこに、二條さんが……?」
丸杉が尋ねると、木又は微笑んだ。
「ええ。だから、今のうちに行って。私が見張っておくわ。ちあきちゃんを、説得して黙らせておかないと、意味ないしね」
美雪は頷いて、出口へ向かった。
なんとか、なったのか……。
伸びた通路を進んだ。出口。丸杉が機能を使って、扉を解体した。
ついに、開いた。
「じゃあ、私は戻りますー」
「え、一緒に来ないの?」
美雪は驚いたが、丸杉は笑った。
「ルートを確保できただけで、私は満足ですからー」
「…………ごめん、ありがとう」
走った。何かを失ったような気さえしながら、美雪は走ることしか出来なかった。
本当に、これでいいのか。
どうして、ここまでする?
どうして、ここまでしないといけないのかな。
丸杉由恵は歩いて、木又の元に戻る。
なんというか、一方的な考えだけれど、美雪とは友達になれた気がする。そんな存在は、初めてだった。今まで、他人になんて興味がなかったし、どう思われようと、どうでもよかった。いや、煙たがられるようにわざと振る舞っていた自覚もある。
なんだか、美雪と、マリナと、一つのことを成し遂げると、気持ちがいい。
気持ちがいいな。
だけど、あなたの表情は、最後まで少しも晴れなかった。
それだけが、気がかり。
友人と会えるのだから、もう少しくらい笑ったっていいのに。
本当は、素直に友人と呼べるほど、そんな清い関係でもないのかもしれない。
さて、この二條ちあきをどうしようか、と木又マリナは一人で考えようとしていた時だった。
何故か丸杉由恵が戻ってきた。
「由恵ちゃん? どうしたの?」
丸杉は笑っていた。
「別に。美雪さんを送り届けることが、最初から目的でしたのでー」
「……なるほどね」
とにかく、八頭司美雪の件はひとまず解決したと思ってもいいだろう。
今ある問題は、事後処理。二條をどうするか。頼むから施設には黙っていて、と頼んでそのとおりにしてくれるというのなら、これほど苦労のないこともないのだけれど、もちろん二條はそんな柔らかい人間でもない。
ここまで愚弄して、そういうわけには絶対行かないな。
「ああ……なるほど……」
二條は、扉の向こうから呟く。
「地下水道の見取り図と、今日の夜回り当番を調べることが出来、さらに不自然にまで反応がない茅島ふくみの対処法もわきまえているのは……八頭司美雪くらいしか、いない……」
「そうよ。今更気づいた?」
「ええ…………八頭司美雪…………覚えた……忘れるものか……」
扉から、
異音。
「ちょっと、」
「マリナさん!」
丸杉が木又を引く。
扉が、変形して、吹き飛んだ。
廃材にあたって、回転して落ちた。
中から二條が姿を現す。
無理に殴りつけたのか、左手から血が流れていた。
何だその力……。
ビルを持ち上げるというのも、あながち狂った風聞でもないのかもしれない。
目は、何も見ていない。
ああ、怒っているな。
それも、過去最高に。
「あなたたちは、反乱分子として報告する。粉微塵にしてでも……上層部に突き出してやる……」
「ち、ちあきちゃん……落ち着いてよ」
木又は焦る。真正面から掴み合いになったら、彼女に勝ち目なんてあるわけがない。丸杉も、自分の刃物の扱いに、慣れているわけでもなかった。
「私は、怒ってるの」
逃げるか。ここまでくれば、もう交渉の余地なんて無い。
いっそ、どうにかして殺してしまうか。
二條が脱走しようとしていたという虚偽のストーリーを報告すれば、なんとかごまかせる。
木又の頭は、一瞬でその結論を、足で蹴り出すみたいに算出する。
そこへ――
「待ちなさいな」
入り口から、ひょっこりと首だけを出してから現れたのは、
「ふくみちゃん……?」
長い髪をくるくる振り回す、もうひとりの夜回り当番、茅島ふくみだった。
木又マリナは、その顔を見る度に、綺麗だなといつも思っていたことを思い出す。
突然現れた女に意識を取られて、二條ちあきも動きを止めた。
「どうしてここに……?」
木又が尋ねると、茅島ふくみは頭をかきながら面倒くさそうに口にした。
「二條さんを説得しに来たわ」
「私? 今更、何?」
二條ちあきは茅島ふくみを睨んだ。この二人が並んでいると、絵にはなる。
「事情は知っています」ふくみは説明する。「美雪がこっそりここを抜け出そうとしていたことも、木又さんたちが協力していたことも、そして彩佳に電話を掛けさせたことも」
彩佳という人物は知らないが、おそらくその彼女に茅島ふくみの注意を引くように美雪が頼んでいたのだろう、と木又はとりあえず、そういう解釈で納得した。
「彩佳に訊いたら驚いてたけど、彼女は教えてくれたわ。美雪の頼みだって。彼女も、美雪が何をするつもりなのかはよく知らないみたいだったけど、それで腑に落ちた。私の注意を引くってことは、どうせ脱走でも考えてるんでしょうってね」
「じゃあ、なんでもっと早く止めない……?」
二條が訊く。
「ごめんなさいね。忙しかったから」ふくみは微笑む。「二條さん、ここは、手を引かない? あなただって、こんなところにいるのを、上層部に知られたくないでしょう? カードキーを盗んだってのも」
