4節
私はまだ、那須さんの部屋にいた。
何をしたわけでもない、倉田さんを見守るでもなく、近くにいただけだったのだけれど、また私の端末が鳴って、静かな時間はそこで終わった。
端末を開く。茅島さんだった。
「もしもし……どうしました?」
私はなにも不都合がありませんように、と祈りながら、応答した。
『彩佳、ここのままじゃ、まずいかも』
急に深刻そうにそう告げられると、私は胃が痛くなってしまった。
彼女は簡潔に説明する。扉のロックが何故か掛かっていて開かないと。さっきもナノマシンに襲われて、怪我はしていないが流れてくる水が止まらないと。水はどんどん溜まってきていると。
聞きたくない。耳をふさぎたくなった。
『このままだったら、溺死しちゃうかも』
「そんな……」
『どうにかして、そっちから開けられないかしら』
臥せっていた倉田さんが顔を上げていた。会話に入り込む。
「……難しいと、思います。ロックを解除していたのに、それが再び起動していたのであれば、システムに対して不正にアクセスを働かれた、と考えるのが自然です。私達が行ったところで、結局アクセス権限がありません」
『……そうなんですか』
「待って下さい。所長を呼んできます」
彼女は部屋の外に出て、全員を呼び寄せた。精密女、美雪、大川、さっきはいなかった所長が姿を見せた。私達が茅島さんからの話を伝えると、所長は難しそうな顔をした。
「きっと、ナノマシンにアクセス権限を盗まれたんだろう。一応、そういったことも可能なんだよ。一定範囲内の端末に働きかけるなんて、電波が届く範囲ならできるよ」
それよりも、と所長は大川と倉田を見る。
「メインシステムへのアクセス権を与えてあるのは、ここにいる所員三人と死んだ菅谷さんだけだったはずだよ。あまり多くの人間に操作させるのも、問題があると思ったから、秘書の倉田くんと、信頼できる大川くん、それと当時は新人だったけど、菅谷さんに任せたんだ。主に、これは施錠くらいしか君たちには頼まないけれど」
「所長……」倉田さんが尋ねた。「盗まれたということは、ナノマシンが私達の端末からアクセス権を盗んだんですか?」
「そうなるんだろうね……考えたくもないが……。全員、ナノマシンの電波の届く範囲には入っているし……。盗むなんて機能、搭載した覚えはないけど、まあ単純なクラッキングだろう。人格を投影して逃げようっていうなら、そのくらいの準備はするかな」
「所長。お言葉ですけど、盗むまでもないでしょ」
大川さんがわざとらしく手を挙げた。
「菅谷が犯人だったのなら、すでにアクセス権限は持っている」
「……君は、彼女が犯人だというのか?」
「はい。状況がそう物語っているんです」
「まあ、待て……。早計だよ。もう少し様子を見てくれ」
菅谷さんが犯人? なら、動機は二人との不仲? じゃあなんで茅島さんを閉じ込めるの? 那須さんをどうして殺したの?
