1/3
朝食時が爽やかだなんて、押し付けられた価値観だと強く感じた。
八頭司美雪はその日、十分に睡眠を取り、空腹で目を覚ました。自分で言うのも何だと思ったが、かなり健やかだろう。前日に出た任務が比較的スムーズに終わり、適度な達成感を覚えながら施設へ帰投してそのまま眠ったのが功を奏した。
気持ちの良い目覚めだった。朝食だって、いくらでも胃に流し込めそうだった。
支度をして食堂へ行くと、チームとしていつも同じ任務にあたっている、他の二人が既に席についていた。美雪にしては早起きだったのに、彼女たちはそれよりも早いのか。美雪はそこでなんだか負けたような気分を味わったけれど、次の瞬間には綺麗に忘れてしまって、半壊しかけている備え付けの椅子に座った。
「おはよう、美雪」
髪が長くて、あまりに整った相貌を持つ女が、美雪の顔を見て言った。
彼女は茅島ふくみ。美雪の所属するチーム『戦慄』のリーダー格とされる。機械の耳を持っていて、聞き取れない音はないらしい。彼女はその機能を使って、警察では手に負えないような機能を用いる犯罪者を、分析して白日の下に晒したりするのが仕事だった。
「おはよう、ふくみ」
美雪は笑顔で返した。彼女は、茅島ふくみを信頼していた。美雪自身も、物の長さを測ることが出来る瞳、という機能を持っているが、茅島ふくみの利便性には敵わないと理解していた。だから、彼女さえいれば怖いものなんてないと思っている。
「あら、私には挨拶は無いんですか?」
その隣に座っていた精密女が口を開いた。
彼女の本名は全く不明。施設の誰も知らないのかもしれない。いつも髪の毛は適当に結んでいるので、毎日微妙に形が違う。今日は後ろ髪の先端を後頭部で留めていた。そうやって遊んでいるのかもしれない。
その両腕は完全に機械化されており、人工の皮膚で覆われてすらいないので、剥き出しになっている。脳波で動かせる故に、超精密動作が出来るという機能だが、不安定のため美雪がよく調整している。
「ああ、いたんだ」
「もう、美雪さん、寝ぼけてます? 二度寝したらどうですか?」
「いやだな、バッチリだよ」
精密女は、少し苦手だった。何を考えているのかわからないし、美雪の機能との相性がよく、任務ではよく一緒に行動させられることが原因だった。美雪としては、もっと茅島ふくみと一緒にいてみたいのだけれど、どこか精密女にそれを邪魔されているような気さえしていた。逆恨みに近い感情だとは理解していた。
かといって、別に彼女たち三人が不仲というわけでもなかった。施設に所属するチームの中では、かなりくだらない薬にもならないような雑談の多い方だった。今だって、朝食を食べながらずっと話をしている。任務の次の日は、完全に暇になる。こうやって時間をつぶすのも、美雪としては悪いと感じてはいない。
施設から、最近は頑張っている、として近々大型の非番が与えられるという話になった時だった。ふくみは友人の所に泊まりに行こうと思っているし、精密女は旅行でもしようかと考えているらしいが、美雪はそこで思い出した。
「あ、どうしよう……」
「なによ美雪。どうしたの?」
茅島ふくみがコーヒーを飲みながら、首をかしげた。
「友達と約束してたんだった……」
「それって連休のこと?」
「いや、違う、今度の週末……六日後だね。しまった……」
「あ、わかりましたよ」精密女がうれしそうに鼻を鳴らす。「外出届、出してないんでしょ」
「……そうだよ。まずったな」
浮き世からやや隔離され、多数の機械化能力者(俗称)を抱えるこの施設は、いくら所属している調査員であろうと、任務以外では自由に外へ出ることは出来なかった。必ず外出届を提出しなければいけないし、多くの場合は受理すらされなかった。
美雪はその若い年齢から、施設側も考慮して、特別待遇という形で外出許可が得やすい様に取り計らわれているのだが、それも提出していなければ意味はない。
「期限って……確か当日の一週間前だったわよね」
茅島ふくみがそう呟くと、美雪は頷いた。
「うん……ああ、なんで忘れてたんだろう……」
先週を思い出す。任務だろう。死んでしまうという程ではないけれど、この施設に来てからの中でも、かなり忙しい部類に含まれていた。それでは、外出届なんか、忘れてしまうのも無理はなかったけれど……。
どうするべきか。どう言い訳をするべきか。
「もう美雪さんったら」精密女が頬杖を突いて、美雪を見た。「私に言っておいてくれたら、期限前に教えることも出来たのに」
