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医師、という通り名を用いている、本名不詳の女上司の部屋は、診察室のような作りを残してあった。
美雪と丸杉は、壁際に設置された机に載っている、医師のコンピューターにアクセスをする。この時間、あの女上司は職員会議だとかで部屋を留守にする。不用心にもほどがあったが、彼女としては、身内の調査員くらいしか存在しないこの施設に於いて、警戒するものなんてなにもないのだろう。
解像度を重視した、液晶モニタにスクリーンセーバーが表示されている。チカチカしていて、あまり長時間眺めたいものでもない。マウスを触るとそれが消えて、デスクトップ画面に以移行する。パスコードロックすら掛かっていなかった。今度、医師のやつに提言したほうが良いかもしれない。
美雪は椅子に座ることすらせずに、そそくさと目星をつけたファイルを開いていく。当日の夜回り当番が記載されていれば、なんだっていい。その類の書類は、『雑』というフォルダに押し込められていた。なんというか、医師らしい乱雑さだった。
「すごーい! 慣れてるんですね、クラッキング!」
丸杉はバカにしているみたいに手を叩いて喜んだ。こんなの、不正アクセスのうちにも入らない。ただの操作だった。美雪は返事もしないで、ファイルを改めていった。
決行日の夜回り当番……これか。目的の書類は程なくして見つかった。いつも医師が決めているので、もちろんこのコンピューターに含まれているとは思っていた。夜回り当番自体は、いつも本人には三日前には知らされるが、他人の当番の日を知るすべはない。
「このあたりかな……」
眺める。施設に所属する人間の名前が、その表には羅列されている。ここでもし、自分や丸杉や木又が当番であれば、何の問題もないのだけれど、そんな上手いめぐり合わせはあまりあるものでもなかった。
「……最悪」
美雪は、名前を確認して、思わず呟く。
そこには、
「茅島、ふくみ?」
覚えていないのか、首をかしげる丸杉。
「うちのリーダーだよ……」舌打ちを漏らす美雪。「ああ、もう! なんでこんな日にふくみなの!」
そう言われて、丸杉でさえも思い出したように狼狽した。
「え、あの茅島ふくみさん? やばいよ、どど、どうしよう……」
茅島ふくみの名前は、施設内では有名だった。その機能から、もっとも敵に回したくない調査員だとも言われているのを、美雪ですら聞いたことがあった。
想定すらしていないほど、最悪の事態だ。どうする? この場合、決行日を変えるほうが無難ですらある。
「落ち着こう……当番ってもうひとりいるじゃん? そっちが根回し出来るようだったら、そう難しいもんじゃないよ」
深呼吸をする。誰の名前であっても、驚く準備すら出来ていた。
見る。
「二條、ちあき、さん、ね」丸杉が読み上げた。「ど、どんな人だっけ?」
「………………終わった」
チーム『しつけ』のリーダー格として認識されている彼女の評判は、茅島ふくみと並び称されるものだった。茅島ふくみこそ、施設内でもかなり有能な機械化能力者であるとも言われているが、それはこの女も同じことだった。ふくみと比べられて霞むことすら無いのは、チーム『宮殿』の人間を除けば二條ちあきくらいだった。
二條は、持っている機能の恐ろしさもさることながら、とにかく頭が固くて規則には厳しい人間だった。とりわけ戦闘能力に関しては、鬼のようだとも言われることがある。その方面は殆ど常人に等しい茅島ふくみに比べると、彼女は素手でビルを持ち上げるとか、一聴して悪口みたいな風聞が耳に入ることもあった。
美雪は、何度目かの頭を抱えた。
「最悪だよ…………最悪」
丸杉の自室にまた集まる。これは一刻も早く相談をするべきだと思ったからだった。
話を聞くと、木又マリナが嫌そうに眉をひそめた。
「それって、考えられる中で一番悪いじゃない」