なにもわからない。
もう犯人なんて、実際どうでも良くなっていた。早く茅島さんを助けないと駄目だ。
『いえ、私なら大丈夫だから、彩佳は犯人を探して』
私の呼吸から感情を読み取ったみたいに、彼女はそんな事を口にする。
「な……何バカなこと言ってるんですか。私は……もう茅島さんを失いたくないですよ。どっちを優先すべきなのかは明らかじゃないですか……」
『…………ごめん、そうだったわね』
「助けますから、待ってて下さい」
『ええ……期待してるわよ』
「……もう、なんでそんな余裕なんですか」
これから溺死が迫っている人間の口調だとは思えなかった。
『まあ……焦っても仕方ないじゃない』
「……おかげで落ち着きました」
『頼りにしてるわよ、彩佳』
「はい……」
所長に、私は向き直った。
「どうにか解錠する方法はないんですか?」
私の質問に、所長は少しだけ考え込んだ末に答えた。
「そうだな……メインコンピューターを直接操作すれば、解錠はできる。たとえパスコードを書き換えられていようと、そこでならなんとかなるだろう」
「……私が案内します」
倉田さんは、力強く私の手を引いた。
メインコンピューターは二階にある。
階段を下って、事件現場の実験室を通り過ぎる。
気をつけないと、いつどこから襲われるかわからない。そう思って上着を整えるような心構えになった瞬間だった。
破裂するような音とともに、壁際のパイプから、水が飛んでくる。
とっさに、悲鳴を上げたけれど、私と倉田さんは伏せる。
クソ……やはりか。
パイプの該当箇所からは水が垂れ続けている。茅島さんが言った通りだった。このままでは、研究所内も水浸しになるのだろうか。
動けない。
あの水は、ナノマシンの身体の一部なのかもしれないと思うと……
後ろから精密女が駆けた。
速い。茅島さんもかなりのものだが、運動能力に関しては精密女も劣っていないのだろう。
彼女は機械部分が剥き出しになった、例の両腕を起動する。
右手で握った拳で、思い切りパイプをへこませた。
水は止まった。
「早く! 行って下さい! 追いつきます!」
なんて力技だ……。その理屈は、想像がつくようだが本当のところはわからない。
倉田さんと廊下を走った。振り返ると、美雪、所長、大川は遅れずについてきている。
見ると、そこかしこのパイプから、漏れていた。
消すつもりか、私達を。
だけど、走れば抜けられないわけでもない。
いや、他に方法なんて無かった。
知覚される前に。それだけ。
全力で駆けた。すこしも走ることは得意なんかではなかった。
そこで誤算。
後ろからうめき声。見る。所長が倒れている。
足をけがしていた。血が流れている。水に、襲われた。
「しょ、所長!」美雪が駆け寄った。「大丈夫ですか……?」
「だ、だめだ、もう、動けん……いいから、先に」
「駄目です!」倉田さんが叫ぶ。「ここにいたら、また狙われます。その部屋は?」
近くの部屋を指差す。
「こ、個人研究室だ……複数人ではなく、個人でできることはここで……」
「運びましょう」
大川さんと倉田さん、私で所長をその部屋まで運び入れた。
ドアを閉じる。微妙な隙間が下部にある。水ならここから入るなんて、造作も無いだろう。長居は出来ないか……。
「彩佳、これ……」
美雪が呟く。
向くと、そこに置かれていたコンピューターが目に入る。それが、水浸しになっていた。どう見たって、壊れている。
「これ、ナノマシンがやったの……?」
「わからない……でも、そうだとすると、全部の証拠を消すつもりだよ!」
「なにか、実験データか何かをここまで持ち出したから、一生懸命消してるんじゃ……何に使ったのか知らないけど……」
何を消したのだろう。何がしたいのだろう。わからない。
「とにかく、お二人と、大川くんはメインコンピューターのところへ」倉田が言う。「所長は私が診ます。ここの突き当たりに、その部屋はありますから」
「わ、わかりました」