「手を引く……? ふざけてる」二條は首を振って、左手をふくみに向ける。「何の義理でそんな。あなたは、自分のチームの一員が関わってるから、見逃そうとしてる……」
「違うわ。もう手は打ってあるの。美雪のことは、任せなさい。だから、来るのが遅くなったわけ。私達がここで喧嘩したって、何の意味もないじゃない? それでも許せないって言うなら、相手になるけど?」
ふくみは身体を構えた。別に、護身術程度の知識しかないはずなのに、その二條と対面する自信は何処から来るのだろうか。
「……手は打ってあるって、本当?」
「ええ。美雪のことは、待っていれば解決するわ。私達がこうやって騒ぐほうが、誰かに見つかる可能性が高いわよ。ここは穏便に済ませるのが、一番全員の利益になる」
二條は考え込んだ。
そして、左腕を諦めたようにだらんと下ろす。
「あなたの品のない蹴りなんて、喰らいたくもない」
「よく言うわよ、ロケットパンチ女」
「…………」
一瞬二條はまた茅島ふくみを睨みつけたが、やがてふくみの側を通り過ぎて立ち去る。
終わった。
なんだかわからないが、解決したようだ。
木又マリナは、ため息を吐いてから尋ねた。
「ふくみちゃん、手を打ったってなに?」
「美雪さん、つかまっちゃうんですかー?」
「まあ待ってくださいよ」
茅島ふくみは、疲れたのか廃材の上に座って、話す。
「捕まるかどうかは置いておいて、これが最善ですよ。少なくとも、私の考える範囲ではね」
「いつから、わかってたの?」
ときどき、茅島ふくみの評判は耳にすることがあったが、実際に目の辺りにしたのは今日が初めてですらあった。
「医師に訊いたんですよ、美雪の友人の話。過去の話も。だからまあ……絶対抜け出すだろうなってのはわかってました。そう思っていたら、彩佳から電話がかかってきて。協力者がいるかどうかは、地下水道の入り口から音を聞いてたら、なんとなく判別できました。そもそもこんな鍵を開けられるのは木又さんしかいませんし、超音波を発生させる必要がある機能も、丸杉さんしかいません。そこまでわかった時点で、手を、打ちました」
「……どんな?」
目の前の女は、口に指を当てて優しく微笑んだ。
「内緒、です」
マンホールは重かったが、地上に顔を出した時、そんなことはどうでも良くなった。
夜空だ。間違いなく、外。首を回すと、自分が目的地としている駅の明かりが見える。
出て、マンホールの蓋を戻した。この中で起きたことが、全部ウソみたいに感じられるような気がした。だけど、美雪は実際にここに立っている。
駅へ向かう。歩いて、すぐの所だ。地下鉄ですら無い、野ざらしになっている無人駅。施設からまっすぐに向かえば、これほど時間がかかるわけでもないのに。
改札を抜けようと立ち入った。だが、そこには人影が立っていた。
「美雪さん、こんばんは」
「……なんで」
驚いた。そこにいたのは、精密女。チームメイトで、両腕が機械剥き出しで、あんまり好きじゃない女。
ふくみのことを考える。やっぱり、あんな電話くらいじゃ、バレていたのか? だったら、なんで私はここにたどり着けているのか。美雪は考えたが、納得のできる答えが吐き出せなかった。
「私が、いえ、ふくみさんが気づいてないとでも思いました?」
「わ、わかってたよ。なんだよ、止めに来たの?」
「あの人、自分も夜回り当番だからって、駅まで行くのは忍びないから、私を使うんですよ? ひどくないですか?」
「断ったら、良いじゃん」
「私が行くのが最善だって言ってたので、仕方なく」
改札の薄明かりが、精密女を照らす。
彼女は尋ねる。
「どうしてそこまで、友人に会いたいのですか? あなたなら、いつでも外出許可だって下りるじゃないですか。脱走なんて、あなたみたいな人がするもんじゃないですよ」
「うるさいな……しょうがないじゃん」
夏代とのことを、話す。今まで、この精密女には一言だって話したことはない。
口にしているうちに、悲しい気分になる。
辛い。
「どうしてだろう…………」美雪はたまらずに漏らす。「お互いに、もうそんなのはどうでもいいって思ってるはずだよ。いや、向こうはそう思ってるに決まってる。じゃないと困る。でも…………私はなんでいつまでも気にしてるんだろう……いつまで、夏代をまっすぐ見られないんだろう……今日だって、こんな事して、気持ちいわけないのに、後悔しかないのに、なんでやっちゃったんだろう……」
精密女は、聞き終えると一転して、意外なほど馬鹿にした態度をとった。
「別に、普通ですよ、そんなの」
「……普通?」
この話をして、普通なんて一度だって言われたことがない。
「誰だって、いつまでも過去の嫌な行いで、無意味に自分を蔑むんですよ。なぜかと言うと、嫌なことのほうが記憶に残りやすいからにほかなりません。ただ記憶の鮮明さが違う。ただそれだけです。普通ですよ、普通」
「……それだけって……」
「あなたの悩みなんて、全然大したことのない、些細なやつなんですよ。ですから……」
「…………それでも私は、引き返さないよ」
「いえ、止めませんよ。ふくみさんだって、そのつもりで私を寄越したんですから」
「え……」
ふくみは、怒っているわけではない?