「そう……そうなんですよ」美雪はベッドに寝そべりながら答えた。先輩の前ではしたないとは思ったけれど、そんなことはどうだって良くなっていた。「ふくみに、二條さん……決行日変えたほうが良いですよ、これじゃあ」
「でも、約束の日はもう変えられないんでしょう?」木又が言う。「とにかく、考えてみましょうよ。ふくみちゃんをどうにかするのが、まずは一番の課題じゃないかしら」
「そうは言ってもな……」
「ふくみちゃんについて詳しいのは、美雪ちゃんよね。ふくみちゃん、結構最近入ってきたから、私あんまり面識ないんだけど、どんな機能なの? 耳が良いってことは知ってるけど」
美雪は身体を起こした。
「耳が良いなんてもんじゃないですよ。なんでも聞こえるんです。この施設なら、ネズミの居場所だって聞こえるんじゃないかな……。しかも、人の呼吸音や話し方なんかを聞いただけで、大体どんな感情を抱えているのか割り出せるんですよ。もう、反則みたいな機能ですよ、あれ……」
木又は、腕を組みながら頷いた。
「そっか。歴が浅いチームの中では、『戦慄』だけ妙に成功率が高いと思ったら、そんな機能なのね……。ふくみちゃんに、美雪ちゃんがいたら、大体の情報は集まるじゃない。良いなー。そのうえもうひとりいるんでしょ?」
「交渉担当の精密女ってのが。あの両腕でなんでも破壊します」
「面白いチームね……」
「まあ、茅島ふくみさんのことはー、後で考えたら良いんじゃないですかねー」
なんて、能天気に丸杉はそう口にする。彼女の意見も尤もではあった。解決するべき問題は、ふくみだけではない。
「あとは、二條さんか……」美雪は呟いて、また気分が重くなる。「確かに面倒ではあるけど、ふくみほどじゃないよね」
「ちあきちゃんなら、正面から押さえつけようって思わなかったら大丈夫よ」木又がアドバイスなのかそんなことを口にする。「会っちゃったらもうそこで終わりだと思ったほうが良いけど、別に捜査に適したような機能が備わってるわけじゃないもの。バレなきゃ大丈夫よ。うん。あとあの融通の利かない性格が厄介なだけ」
「なるほど……」美雪はとりあえず頷いた。「丸杉さんは、二條さんについて、なんかない?」
「ええー、話したこともないです」
二條についての話は、そこで終わった。やはり、茅島ふくみをどうにかしなければ、計画なんて微塵も立てようがなかった。
なにか、手は……。好物で釣るだとか、そんな都合のいい方法は。思えば、ふくみの好物すらよくわからない。美雪ですら詰まっているのに、木又たちにも案をひねり出させるのは、酷だといって差し支えなかった。
だが、考えているうちに、ある突破口が天使みたいに美雪の頭に振りそそいだ。
そうか――
「わかった。ふくみのことなら、私に任せてくださいよ」美雪は手を挙げて言った。「なんとか出来ますよ。絶対大丈夫です」
「……ほんとう?」丸杉が訝りながら美雪を見た。
「本当だって。信じてよ。ふくみには詳しいから。私一人でなんとか出来る」
「じゃあ、お願いね」
これ以上疑っても仕方がないと何処かで考えていたのだろう木又が、さっさと笑いかけて美雪にそう頼んだ。美雪は、「わかりました」と言って、端末のメモ欄にこのことを記載する。
夜回り対策は、一応これでどうにかなるとして、今度はそれ以前の段階に話が移る。
丸杉が、脱走に際して他に必要なものをリストアップした。
地下水道の見取り図は、美雪が今すぐにでも引っ張ってこられる。問題はない。これを元に、丸杉が潜入ルートを考える。
あとは地下水道の鍵。これは木又に頼もう。決行日の前日までに、見つからないように鍵を取得する必要がある。当日、スムーズに潜入できるようにするためだった。
「任せて任せて。こういうの、私大得意!」うふふ、なんて言いながら笑う木又マリナ。
そして入り口の鍵を開けておいてもらっている間に、丸杉にはやることがあった。鍵以外の潜入ルートの開通。すなわち壁に穴をあけたりする作業だった。丸杉の機能を使えばなんとかなる。