頷いて外に出た。私と、美雪と、神妙な面持ちの大川さんだけだった。精密女は、まだ現れない。普段は怖いと思っていたけれど、こんな時ばかりは心細い。
襲われないように祈った。祈るだけで事足りるとは思えなかった。
杞憂だった。何事もなく、目的の部屋にたどり着いた。
「そこです」
大川が言う。扉にはシステム管理室、と書かれている。
入る。
しかし、
「クソ…………なんてことだ……」
既に、メインコンピューターは、また水浸しになって破壊されていた。
力が抜けた。
「同じやり口だよ……」美雪が調べる。「遅かったか……」
「そんな! 茅島さんは。どうなるの!」
私が叫ぶのを、美雪は宥める。
「落ち着いてよ、何かあるはずだから……」
「根拠は!?」
「まだないけど……」
言い合っていると、止めるように所長から電話が入った。
『加賀谷さん? 残念だけど……放流の時間が早まった……。メインシステムから、直接通知が来たんだ。あと一時間で、海に放流される。放流時間まで操作されたみたいだ……』
「え……」
『さらに、アクセス信号を全て変更されていたようだ。もう、放流に関して、手出しは出来ないよ……そっちのメインコンピューターはどうだ? 解錠出来たかい?』
「…………破壊されていました」
……。
『そうか…………どうすればいいんだ……』
そのまま、窒息するみたいに電話は途切れる。
大川が壊れたパソコンを、突然蹴った。
「クソ! あいつらのせいだ! あいつら以外に誰がいるんだ! 加藤と菅谷! やつらのどちらかが、陥れようとしているに違いない! 山際は……あいつらに巻き込まれただけだ……可哀想に……あいつがただ仲が悪かっただけじゃないか……! ふざけるな!」
「大川さん、落ち着いて下さい……」八頭司美雪が静止させる。「それをこれから、調べるんです」
「…………すまん。少し、気が立っていただけ、です……」大川は頭を下げる。「俺は……悔しいんですよ。山際が何だってこんな目に遭わなくちゃいけなかったのかって……。あいつほど真面目に実験に打ち込んだ人間はいないっていうのに……」
「……山際さんが犯人の可能性だって、まだ否定できませんよ」
そう言われて、大川ははっとしたような表情を見せた。
「そうか…………山際が犯人である可能性も、拭いきれないもんな……」
部屋には今、私と美雪、それに無事だった精密女のみがいる。
大川さんは所長の所に戻った。というのも、今後の方針を立てるために、私達だけで話し合いがしたかった。
話し合いと言ったって、茅島さんを助け出す方法がわからない以上、私としては何も気乗りしなかった。もう勝手にやってくれ、と心のどこかで思っていた。
八頭司美雪が、椅子に座りながら手を挙げた。背後には、使い物にならなくなったメインコンピューターがある。
「まず、気になるんだけど」
「何でしょう」
精密女は、扉にもたれ掛かっていた。急に開かれると、そのまま背後に倒れて頭を打って死んでしまうんじゃないかという心配を、私は暇をつぶすみたいに抱いた。
「死んだ女の人、加藤さんと菅谷さんって、本当に仲が悪かったのかな」
「ええ。私もそう思ってました。彩佳さんは?」
急にふられて、たじろいだ。
私は今、何も置かれていない机に、遠慮しながら座っている。
「ええ……えっと、そうですね。なんか……証言してるのが大川さんだけですから、信憑性は薄い、と思うんですけど……」
「そうそう! そうだよね」美雪が強く頷く。「印象づけしたいって感じだよ。彼の言葉を真に受けるのは、公平じゃないと思う」
私は、自分で口にした言葉を思い返す。大川さんのこと。確かに、そんな印象だけが、路上のガムみたいに残っていた。
では、なぜそんなことを主張するのか。
「……山際さんと親しかったんでしょ」私は言いながら考える。「なら、彼を殺されて、大川さんは、残りの二人に対して憤りを感じているから、悪評を流そうとしてるんじゃないの」
