3節
パイプが、目に入る。
精密女を先頭に、私達は廊下を進んでいた。被害者の自室を調べてみるためだった。危険だろうとは思われたけれど、背に腹は代えられなかった。茅島さんも調査に勤しんでいるのだから、私が一般人だからと言う理由で、安全な所でじっとしているつもりは、私自身にはなかった。
ナノマシンの知覚能力は、所長の話ではそう高くないと聞く。水中では圧倒的だったが、パイプの外のことは、それに比べれば著しく落ちるようだ。なにも探知して人を殺すために作られたものではない。
注意していたのに、特に危ない目には遭わなかった。音を立てないようにしていたのが良かったのか、私には確かめようもなかった。拍子抜けと言うより、安堵が勝った。
まずたどり着いたのは、山際さんの部屋だった。入り口は電子ロックが施されているが、先程、所長の権限で解除した。倉田さんが遠慮もなしに扉を開くと、秘匿された室内が見て取れた。
足を踏み入れると、真っ先に気になったのが、コンピューターが置かれた机、それが接する壁の上部に貼られたイラストだった。
「海だ……」
私は思わず嬉しそうに呟いた。そのイラストの美麗さではなく、大川さんの言っていた人物像との符号点を見つけ出したことによる、一種の快感に近かった。イラストの内容は、なんてことはない、ただの風景画だ。光と海辺の調和は、確かにわざわざ印刷をして飾りたくもなるものだった。
「本当ですね」後ろから、首だけを室内に突っ込んでいた大川さんが声を出した。「あいつ、やっぱり逃げ出したかったんでしょうね……」
そんな話を、全く意にも介さないで、倉田さんは山際さんのコンピューターを起動させた。パスワードも、所長権限で無効とされていた。職場のパソコンなんて、いざという時のセキュリティもなにもないな、と私は思う。
中のデータを漁ると、南の島へのガイドブックまで出てきた。彼が海へ行きたかったのは、いよいよ大川さんだけの認識ではない。
「良いな、海」美雪が呟く。「久しく行ってないよ」
「あんた、やっぱり性根がそっち系だから憧れがあるの?」
私は八頭司美雪の、派手な金髪頭を眺めながら口にした。私なんかは、海への羨望なんて、外見の良い男性芸能人に対する興味くらい無かった。
「ひどいなー、偏見だよ。誰だって、楽しいことは好きでしょ。山際さんだって……そう思ってたはずだよ」
倉田さんがその後も、ある程度物色をし続けていたが、ついにレポートのたぐいは見当たらなかった。しかし、それも想定の範囲内だと彼女は言う。
「……加藤が、いつも横取りしていましたし、彼女のパソコンになら、きっと……」
加藤の部屋に移る。山際の部屋から、すぐ近くだった。というより、所員部屋はこの階に密集する形で並んでいた。
加藤の部屋に入ると、まず真っ先に、美雪が嬉しそうな声を上げた。
「あ、これ、見てよ。エードリアンくんのぬいぐるみ」
机の上に乗っているものを指差す彼女。そこには、可愛げがあるのかわからない、象のような動物の形をしたぬいぐるみが、仕事の監視役みたいにして置かれていた。
「なにこれ」私が尋ねる。
「彩佳、知らないの? ほら最近注目されている大型屋内テーマパーク『スリィプレス』の……。このぬいぐるみも結構人気で、すぐ売り切れちゃうんだよね」
「……知らない」
「もう。彩佳って世間に疎いよね……。前から行きたいって思ってたけど、流石に施設の許可が下りないかも」
「やっぱり外で遊ぶの好きなの?」
「屋内だってば」
「……私には、玄関を出たら全部外だけど……」
そんな雑談を聞いているのかいないのか、どうでも良さそうに精密女はそのぬいぐるみをぼーっと見つめていた。
山際さんの部屋と同じように、倉田さんはコンピューターの中身を改めようと立ち上げたが、しばらく経ってから頭を掻いて唸った。
「だめだわ……。プロテクトが、掛かっています……」
「所長の許可は得ているのでは?」
精密女が覗き込みながら言うと、倉田さんは心底呆れたように首を振った。
「いえ、それとは別に……。加藤は、無許可で強固なプロテクトを掛けてたみたいです。おそらく、レポートを盗み見られたくなかったんでしょう」