となると、やっぱり見取り図が最優先だ。
「わかった、ちょっと待ってて。今日中に見つけてくるよ」
なんとか、決行日までに終わればいいけれど、と美雪は少しの漠然とした不安を抱えていた。
三日後には決行日の夜だった。
丸杉は、日中美雪がサーバーから入手していた、地下水道の見取り図にマークを入れながら、その入り口へ向かう。この日の夜回り当番の一人は木又マリナだったので、特に難なく地下水道へたどり着いた。
入り口は開いていた。木又に、数分前に解錠してもらっていた。彼女は、既に鍵を昨日入手していた。
美雪に頼んだ書き込みを眺める。彼女の機能を使って、地図上の縮尺から、実際の距離を測ってもらった。丸杉の割り出したルートを辿れば、さほど時間もかからないで、マンホールへたどり着く事ができる。問題は、いくつか壁を超えないといけないという点だったが、それを処理するために今こうして侵入している。
入り込んだ中、当然だけれど明かりすらなく、気味の悪さすら感じないほどに何も見えない。丸杉が端末のライトで照らすと、次第にその光景が浮かび上がってきた。
コンクリートで固められただけの、真っ直ぐに伸びた長い通路。鼻を刺すような湿気と臭いが、居心地の悪さを醸し出していた。水が通っている場所は、もう少し先。
早速見取り図の通りに進んだ。だけど彼女が目指しているのは、行き止まりになっている壁の方面だった。
ここに穴を開ければ、最短でマンホールへの扉に近づける。これほどのショートカットを全て利用すると、入り口からマンホールまでに要する時間が十五分程度となる。革命的と言ってもいいくらいに早い。
壁に穴をあける手段は、簡単だった。丸杉の機能は、それに特化したものだった。
「このへんで、いいかなー」
壁を触りながら、呟く彼女。思ったよりも、ずっと壁の作りは薄かった。殴ると、反対側まで聞こえてしまいそうなくらいだった。
彼女は右手の人差し指を立てる。その先端から、鋭利なものが飛び出してきた。
カッターナイフ程度のサイズを持った、刃物。刃先は、ずっと生きているみたいに振動している。ここから超音波を発生させて、対象を切断しやすくしている。つまり、彼女の機能を用いれば、大抵のものは切れると言われていた。普段は主に侵入経路の確保や、その刃先での直接の武力交渉に用いられるが、丸杉自身は、そんな役回りは向いていないと感じていた。単純に、彼女の人間性の問題だった。
壁に、刃を差し込んで、切れ込みを入れていく。人がなんとか通ることが出来れば、それで十分だ。業者に見つかって、変に騒ぎになっても困る。控えめな大きさの穴を作ろう。
なんて考えているうちに、作業を終えた。
いびつな楕円形に切れ込みの入った壁の一部分。そこを丸杉は蹴った。ゴトッ、と音が鳴って、くり抜かれた壁は向こう側に打ち捨てられた。
「なんとか、通れるかな」
頭からくぐって、抜けた先には、足元に溝があって水が流れていた。
となると、見取り図のこのあたりで間違いなさそうだ。丸杉は確認をすると、一人で嬉しそうに頷く。地図に記載された内容の正しさについて、こんなに喜んだことはない。
その調子で、丸杉はマンホールへのルートを確保していった。途中でいくつかあった鉄格子も、彼女の機能にかかれば肉を切るよりも容易かった。そんな作業をしていると、彼女ですら脱獄を題材にした映画を思い出していた。そうだ。これは、仲間と一緒に掴む自由への運動なのだろうな、なんて、丸杉はロマンチックな考えをして、また一人でほくそ笑んだ。
思えば、最初は美雪に近づきたかっただけだった。
脱出計画なんて、考えてもいなかった。丸杉にとって、外の世界なんて羽虫ほどの興味すら無い、どうでもいいものだった。任務で遠征した際も、彼女は自分の仕事を終えると滞在先でじっとしていることが多かった。思い入れもない地域に貢献したって、自分にリターンがあるわけでもなし。自分の内側、自分が良いと決めた世界だけが、彼女にとって財産よりも価値のあるものだった。