「元々、山際さんのいじめことで、あの二人を恨んでいるような口ぶりでしたね」精密女が口を開く。「二人のどちらかが犯人であって欲しい。その理由は、山際さんを犯人にしたくないからです。入れ込んでいましたから、彼は。気持ちは、わかるんですけど、捜査に関しては邪魔でしかありません」
「もっとこう、なんでもない中立的な意見が欲しいよね」美雪が提案する。「倉田さんにでも連れてきてもらおうか。加藤さんと菅谷さんを、少しでも知っている人。倉田さんなら、所員のこともわかってるんじゃないの?」
「美雪さん、何聞いてたんですか?」精密女が呆れる。「倉田さんは、所員とはほとんど関わりはありませんよ。それに、あの人だって殺された那須さんに対して、特別な感情を抱いていましたから、中立とは言い難いですよ。まだ所長に頼むほうが打率が高いんじゃないですか?」
「でも所長でいいの? 信用できる?」
まっすぐ精密女を見つめながら、美雪が尋ねると、彼女はふっと肩の力を抜いた。
「…………やっぱり倉田さんにしましょう。彩佳さんもそれでいいですね」
「はい……」
倉田さんに連絡を入れて、適当に近場にいる所員を、一人だけ呼んできて欲しいと頼んだ。二分も経たないうちに見つけた、との返事があったので、精密女が彼女たちを迎えに行った。
「良いんですか? 私もこの人のこと、よく知りませんけど……」
連れてきた所員を見つめながら倉田は訊く。
その所員、名前を松出という女性所員だった。なんというか、記憶のどこにも引っかからない、一言で言えば地味な風貌をしていた。
急に呼び出されて、当然ながら怯えている様子の松出に、精密女は微笑みかける。
「ご迷惑をおかけして、すみません。あなたを疑っているわけではないのは理解していただきたいんです。一つだけお尋ねしたいことがあって」
言われると、機械の腕に物怖じしないで、松出は頷いた。精密女の、人を油断させる話し方のせいだろう。前職は詐欺でもやっていたのかもしれない。
「なんでしょう。協力できるなら……」
「加藤さんと菅谷さんの仲について、教えていただけます?」
簡潔に、精密女はそう尋ねた。松出は、思い出すと言うよりも、後ろめたさを感じるような表情を見せて、渋々話した。
「……これ、言っても良いのかわからないんですけど……っていうか、本人たちは死んじゃったから、大丈夫なのか……。表向きには隠してるんですけど、あの二人、いつも一緒に出かけていたらしですよ」
「一緒に?」
「はい……。でも、本人たちは絶対知られてくないみたいで。以前そのことについて訊こうとしたら、すごい勢いで加藤に睨まれましたよ。それ以来、私も胸の奥にしまったんですけど」
「ふうん……。大川さんが、二人は不仲だって言っていましたけど、事実とは異なるんでしょうか?」
「まあ……大川さんが言うのもわかります。普段は、わざとらしく仲が悪そうに振る舞っていましたから。ですけど、SNSに全部証拠があがってるので……バレバレっていうか……。一回誰かから聞いたことがあるんです。加藤がなんで不仲そうにするのかって。加藤は、『菅谷と仲良くしたい男性所員の目が面倒だからに決まってるじゃない。関わりたくないのよ、あいつらとは』なんて……」
「なるほど。菅谷さんが男性所員に好かれやすいみたいな話は、何回か聞いたことがあります」
精密女はお礼をして、松出を部屋まで送った。すぐに戻ってくると、私達(倉田さんも残っている)に向かって口を開く。
「さて、大川さんの言うように、加藤さんと菅谷さんの関係が悪いなんてことはない、という事実が判明しましたが、大川さんがそんな風評を流すのって、どういう意図だと思いますか」
意図。
最も簡単に考えるとするなら、山際こそが犯人で、大川はそれを認めたくないが故に二人に疑いが向くように努力している、との結論が出てくるのが自然だ。
山際が犯人であることを、大川はどうして知っているのだろう。
残された人格データをどこかで見た?