「なんて奴よ」精密女が舌打ちを漏らした。「それじゃあ見られないと?」
「私には解除できません。なにか、パスワードのヒントがあれば……」
「ああ、必要ありません。美雪さん?」
精密女が振り返って急に呼びかけると、美雪が鞄から小さな装置を取り出す。
「クラッキングするの? 気乗りしないな」
「許可は得ています。勝手にプロテクトをかけるようが悪いんですよ」
「しょうがないな……」
美雪が装置をコンピューターに取り付けた。小さなウィンドウが開く。美雪はそれに対してキーボードを使って命令した。ウィンドウは、何かを割り出している。
やがて、表示が止まった。
「これがこのパソコンで最も連続で入力されている文字列です。上位から順番に打ち込んでいけば、いずれは」
八頭司美雪は、見た目に反してこういったコンピューター関係のことが得意だった。本人の趣味なのか、覚えるように施設から言われているのか、それははっきりしないし、尋ねようとも思わなかった。
倉田さんが一番上に表示されていた文字列を入力すると、あっけなくプロテクトは解除された。
「ま、こんなもんだよ」
私を向いて微笑む美雪。凄いと思う反面、こんなのがいるチームで、私の存在意義なんてあるのだろうか。茅島さんの役に立つなんて、ここまでしなければ不可能だと思う。
「レポート、ありました」
しばらくして、倉田さんがそう言うと、私達三人は顔を突き合わせてディスプレイを覗き込んだ。
ぱらぱらとめくったところで、詳細な内容は何も記されていなかった。参加したメンバーも、具体的な実験内容も、はっきりとは書かれていなかった。加藤の性格だ。彼女に関することしか、このレポートには記されていなかった。
「あいつらしいな」大川が呟く。「こんなに自分の手柄のように書き連ねるなんて。山際の名前すら無いじゃないか。こんなのに任せると、情報の中立性すら怪しい」
結局、美雪のクラッキングも単なる徒労に終わってしまったようだ。
私達は残る最後の部屋、菅谷の自室に向かった。
「あ、エードリアンくんの色違いだ」
また美雪が指を向けた。今度はベッドの上にある。言われてみれば、さっき見たぬいぐるみと殆ど同じみたいだった。肌の色が違うくらいか。
「こっちも人気なんだよね。一緒に行ったのかな」
「大川さんが二人は仲が悪いって言ってたじゃん」
「趣味は一緒なんだっけ? それがテーマパーク通いってことかな」
「そのようですね」聞いていた大川が頷く。「嫌いな相手と趣味が同じなんて、薄気味悪くて仕方ないですけどね」
「彩佳、本当に知らない? 人気なんだけど」
「知らないよ。そういうのに詳しくないんだって」
「じゃあ今度行こうよ。彩佳となら、社会勉強って名目で許可も下りると思う」
「……茅島さんが行くなら良いよ」
「もう、すぐそれなんだから」
それにしても、少し見回しただけで思う。この部屋は、明らかに物が多かった。普通に研究所で生活していてなるような規模ではない。加藤や山際の部屋が最低限のものしか無かった故に、妙に散らかった印象を拭い去れなかった。
しかも、箱に入れられたまま、開封すらされていない物ばかりだった。菅谷さんは、浪費癖でもあったのだろうか。金を使う事自体が快感になっていて、もう辞められないのだとしたら、この部屋の様子も納得がいく。
「貰い物みたいですよ」大川さんが、考え込んでいた私の様子を見て口にする。「男性所員に貰ったものらしいですよ、全部。人に好かれる子だったけど、取り柄がそれしか無いみたいでしたね」
なるほど、と私は頷く。大学で、そういう女の話を、何人か聞くことがあった。私が、あまり関わりたくないと常々感じているタイプだった。おそらく、菅谷さんもそういった側の人間だったのだと推測された。
倉田さんは、今度は首を振った。どれだけ探しても、パソコンにレポートは欠片も残っていないみたいだった。
無駄足だったのだろうか。
そう実感した時に訪れる疲労感で、私はいますぐ横になりたくなった。
那須さんの部屋も見ておこう、と足を運んだ時だった。
「由加…………ああ、由加……」
倉田さんが、またぶり返して、声を上げて泣き始めた。