一方で、美雪のことは、妙に気になっていた。
実際はあの日、美雪がチーム戦慄の二人と食堂で話をしているのを目撃しただけに過ぎない。そこに仲の良かった木又に話を合わせてもらって、資料室で美雪が一人で思い悩んでいるところに、声をかけただけ、というのが事の真相だった。
八頭司美雪。この施設の人間にしては、よく外出をして、都会を理解していた。異質な存在とは、美雪を表す言葉だと思っていた。
もう彼女は覚えてもいないだろうが、丸杉が調べ物で困っていた時に、木又の紹介で助けてもらったことがあった。木又はともかく、施設の大抵の人間にはいい顔をされていない丸杉に、嫌な顔ひとつせず協力してくれたのを、彼女はずっと覚えている。そこから、一目を置いているのだけれど、当の美雪にとっては、些細な日常の破片だったようだ。
それでもいい。なにか、恩返しがしたかった。偏執的なくらい、丸杉は美雪についてずっと考えていた。だけど、話すことも、顔を合わせることも、それ以来殆どなかったし、美雪の周りにはいつも人がいた。特に、精密女とかいう怖そうな人がうろうろしているのも、話しかけづらい一因だった。話しかける前に、あの両腕で身体を引きちぎられそうな心配があった。
やっと、美雪の役に立てる。
人生に於いて、これほどの充足を感じた経験はなかった。
鉄格子も、薄い壁も、全てを開通させた丸杉は、傍を流れる水音を聞きながら、見取り図を眺めて悦に入る。完璧だ。後はこの眼の前の扉の鍵を木又マリナが取得すれば、当日の計画はスムーズに進む。彼女の指の数も足りている。
祈りのように、近くの壁に機能を使って印をつけた。
それは、他の二人には教えていない、脱走計画に携わる三人のチーム名だった。
彼女はそれを、誰にも告げずに墓場まで持っていくのだろう。
白髪で、一見すると餅みたいな風貌の女が、施設の廊下を歩いていた。
二條ちあき。チーム『しつけ』のリーダーで、年の頃はよくわからない女。顔つきは、比較的若いと言われることがよくあったが、古臭いドレスみたいな服装と、何の趣味なのかわからないが白髪に染めた頭が、彼女の人物像を不明瞭にしていた。それでも歩き姿が美しく、施設内でも一定の支持者が存在することは確かだった。
この日、彼女はいつものように自主的なパトロールを行っていた。任務のない日は、そうやって時間をつぶすか、部屋でアニメーションでも観るのが彼女の趣味だった。
その流れで、木又マリナの姿を見つけたのだが、どこか怪しさを彼女は感じ取っていた。そういう機能があるわけでもないので、これは感覚の類でしか無い。
木又マリナは、しきりに周囲を確認しながら部屋から出てきた。こっそり観察でもしてやろうかと思ったけれど、なにか良くないことを企んでいるのなら、未然に防ぐのもパトロールの意義だろうと思い、二條は挨拶をする。
「マリナさん、こんにちは」
「ああ、ちあきちゃん、こんにちは」
いつものように、親しみやすい笑顔をすぐに作り出す木又マリナ。この順応性が、任務成功率に直結しているのだろう。
「今日は、任務はないの?」
「ええ。だから、暇」
「もう。任務以外の趣味でも見つけなさいよ」
「なにかあると、いいけど」
アニメーションを観るなんていう趣味を、とくに木又マリナのような年上に話したくはなかったので、二條は隠していた。
木又はじゃあね、と言い残して去った。急いでいるのだろうか。一度怪しいと感じてしまったから、そういう風にしか見られなくなってしまったのだろうか。
いや、前からあの女の動向が気になっていた。妙に人の世話を焼きたがるというか、なんというか。関わらなくていい人間に対してすらも、簡単に首を突っ込んでしまう節が、彼女にはあった。
追うか? そんな無粋なことすら考える。そこまでするほどか、先程の木又の様子から、天秤にかけて考えた。答えは、ノー。別に、この施設で出来る悪事なんて、そうあるものでもない。こんな山奥の、隔離された場所で、一体何を。
二条はパトロールを再開した。後は、一階を見て回れば終わる。その後は夜回り当番に丸投げして、自分は自室で時間を潰すだけ。任務の無い日は、時間を持て余す。だから、嫌いだった。
二階の窓から、外をなんとなしに眺めると、人影が映った。誰だ。今は、珍しいまでにほとんどの調査員が、任務に出払っている。施設に残っているのは、二條らの『しつけ』と昨日まで任務だった木又らの『宮殿』くらいだった。後は、未所属の調査には使えない人間が数人いるが、その人影は明らかに彼らとは違った。
――木又マリナ。
さっき別れた女が、外をうろうろしていた。しきりに周囲を気にしている素振りを見せている。ここから覗かれていることも、当然理解しているのか、二階の窓の方まで睨むように見つめていた。二條はとっさに身を隠してしまった。
なんだ? なにをやっている。
姿を目で追う。先にあるものといえば、一つしか無い。
「地下水道……?」
施設の人間だって、そんな所に用事がある者は、全くと言っていいほどいない。第一、入り口には鍵がかかっていて、業者でないと立ち入りできないはずだが、そうか、木又の機能を使えば容易に侵入出来る。
現に彼女は、解錠に二秒とかからずに地下水道へ下りた。聞いたことがある。彼女の機能はアクセス権限を無理やり取得して鍵を開けるので、初回にそれを得るのには二分ほどの時間を要するが、それ以降は権限を破棄するまで普通のカードキーと同じようにスムーズに解錠できると。
地下水道の鍵は、つまり取得済みだった。いつ? 『宮殿』は昨日、任務だったからそんな時間はない。もっと以前に行っていたのだとしたら、何をしているのだろうか。二條の知りうる範囲では、答えが出ない。
時計を見る。時間を計った。あの木又が、中で何を行っているのか、時間を測定すれば、大体の目星はつくかもしれない。
二條は、窓を開けて、風を受けた。涼しい。風が気持ちいい。どうせ、こんな陽気とは違って、地下水道は湿っていて、陰気臭いところだろう。しばらく経ったけれど、木又マリナはまだ出てくる気配すらない。
「任務以外の楽しみ……」
言われて、何処か気にしていたのだろう。わざわざそう呟いてみたけれど、天啓のように降ってくるものでもなかった。自分は、そんな楽しみを持っていい人間だとも思っていない。マリナは楽しそうだ。いつも、いつも。自分と比べてみると、水に岩を沈めるみたいな虚しい気持ちになるだけで終わった。
二條ちあきとは、何もかも違う。嫌でもそんなことはわかっていた。
入り口に反応があった。時計。三十分。つまり、片道十五分。木又マリナが姿を見せる。息切れを起こしている様子から、走って来たのだろう。そのくらいの距離にある、なにか。地下水道のことは、調べれば出てくるだろうか。だけど、そんな所に何があるのか見当もつかない。
宝物でも、隠しているわけじゃなし。だが考えてもみる。施設は、確かにプライバシーという面では、十分だとは言えなかった。こうして二條だって、アニメーションを見るという時間の潰し方を、誰にも知られずに済んでいるかといえば、そうでもなかった。
木又マリナが何を隠したのか気にはなったが、二條はそこで観察を止めた。本人に問いただすつもりもないし、密告する趣味だって無い。規則には、あそこには行ってはいけないと明確に表記されているわけでもなかった。なら、どうだって良い。
まあもっとも、あんなところに入れるのは、木又くらいしかいないのだけれど。
医師、彼女の部屋。
茅島ふくみは、医師に定期メンテナンスを受けていた。いつも酷使をすることから、医師に怒られるのは珍しくはないのだけれど、その度に医師は丁寧なメンテナンスをしてくれる。茅島ふくみの存在は有用であると、医師もよく理解しているからだろう。きっと、二條ちあきにだって、似たような対応をしている。