「人格データ、残ってないんでしょうか」
私が呟くと、倉田さんよりも先に精密女が話す。
「持ち出しは不可能らしいですね。電子機器にデータを保存したところで、入り口で削除されるようになっているみたいです。違う入り口があるとするなら、話は別ですが、そもそも人格データなんて大きな物、並の保存機器では入り切りませんよね。このことから、事件当時に、あの部屋で採取された人格データをそのまま用いている、という説しか残らないわけですけれど」
「でもそれも壊されたんですよね……」私は美雪を見た。「壊れたパソコンからサルベージって出来ないの?」
「あのね、素人は、コンピューターに詳しい人ならなんでも出来る、って思ってるかもしれないけど、そんな都合良くはいかないよ」美雪が睨むように返す。「まず設備がないよ。今持って来てるノートパソコンでは、処理が全く追いつかないかな。出来たとしても、三日位かかりそう。それに根本的な問題として、こっちの保存領域が足りないってのもある。吸い出しても、どこかに置く場所がないと駄目だよ。高速処理と潤沢な保存領域。このふたつを満たすスーパーコンピューターがないと、人格データなんて無理」
「あの……」
黙って聞いていた倉田さんが、口を挟んだ。
「八頭司さんの望むものかはわかりませんけど、スーパーコンピューターと呼ばれるものなら、ありますよ」
私達は目を丸くした。
「本当、ですか?」美雪が身を乗り出して尋ねた。
「はい……所長の趣味で持ち込まれたものですけど」
もっと早く、聞いていればよかった。
人格データの所在は、事件現場。
そのスーパーコンピューターは倉庫で眠っていた。使う用事もなかったため、安置されていたのだろう。
精密女が運搬した。かなり重いようだが、彼女は表情ひとつ変えないで運んだ。本体と、大きめのディスプレイ。私が想像していたよりも、ずっと小型だった。実験室に運び込んだ時に、ナノマシンに襲われるのかもしれないと身構えたけれど、何も反応がなくて拍子抜けですらあった。
……茅島さんを見張っているから、手が出せないのか。
そんな事を考える。考えたくもないことを……。
もう、待っていれば海へと放流される段階に達しているから、私達が余計なことをしないように、人質を取っておけばあとはどうなろうと、最早興味すらないのかもしれない。脳を失って、感情がなくなったのだろうか。本能に従って人肉を喰らいたがるゾンビと何も変わらなかった。
セッティングはすぐに終わった。美雪と倉田さんがいれば話も早い。コンピューターの性能の問題も、美雪がざっと調べた限りではない。
「なるべく、速やかに」
精密女が、どこから持ってきたのか、大きな鉄板を両手で構えながら言う。
「いつ襲われるかわかりません。いざという時はこれで守りますから、その間に逃げて下さい」
「わかった。お願いね」
美雪は壊れたコンピューターの本体と、持ち込んだ物の本体をコードで繋ぎ合わせた。
所長と大川さんは、施錠システムをなんとか出来ないか、事務所に向かったとの連絡が入った。なんとかする、とは精密女の腕で無理やり扉を破壊できるかどうか、の検証も含まれていた。
私だけ、相変わらず何をしたら良いのかわからない。
サルベージは始まっていた。美雪が言うには、上手く行けば三十分ほどで完了するらしい。ギリギリだ。だけど、犯人がわかったところで、どうすれば良いのだろう。なにか有効打は見つかるのだろうか。
説得すれば応じる? そんなバカな。どちらかと言えば、所長らがやっている解錠作業のほうが展望があるとすら私は感じていた。
いや、それでも私は茅島さんに頼まれた。事件の真相は任せるなんて、荷が重いにも程があるけれど、彼女の頼みだというのなら、二つ返事で請け負う他に選択肢はなかった。
それに茅島さんだって、中からナノマシンへの対抗策を考えている。そう、これはただの分担。私は目の前のことを処理する。それだけ。
危ない気はしていたけれど、私は死体を改めて点検した。結局、騒動があって、こんな基礎的な情報すら調べられていない。
……あまりじっと見つめたいものでもない。
死体は三つ。それぞれが水槽に近いところで倒れていた。加藤と菅谷は、もっとも付近、山際だけ少し離れていた。全員白衣を着用しており、実験中だったことが想像できる。部屋の隅には実験に使う水を零してしまった時のためなのか、排水口が設置されており、犯人は人格を水に投影したあと、ここから逃げたと思われる。それも、人格データが判明すれば、誰なのかは立ちどころに晒されるだろう。
加藤と菅谷。本当は、親友だったのかもしれない。二人は未だ乾ききっていないほど、ずぶ濡れだった。もがき苦しんだはずだった。溺死させられたのは、本当だったらしい。
山際。こちらは水分量が、随分と少ない。
どうして?