私はそれを見て、可哀想というよりも、猫が嘔吐をしてしまったときのような感情を何故か抱いた。下ろしどころのない、ただ持て余すだけの、嫌な気持ちだった。
どうすれば良いのだろう。那須さんのパソコンを触る用事もないのだけれど、泣いている彼女の前で、故人の部屋を漁る気にもなれなかった。遺品を整理でもするくらいしか、私には最適な行動が、思い浮かばなかった。
振り返ると大川さんが席を外していた。逃げたわけではなかった。それこそが、最も当たり障りのない判断だった。精密女と美雪も、彼の姿が見えないのに気がつくと、私を置いて部屋を立ち去った。
去り際に美雪が「あとは任せた」なんて無責任なことを私に投げかけた。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
「大丈夫」精密女が何故かわざとらしくウィンクをする。「彩佳さんなら、慰めるのも上手ですよ」
そして部屋には私と、泣いている倉田さんだけが取り残された。彼女の泣き声が、私に刃物を突きつけるみたいに聞こえていた。
なんだって私に任せるんだよ……。はっきりと言ってしまえば、私は人付き合いが何よりも苦手だった。精密女の言う「大丈夫」の根拠が、私には何一つとしてわからなかった。
緊張する。とにかく部屋を観察した。机、ベッド、それだけだ。とくに趣味らしいものも少ない。仕事のスケジュール表を貼った壁が、よく目立つ。ぬいぐるみの類も絵画も、殺風景だと感じるくらいなにもない。
……。
私は耐えきれなくなって、気を使って倉田さんに話しかけた。
「あの、倉田さん……気持ち、わかります」以前よりも知らない人と会話することに対して、慣れがあった。「私も、友人を失ったことがありますから……」
「…………亡くなったんですか?」
同情するような瞳で、彼女は私を向く。
「いえ……、酷い記憶喪失で、昔のことは何も覚えてないんです。親友だった私のことでさえも……。今は今で仲も良いんですけど……。ほら、排水ブロックに行った、あの子ですよ。茅島ふくみ」
「ああ……あの綺麗な子……由加の最期を見たのね……」
まずいと思って私は話題を反らせた。
「えっと……変わった施設ですね、ここ。水力発電だけで動いてるんですよね。パイプの水を循環させるだけで、電気が起こせるなんて、技術の最先端っていうか……」
「もうここも終わりよ……」
倉田さんは、唾でも吐くみたいにボソリとそう呟いた。
「……事件なら、私達がなんとかしますよ」
「違う……。以前から、経営難なのよ、この研究所。水力発電で電力は賄っているからなんとか持ちこたえてるだけ。そのための設備代だって、まだ返済できてないわ。それもこれも、全部、実験がうまく行かないから……」
「……でも、山際さんなんかは優秀で、何度も成功してるって」
「それは前段階。所長も言っていたでしょう。肝心の人格投影実験はまだ成功の道筋すら見えていなかったって。それが上手く行かなきゃ、こんな研究所に、誰も投資なんてしてくれないわよ……」
悲しそうな顔をしたまま、倉田さんは話す。
「警察に言わなかったのは、他に理由があるわ。保険よ」
「保険……もしかして、事故だったらお金が入るとか……」
「そう。設立当初から、所長はこういった事故に対して、保険を掛けていたわ。恐ろしい話だけど……事故が起きれば、得をする人間だっているの」
「それが、所長?」
「ええ。こんな事件が起きたのは損だけど……。警察が介入すると、変な判断をされるから、通報しなかったのよ」
私は納得する。実験中の事故にするのが、所長としては都合が良かった。故に、私達にのみ調査を依頼したのだろう。世論を恐れていたと口では言っていたけれど、本当はもっと即物的、なんてことはない、保険金が目当てだったようだ。
「でも、由加が死んで……所長も観念したから、警察にも通報した。もう保険金も下りないでしょうね。こんな事故があったんじゃ、世間の評価も地の底よ」
那須さんの使っていた机を、優しく撫でる倉田さん。
私には何も実感がわかないけれど、彼女には、ここで那須さんが暮らしていた残り香を感じ取れるのだろう。