「なんであんたに教えないといけないんだよ……。でも、どうしよう。今から言っても、だめだよね」
茅島ふくみは、何処から出したのか、今度は真緑の得体のしれないジュースを飲みながら答えた。
「残念だけど、いくらあなたとはいえ、規則は規則だわ。今回はその友達に、丁重に断っておきなさい?」
「……でも」
「なによ。よっぽど楽しみだったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
結局美雪は、その場では落ち着きを見せることが出来たが、心の隅ではやっぱり納得がいかないと言うか、本質的に溜飲を下げられなかった。
爽やかな朝食の味なんて、もうしなくなっていた。
美雪は自室に戻って、この世の終わりみたいにその金髪をぐしゃぐしゃにして、頭を抱えた。
諦められない。そういった考えしか浮かび上がってこなかった。だけどどうすれば良いのか。どれだけ考えても、自分で自分に包丁を突き刺しているような気分にしかならない。
諦めたくない。だって、彼女にはもう、悲しい思いなんてさせたくなかったから。
自分の身を犠牲にしてでも、そう思う。
八頭司美雪には、小学校の頃から付き合いのある、仲のいい友人がいた。その名前は湯浅夏代。美雪が今度の週末に会う約束をしているのも、彼女だった。施設に入れられる前は、普通の学校に通っていた時代もあったんだなって、夏代を見るたびに美雪は感じ入った。
事件は、中学生も後半に差し掛かった時代に起きた。
別に悪気があったわけではなかった。ただ美雪は、夏代との約束をすっぽかしてしまった。忘れていた、以上の理由はない。別の友だちと遊んでいて、それが無意味に楽しかったことも手伝って、美雪が夏代のことを思い出すなんて、夜が明けるまでなかった。
その間も、夏代は美雪を待ち続けた。真冬の中、野外で、四時間ほどじっと立っていた。美雪が約束を破るなんて、そんなのあるわけ無いと思って、何度か連絡を入れた。返事はなかった。なぜなら美雪の端末は、遊びに夢中になっていたので、当然放置されていた。すこしガサツだった美雪は、家に帰って端末を確認するという癖も持っていない。
翌日は喧嘩をした。美雪は怒る権利もなかったなんて、十分に承知したけれど、夏代にそこまで言われたことが、なにより自分が許せなくて声を荒らげた。八つ当たりだと、今となっては思う。
程なくして、もともと仲の良かった二人は、無事に和解した。
けれどそれ以来、美雪の態度に変化が訪れた。彼女が夏代と接する時、まるで腫れ物に触るかのように慎重になった。美雪本人が、当時から自覚していたわけではなかったが、夏代は確かにそれを感じて、言いようの疎外感を覚えた。でも、それを本人に告げる勇気も正しさも、自分にはないと結論づけていた。
――腫れ物。
年齢がたった今では、自分の彼女に対する接し方をよくわかっている。本当にずっと、砂を海に手ですくって浸して、流れてしまわないか心配をするような扱いしかしていない。
怖いのだろうか。
だけど、彼女をもう一度裏切るほうが、もっと怖かった。
それは夏代のためだったし、なにより自分がこれ以上苛まれないように、一番いい防衛手段だった。
「絶対に、断るわけには行かないんだよ……」
ふくみには悪いけれど、美雪にはそんな選択肢なんて、初めから存在しなかった。
資料室は、いつも人がいない。
任務にあたるだけで疲弊するというのに、わざわざこんなところで勉強しようなんて考えるほど、勤勉な調査員もいない。だけどその状況が、今の美雪にとっては好都合だった。なにかの情報が押し込められているハードディスクが多数陳列されている棚がいくつもあって、人目にもつき辛い。
作戦会議に使うような、大きめのテーブルに一人で座って、端末に施設の見取り図を表示させて、確認した。目の前のなにもない空間に、ウィンドウが浮かぶタイプのディスプレイだ。解像度という観点では、理想的ではない。
見取り図自体は、施設のサーバーにあったものを引っこ抜いてきた。彼女は、多少イリーガルなコンピューター操作が得意だった。
もう、脱走しか無い。美雪の結論は出ていた。いや、脱走と言う表現は、不適切だった。ただこっそり抜け出して、こっそり帰ってくる。それだけだ。脱走という言葉の持つ、背徳的なきな臭さよりも、かなり軽度な犯罪だと美雪は思っていた。
日中のほうが、施設の人入りは激しい。任務に出る調査員たちや、業者やなにかがよく出入りしていることを覚えていた。だから、それらに紛れ込んだら、帰りはなんとかなるだろう。