抵抗もなく、最小限の水のみで殺せたのだろうけれど、理由はなんだ。
犯人だから? 自分を殺すのに、わざわざ面倒な方法を取る人間なんていない。
証拠の補強ともなり得る。人格データが判明した時のために、私はその事実を頭に叩き込んだ。
山際さんが犯人だとして、ではどうすれば解決できるか? 思いつかない。苦手なものでもあれば、それで脅すことも出来るか? いや、そんな幼稚な策略が通じるとは思えなかった。
私は、邪魔かもしれなかったけれど、茅島さんに電話をした。そういえば、もう少しで人格データを掘り起こせるとすら、伝えていなかった。
今度は、すぐに応答があった。
『彩佳? どうしたの?』
「茅島さん。いえ、些細な報告なんですけど、採取された人格データがもうすぐ手に入ると思いますので、犯人が割り出せるかと……」
『そう。やったじゃない。あなたのおかげよ。ありがとう』
素直に褒められると、気味が悪い。それに、私は何もしていない。
「いえ、美雪が頑張ってくれたおかげですよ。私は別に……」
『あなたはちゃんと仕事をこなしてるわよ。それなのに、私は、あなたを信用しきれなかったみたい。それが、こんな結果なのね』
わっ、と茅島さんが声を上げた。
「か、茅島さん?」
『ごめん、ちょっと歩きづらくて。それに、寒いわ。ナノマシンが、私を逃したくないみたい』
「どういうことですか?」
『水位がずっと上がっていてね、今、ちょうど腰くらい。全身ずぶ濡れよ。こんなんじゃ風邪ひきそう』
「すぐに、行きますから……」
『ああ、良いのよ。大丈夫。こっちはなんとかするから、待ってて』
そこで電話が切れた。
また、勝手なことを……。あなたが死んだら、私は生きている意味なんかないのは、わかってるじゃない……。
憤っていると、美雪が絞り出すような声を上げた。私は彼女の方に戻った。
「どうしたの?」
「彩佳、変だよ。おかしいよ…………どうなってるの」
鉄板を構えながら、注意していた精密女も振り返る。
「なにがですか?」
「人格データが…………」
吸い出せない、失敗した、膨大すぎる、空き容量がない。いろいろと、その後に続く言葉を私は連想したけれど、どれとも違う二の句を、美雪は発した。
「何処にもないんだよ」
「ない?」
精密女は鉄板を棄てて駆け寄った。大きな、剣を突き立てられるみたいな目の覚める音が、身体を揺らした。
「何を言って……」
「人格データはどこにも……それどころか、いまだかつて完全な形で採取されたことすら無かったんだよ。つまり、今までの実験結果は、でっちあげだったんだよ……」
「そんな……」
倉田さんの顔色が悪くなっていった。
「じゃあなに? 成功したことなんて一度もないの? あの結果は? 私が海外で見せてきた資料の内容は? 全部嘘っぱちだったの? どうして? 所長だって……実験を直接見たことだってあるじゃない…………どうして? レポートには、採取が成功したときのことも書いてあったわ…………」
「……わかりません」
「全部、全部…………全部、嘘だったのね……私がやってきた仕事も、なにもかも、霧みたいなもんだったんだわ……だから、人格投影が最後まで上手く行かなかったのね……」
「ちょっと待って下さいよ」
混乱しそうになりながら、私は声を上げた。
「じゃああのナノマシンは何なんですか? 茅島さんを襲ったあのナノマシンには、何が入ってるんですか?」
「わからないわ、なにも……」倉田さんは、両手で顔を押さえている。「個人で採取した人格データなら、それで動かせるかもしれないけど……そんな設備なかなかないわよ」
「あったとして、誰のものか、何処で採取したか、なんかの特定は難しいよ」美雪はコンピューターから既に手を離している。
「…………」
「私達に出来ることは、もうなにもないよ」
茅島さん……。
事件を解決できそうにない事実よりも、真っ先に彼女の名前が頭に浮かんだ。
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