少し恥ずかしそうに、精密女は言う。
「まあ、なんですか。あなたの肩の荷を下ろすようにって、言われたんですよ。なにか、思い悩んでいるみたいですから。どうですか? 払拭できましたか? あなたが今後また馬鹿をしないように、友人とのこじれた感情のケリを付けて来てほしい、というのがふくみさんの考えですよ。その役目が、どうして私なんですかねえ……」
わからない。
でも、悔しいけれど、精密女の言うことは、何故か水みたいに、抵抗なく身体に染み込んでくる。
そういう話し方に慣れているのだろう。ここへ来るより昔は何をしていたのか、全く知らないが。
「結構」
何も言っていないのに、精密女は勝手に納得する。
「良いですか。そんな悩みなんて普通の事なんですから、別に抱えていたって良いです。だけど判断は間違えないようにしてください。自分を傷つけたり、友達との距離を見誤ったり、まあいろいろです」
「もう、うるさいな……」
なんて言いながら、微笑みを漏らしてしまったのを、美雪は自覚した。
「わかってくれました?」
ずいっと、殴りたくなるような顔を精密女はして、こちらに向けた。
「……なんとなく、あんたが、ふくみの頼みだけじゃなくて、思いやりで私を気遣ってくれてるってことは」
「そうですか。そんなつもりはないんですけどね。そうだ。せっかくなので、街まで一緒に出ますよ。丁度買いたいものがありましたから」
改札をさっさとくぐる精密女。
何を言ってるんだと美雪は思うが、不思議なほど受け入れられた。
むしろ、不安でもないのに心強い。
「脱走になっちゃうよ、それじゃ。共犯じゃん」
ホームで横に並んだ。やがて、電車が来る。これが終電だ。
「私はあなたを連れ戻しに出たって言いますから、お咎めなしですよ。残念ですね」
「なんだよそれ……」
不本意だけど、本当に不本意だけれど、なんだろう。彼女の言葉の所為か、これから友だちと会うことが、こんなにも楽しみだなんて、それこそ小学校の時以来だった。
――ねえ夏代。なにして、遊ぼうか。
電車に揺られながら、美雪は少し眠った。
いつもは研ぎ澄ませている身体、その不調が整えられた反動なのかもしれない。
夜の街。
そこに湯浅夏代は佇んでいる。
無理させちゃったかな、と端末を開きながらずっと考えていた。尤も、美雪はどれだけ無理をしても、街に出てくることは、すでによく理解している。
今日で、最後にしたいと思っていた。
もうこれ以上無理しないで欲しい。
私なんかに負い目を感じる必要なんかない。
それで暗い気持ちを抱えるなら、もう友達関係なんて、すっぱり断ち切った方が良いとすら、
思っていたのに、遠くのほうから現れた八頭司美雪の顔は晴れやかだった。
ああ、と思い出す。小学校の頃を。
それだけで、夏代は全てを察する。
美雪。
いつもの美雪じゃない。
いや、昔の美雪に、戻ったのか。
とても、楽しそうだ。
その顔が、ずっと見たかったのに、あなたはいつしか変わってしまった。
何があったのかな。尋ねたい。
解脱したような表情を浮かべた友人を見て、さっきまで考えていたバカバカしいことを取っ払った。
湯浅夏代は小学校時代に帰ったような気持ちで、友人を迎え入れた。
「久しぶり、美雪」
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