問題は行き。約束の時間は夜だ。お互い、夜の街のほうが好きだから、自然といつもそうなっていた。最寄り駅の終電に乗っても、約束の時間には十分に間に合うだろう。
だがどうやって夜に抜け出すのか。それだけが、現実的じゃない。
悩んで眉をひそめていると、急に背後から声をかけられて、美雪は変な人に聞かれたくないような悲鳴を上げてしまった。
「ま、丸杉さん……?」
声をかけてきた女の顔を確認して、美雪は言う。
丸杉由恵という女で、あまり仲が良いというわけでもない。むしろ、誰もいないと思っていたのに、資料室に気配もなく潜んでいるなんて、はっきり言って気持ちの悪いくらい不気味だった。
近寄りがたい女だ。美雪は初めて彼女を見たときから、そういう分類に突っ込んでいた。整えられていない髪の毛が、その印象を加速させていた。
確か、彼女はチーム『島々』所属だったか。チームの中でもその態度故に、扱いづらそうにされているのをよく聞く。まあ大抵の人間が彼女に近づくのを嫌がるし、丸杉のほうもそれを望んでいるようだった。
なんで、私に話しかけてくるのだろう。美雪は大きな疑問を抱えた。
「ここから抜け出したいんですか?」
丸杉は美雪が表示していた見取り図を、指で示しながら言う。一瞬隠そうと考えたけれど、今更無駄だと美雪は思う。
「いや、そんなんじゃないよ……」
「もうー、とぼけなくてもいいですよー」
変に間延びした話し方だ。この時、初めてきちんと会話をしたはずだった。
丸杉は、聞いてもいないのに自分のことを話し始めた。彼女も、以前から街へ買い物に抜け出すために、そのルートを構築しておきたいと考えているようだった。そして、それを可能とする計画も既に立てていると。
彼女は、美雪ほどの特例処置を受けていないので、外出許可がなかなか下りないことに悩んでいるようだった。
なら、抜け出すしか無いな、と丸杉は結論づけたらしい。その点では、美雪とも考えは完全に一致していた。
「ねえ、私達の計画に、興味ないですかー?」
とりあえず藁にもすがるような思いが無かったわけではない美雪は、丸杉の自室へついて行った。
この施設は、病院を改造して作ったのか、そういった雰囲気が未だに残っている。長い廊下を歩いていると、強くそう感じて薬の匂いすら漂ってくる気がした。
丸杉の部屋は、ひどく散らかっていた。ガラクタや、何かの記憶媒体、おもちゃの類が散乱している。調査員一人に付き個室を一つ与えるという施設の待遇は、もちろんありがたかったけれど、一方でこういった弊害を生み出すのだな、と美雪は実感していた。
座るところすら無い部屋。困ったので訊くと、ベッドに腰掛けるように促されたので従った。丸杉は、机に備わった椅子に落ち着いた。
「それで、計画って?」
美雪が早速そう尋ねると、丸杉は首を振った。
「待ってよ八頭司さん。実はねー、協力者がもうひとりいるんですよー」
彼女は言うと、端末を開いて何処かへ電話をかけた。「今から来られます? はーい、ありがとうございますー」それだけで終わった。
しばらくして、ドアがノックされた。丸杉が返事をすると、女が現れた。
その顔を見て、美雪はげ、と口走ってしまう。
彼女は木又マリナ。この施設で一番優秀なチームだとされる『宮殿』のメンバーだった。高い任務達成率を誇る、施設のエースだという噂は頻繁に耳にする。そんな優等生のような連中の一人が、脱走なんか考えるのか、美雪はどうも頭の中で結びつかなかった。
「どう? 計画はうまくいきそう?」
木又マリナが入り口でドアにもたれ掛かったまま、丸杉に尋ねる。
子供がするみたいな、頭の上方で左右に一本ずつ長い髪を結ぶ、あんな髪型をいつも好んでしているが、年齢はよくわからない。精密女もそれなりに大人だろうが、下手をすると彼女よりも上かもしれない。衣類は都会で買ってくる、見ていて気持ちの良い考えられた装いをよくしている。髪型以外は、ものすごく大人の女という雰囲気があった。
「協力者が増えたんですよー。ね、美雪さん?」
いつの間にか、丸杉に名前で呼ばれている。
木又マリナは美雪の顔を見ると、少し驚いた。
「あら、美雪ちゃんって、そんな悪い子だっけ?」
面識はもちろんあったし、軽く話したことがあった。木又もかなり親しみやすい人間だとは思っていたが、チーム宮殿なんて雲の上のような連中だと思っていたから、美雪は自分のことを覚えられているのが、不思議でしょうがなかった。
「いえ、今回は事情が……」
なんだか咎められたような気分になりながら、美雪は答えた。