医師は三十代と見られる女性で、電子タバコを吸い、酒を飲み、小言を言ってストレスを緩和しているようだが、いつも顔色は良くなかった。本名はわからないが、聞くと答えてくれそうではあった。ぼさっとした長い髪、わざとらしい白衣、その中は案外若い世代が来そうな衣類。そして、何年も調整していないような古臭いメガネを掛けている。
「加賀谷彩佳とはどうだ」
医師は、茅島ふくみの友人の名前を口にする。
ふくみは診察台で、起き上がるのも面倒なのか寝そべったまま答える。
「別に。よく連絡を取ってるし、良好よ。楽しいわよ、話してると。あんたがバイトとして雇ったから、会う機会も十分あるし」
少し彩佳を巻き込んだことに対する嫌味を含めたつもりだったが、医師は話題を何事もなかったかのように変える。
「記憶喪失は、どうだ」
「……なんでそんなこと訊くのよ」ふくみは眉をひそめる。「戻らないって、あんたが言ったんじゃないの」
「ま、形式上、確認しておかないといけないからな」
記憶に対して、気に病む彼女でもない。もう記憶がないことに対しては、彼女にとっては既にどうでも良く思っていた。
そういえば、とふくみは口にする。
「美雪がさ、外出届を出し忘れちゃったんだけど、なんとかならない?」
「また出かけるのか? 今回は諦めろと伝えてくれ」
「けち」
「施設の性質の所為だよ。私の独断じゃない」医師は少し、申し訳無さそうに言う。「勝手に外出すれば、割と重いペナルティもあるしな。そうなったら、任務の振り分け計画が、全て狂うから、本気で困るんだよ」
「それはわかってるけど……」ふくみは、釈然としない気持ちを抱える。「約束してたんだって、友達と。私も、断りなさいとは言ったけど、素直に従うかつもりは、耳で聞いた感じだとあまりないみたい」
「お前の耳で聞いたんじゃあな……うーん」医師は唸った。「まあ……間違いがないとは言えない。あいつなら、こっそり抜け出して、帰ってくることも出来るだろうし」
「それもそうね……」
「そういえば、お前もうすぐ夜回り当番だぞ。言い忘れていたが」
「ええ、嘘……」本気で嫌そうな顔を見せながら、ようやくふくみは、ゆっくりと身体を起こした。「もう。眠たくなってくるから、あんまり好きじゃないのよね……」
「参考までに訊くが、八頭司は誰と会うつもりだった?」
「え? 知らない。昔の友達って言ってたわ」
医師はコンピューターを触って、表示させる。そこには、八頭司美雪の交友関係が全て記されていた。
「悪いが、そのあたりのことは全て調べてあるんだよ」
「まあ。悪いんだー」
そう言いながら、微笑みを隠しきれないで画面を覗き込む茅島ふくみ。
「彼女かな」
医師は目星をつけた人物を取り上げる。
「湯浅、夏代……聞いたことないわ」
「まあ、わざわざ言わないさ。なにかこじれた考えを持っているなら、なおさらな……」
昼間。人の多いカフェで端末を触る女。
『かならず行くよ』という嬉しそうなメッセージとは裏腹に、受け取った女は腹を殴られるような思いを抱えてしまった。
「無理すんなって、言ったのに……」
女、湯浅夏代はわざとらしく呟く。
だけど、それを止めるのも、悪いと思った。美雪がどういう思いで、いつも夏代に会いに来ているのか、知らない夏代ではなかった。
「美雪……」
これは、予感。
このままでは、私達はいつか分解してしまう。お互いに、完全に気持ちのいい関係ではないからだった。
だから、その時まで、心ゆくまで友達でいるというのも、最善ではないが最悪の選択肢とは思えなかった。
そう思うしかなかった。
だから夏代は、いつだって美雪と遊ぶときは、ああ最後なんだなって、そんな心構えを砂で作った城みたいに用意していた。
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