「由加とは……ずっと一緒だった。この研究所に入るまでは。同期だったけど、私のほうが所長に気に入られたみたい。扱いに差が出てからは、不思議とあんなに仲良かったのに、疎遠になっちゃった……。なんでかな。私が、それまでに比べて、忙しかったんでしょうね。遊ぶなんて余裕は、頭にはないわ、今だって。でも彼女とはよく遊んだ。よく飲んで、人に言えないこともやった。由加、楽しかったよ、楽しかったのに、なんでこんなことになったの……」
「…………好きだったんですか?」
「当たり前よ…………でも、向こうは遠慮してたと思う。だって、私は秘書みたいな扱いになってたし。今まで通り接してくれたら……いえ、私が認められていなかったら? そもそもこんな所で働かなかったら? 私達はまだずっと一緒だったのよ、きっと、そう」
「…………」
「それでもね、疎遠になっても、どれだけ海外での仕事が忙しくても、私がここに帰ってくる理由なんて、一つしか無かったんだわ」
「なんですか?」
「由加が、いたからよ」
彼女は、那須由加のベッドに、黙祷でもするようにじっと顔を伏せて、ここからいなくなった人のことを考えているのか、ぴくりとも動かなくなった。
そのまま天使にでも連れ去られるのを、待っているみたいだった。
パイプに耳を添えた。
すると、呼吸音まで聞こえてくるような気さえした。
茅島ふくみは、転がって逃げた先からそれほど動いてはいない。いつまたナノマシンが襲って来るのか、わからないためだった。那須を死に追いやった、あの水が噴射した箇所からは、未だに水滴が漏れ続けている。
隠れている間、彼女は何も考えていなかったわけではなかった。パイプを調べ、循環器を調べて、水を直接外へ排出できないかを探っていた。土の上にでも吐き出してしまえば、ナノマシンの活動は、かなり困難になるだろう。そこまでは行かなくとも、さっき彩佳から聞いた最悪の事態、海への放流はとりあえず防げる。
所長には悪いが、ここは力ずくででも解決する方がスマートだった。ふくみは、施設の壁に穴を開けることすら選択肢として採用していた。
ふと、彩佳について考えた。
今回は、我々が主に動員させられる、機械化能力者による犯罪ではない。けれど、やっぱりいつものように、茅島ふくみ自身が現場調査をして、直接犯人を割り出した方が良かったのかもしれない。
彩佳には、悪いことをした。ふくみはそう感じ入る。精密女や美雪が一緒だから安全だと判断しただけだった。彼女に適正があるから、調査を任せたわけではない。
そんな事を考える自分は、彩佳を信じきれていないのだろうか。
「……彩佳」
倒れている那須の遺体を見る。水が漏れている箇所の、すぐ側にある。
期待したこともあった。急所が外れて、死は免れている、と。だけどその遺体は、何度見ても額を綺麗に貫かれていた。即死だ。他に、言いようがない。
ごめんなさい、那須さん。
ふくみは、彼女を巻き込んでしまった自分を反省した。
自分にできるのは、さっさと犯人を叩き潰すこと。それだけ。
パイプを触っていた手を止める。
静寂。何かが聞こえたような気がした。
ああ、これは、知っている。
判断するよりも早く、彼女は飛び上がった。
瞬間、近くのパイプから水が噴射する。
速い。
彼女はパイプが束になっている部分に飛び乗って、息を殺した。
気づかれたか。
水は、隣のパイプを突き破っていた。二箇所から水が溢れ出している。
床は、もう水面になっている。ホワイトノイズみたいな水音が、皮膚をめくられるように気持ちが悪い。
これ以上は、危険だろう。
ふくみはそう判断して、パイプから飛び降りる。
水面を蹴りながら、滑ることもなく入り口の階段へ駆けた。
上がって、ハッチに手をかける。
しかし、
「……開かない」
やられた。出られない。
確かに、那須は解除して、そのままだった。オートロックも外されていた。
誰かに制御された。
だとしたら誰が……
まさか、ナノマシンにそんな機能まであるだなんて、考えたくもなかった。
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