「なるほどね。大丈夫よ、チクったりしないから」
なんて木又は微笑む。
思えば、よく後輩の相談に乗っている光景をよく見ることから、異様なおせっかいか世話焼きなのだろうと思う節もあった。自らを、頼れる姉だと自称しているところを、目撃したこともある。それが正しいのかは、美雪には判断できなかったけれど。
「じゃあ、さっそく本題に入りますねー」
丸杉は二人を交互に見つめてから、言った。
美雪はそこで、もう後戻りできないな、と感じていた。
「実はですねー、この近くに、地下水道の入り口があるんですよ」
丸杉は椅子に座ったまま、雑談でもするみたいな緊張感で話した。
「確かに、そうね」
木又が相槌を打った。美雪は思い出す。施設のどこかの窓から見えるくらい近い所に、そんなものがあったような気がする。もちろん、近づいたことも、立ち入ったこともない。
丸杉は、端末で地図を表示させて、目の前に浮かべた。手書きで描いたのか、線が不安定で汚らしかった。
「ここは、業者がたまに出入りする程度なんですけどー、なんと、中は駅の方まで通じてるんですよー。ほら、見て下さい? ここにマンホールがあるんですがー」
よくわからないが、紙面上ではそういう事になっているらしい。美雪はとりあえず頷いた。
「じゃあ、ここを目指したら良いってことね」
木又ははっきりと頷いたが、丸杉は首を振る。
「ですけど、問題があってー。こんな、手書きのあんまり正確じゃない地図しか用意できない状態で、しかも鍵すら無いんですよねー。そこで鍵は、マリナさんにお願いしようと思うんですけどー」
「私? わかった」
木又マリナは了承する。彼女の機能については、美雪も熟知していた。五本の指に、それぞれ電子ロックのアクセスキーを記憶させることが出来る。開けたい鍵の認証パネルを触ると、自動的にその鍵が取得されて、触った指に保存される。自分ではそれを消すことが出来ないので、一度に五つまでのドアしか開けられないが、十分すぎるほど便利な機能だった。消すのには、コンピューターでクリーンナップする必要がある。
「で、マリナさんの機能を使って開けられるのは五つまでですから、五つ以内にマンホールへ到達できるルートも考えないといけないんですよねー。そのために、地下水道の見取り図が絶対にほしい! だから、美雪ちゃんに手伝ってほしいんですよー」
「見取り図を手に入れたら良いの?」
その辺りのコンピューターから、地下水道を管理している業者が所有しているデータをすっぱ抜いてくれば完了するだろう。
「やった! 美雪ちゃん、前から目をつけてたんですよねー。コンピューターの知識とか、その便利そうな目とか、外出で悩んでくれていたら良いなって思ってたんですよねー。まさかそうなるなんて……」
丁度良かったのか。美雪としても、別に外出許可を貰えているのであれば、脱走なんて考えは浮かばなかった。奇妙なめぐり合わせの一種だと感じる。
「そうそう、それだけじゃないのよ」
木又マリナが、美雪に言う。
「脱走の決行日を決めて、その日の夜回り当番も調べてもらわないといけないのよね。実行するなら当然夜でしょう? 美雪ちゃんなら、出来るかなって」
夜回り当番。耳で聞いて、そんなことを初めて思い出した。そうか。当たり前だが調べなくてはいけない情報だろう。例えばチーム宮殿のリーダーとか、そういった面倒くさそうな人が担当だったら、一日早めに決行してでも、かち合うのは避けたほうが良い。逆に美雪のような、当番だろうが特に夜回りなんかしない人間であれば、これほどやりやすいこともない。
「わかりました。それは任せて下さい」
「やった。私、美雪ちゃんと一緒に仕事してみたかったのよね」木又マリナは、無邪気に笑った。「よかったよかった。これでなんとか上手く行きそうね」
喜ぶ彼女と丸杉を見ていると、なんだか良いように乗せられているのではないかという疑問が浮かび上がってきた。そもそも彼女たちが脱走したい理由も、はっきりとは聞かせてもらっていない。下手をすると、犯罪の片棒を担がされようとしているのかもしれない。
そこまで考えて、美雪は首を振った。今更、一人で計画を立てて脱走しようという気持ちにもなれない。そんなのは、精密女の相手と同じくらいの面倒臭さだった。
何でも良いよ。やってやろうじゃない。
あの子のためにそこまでしないと、気が狂ってしまいそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます