5節

 茅島ふくみは、弄ばれていると感じていた。

 ナノマシンは、彼女を殺すつもりはない。少し関わっただけで、それはわかった。小動物に危害を加えて楽しんでいるような感情さえ見受けられた。水に引きずり込まれはしたが、結局抜け出すことが出来た。つまりは、ナノマシンには、その程度の目的しかない。ただの憂さ晴らしや暇つぶし目的で彼女を隔離して、適当に遊んでいる。本気で殺すのであれば、那須のように頭を貫くのが一番効率的だった。彼女の耳を用いれば、数度は避けるのも可能ではあったけれど、今は全身が水に濡れて、体力も落ちてきている。それに腰までの水位の中だ。足でも捕まえて、そこに撃ち込めば殺せるだろう。

 彩佳に余裕は見せたけれど、危険な状態だった。

 動くことも辛くなっていたけれど、なにも彼女は、意味もなくただ相手のさせたいようにさせていたわけでもなかった。情報収集と分析能力こそが、彼女のチーム内の価値を決定的なものにしている、その最もたる理由だった。

「ゲホ……コホッ…………うえ……飲んじゃった」

 パイプを掴んで、彼女は身体を支えている。濡れて纏わりついてくる長い髪が、ナノマシンに侵されたみたいに感じて邪魔だった。一瞬、無事に出られたら切ってやろうか、と考えたけれど、あんまり似合わない気がして辞めた。

 また、来る。いい加減慣れてしまった。耳は、もうナノマシンの駆動音すら、聞き取れるくらいになっている。

 足を引っ張られる。水に握力を感じるというのも、不思議な感覚だった。靴を脱いで、抜け出した。パイプをよじ登る。もう、靴は両方失ってしまった。お気に入りの靴で来なかったことを、彼女は心の底から安堵する。そんな場合ではないのに。

 ナノマシン本体が、何処なのかはわからない。ひょっとしたら、この部屋になんていないのかもしれない。いや、違う。確証はあった。パイプ越しに聞いた駆動音。それと同じものが、部屋に溜まった水の何処かから聞こえる。子機とは、明らかに違った。少しサイズが大きいのだろう。人格データを積んでいるのだから、当然だった。

 聞き取ればいい。そして、対抗手段もある。そのために、彼女は黙ってナノマシンにいたぶられ続けながら観察した。

 部屋の中央。確かに聞こえる。水音と、子機に混ざって、忌ま忌ましいうめき声のような。

「…………どうしたの? 私を殺さないわけ?」

 投げかけてみる。もっとも、向こうは返事なんてしようもないんだけれど。

 濡れた前髪をかきあげた。額が寒くなった。

 もう水位は先程より高い。

 早くしないと、手を打つことも出来ない。

「楽しかったけど、残念だわ。これ以上、遊んでる時間はないの……泳ぎは、別に得意じゃないし」

 パイプから飛び降りて、入り口へ向かう。

 階段を上がる。

 足を掴まれた。そこまでは想定してある。

 階段の先に置かれた容器。

 那須に頼んで、持ち出してもらった物がそこにある。

 彼女はそれを掴んだ。

 キャップを取って、中身を自分の足の方へぶちまけた。

 ――液体窒素。

 水中で瞬時の氷を作っていく。

 足から圧迫が消えた。ナノマシンが逃げた。

「これ、人体に掛かったらどうなるのかしら……」

 まあ、そんなことはどうでもいいけれど。

 彼女は容器を抱えて走る。

 部屋の中央へ。

 ナノマシン本体に直接、液体窒素を被せれば、活動できなくなる。

 そう確信したし、今もナノマシンが逃げた事によって証明された。

 低温には弱い。

 方法は、これしかないんだ。

 身体を抑え込まれそうになるたびに、容器の中身を撒いた。

 行ける。

 中央。

 聞こえる。

 水を操作するのに手一杯で、本体を逃がすという頭はないらしい。

 そこに、

「誰だか知らないけど、これで終わり」

 中身を注ぎ込めば――

 その瞬間だった。

 手首を掴まれる。

「あ……!」

 水面から伸びてきた、水だ。

 容器を落とした。なにもない場所へ、液体窒素が。

 彼女の身体に水が覆いかぶさった。

 沈む。

 動けない。

 息ができない。

 やばい……

 手を伸ばすと容器に届きそうだったけれど、

 そんな力もなかった。

 ああ、

 彩佳…………



「もはや、犯人特定は難しいですね。状況が特殊ですから」

 精密女が、腕を組みながら口にした。その言葉遣いは、私に諭すようでもあった。

 先程、所長からも連絡が入った。解錠はできない。それだけだった。心の何処かで、そんなことだろうと諦めていた自分がいた。

「証拠も消されて、放流時間も迫り、ふくみさんは人質に……」精密女は続ける。「仕方ありませんが、彼女の救出を最優先にしましょう。犯人がどうとか、ナノマシンをどうするのかは、その後でもいいわけです」

「はい……」私は頷く。むしろ初めからそうして欲しかったなんて言えなかった。

 だけど結局、私は何も出来なかったんだなって、

 残念に感じる心があった。

「下に向かいましょう。彩佳さん、ふくみさんに、もう一度連絡を入れて下さい。状況確認と、中の様子を伝えるようにと」

 わかりました、と私は頷いて電話を掛ける。

 だが、出ない。

「出ませんか?」

「はい……どうしましょう、大変だよ……茅島さん、どうしちゃったのかな……」

「うむ……」精密女が拳を作る。「こうなったら、所長には悪いですけど、実力行使でこじ開けざるを得ませんね」

「……できる?」美雪が尋ねる。

「腕が壊れても、やるしかありませんよ。その後のメンテナンスはお任せします。それと、もっと特殊な機能を搭載できませんか? 扉を溶かすような」

「無理だよ」

「……いえ、冗談ですよ」

 私は、倉田さんを見る。

 さっきから、じっと虚空を見つめていた。

「全部……嘘だったんだ……由加、あなたに聞かせてあげたかった」

 無理もない。結局、実験結果は全部捏造だったわけだ。私にも、その気持ちがわからないほど、私も軽薄な人間ではない。

 だけど、どこまでが嘘だったのだろう。ふと私は疑問に思った。

 ナノマシンを動作させること自体には、成功していたはずだ。現に今、それに茅島さんが苦しめられているわけだ。けれど、人格データがないなら、どうしてナノマシンが作動しているのか。私にはそれを説明できるような知識はなかった。

 ちょっとまって、

 おかしくない?

 そう頭の中で呟いた。

 何がおかしいのか。

 どうして、ナノマシンはここにあるコンピューターを破壊したのだろう。人格データもなければ、破壊する意味なんてない。

 偶然?

 いや、明確な意図があると仮定する。そうしないと、ここで思考が止まってしまう。

 やはりこれには、見られたくないデータが含まれていたのだろう。それは一体、なに? 人格データ以外に、見られるとまずいもの。なんだろう。何か忘れているのかもしれない。

「彩佳?」

「……待って、後にして」

 口を押さえて、じっと死体を見ながら答えた。

 そもそも、あの三人には、犯行は不可能なのではないか?

 人格データがないことがその証拠だ。だって、ナノマシンに乗り移って逃げるなんて言う前提がここで崩れるからだった。

 ナノマシンに人格なんて投影されていない。

 そして、壊されたコンピューター。

 サルベージ。

「なにかあるんだ」

「なにか?」

 そう、あれだ。

「…………実験データ、美雪。実験データって入ってる?」

「そんなの……でっちあげだってわかってるんだから、もう意味なんて」

「あるよ。あるはず……」

 頼むと、美雪は操作する。待たずに、すぐに出た。

「これでいい?」

 覗き込む。

 実験のメンバーとその合否が書かれた報告書。これだ。

「ありがとう……」

 確かめる。

 加藤、山際、大川、成功。

 山際、大川、松出、成功。

 加藤、松出、大川、失敗。

 大川、山際、成功。

 大川、加藤、失敗。

 加藤、山際、失敗。

 なんだ、

「そういうことか……」

 簡単な話じゃないか。



 所長と大川を実験室に呼び出した。

 倉田、大川、所長。三人から距離を取って、私は話す。私の側には、美雪と精密女がいる。

 なるべく茅島さんがするような流暢さを、私は意識したけれど、緊張が勝ってしまう。

「えっと、さっそくですけどみなさん。今回の事件について、全てわかりました」

「なんだって? それは、犯人もか?」所長が嬉しそうに言う。

「はい。今回の事件を、誰が引き起こしたのかも、わかりました」

 私は咳払いをする。

「最初から行きます。後ろの、亡くなっている三人。犯人はこの中にいるという前提から話は進んでいましたし、そう思って捜査もしていました。ですが、それはそもそも間違いだったんです。犯人は、この中にはいません」

「なんだって……?」所長が声を上げる。

「じゃあ、犯人は……俺たち三人だって言うんですか?」大川が尋ねる。

「そうです。死体の三人では、誰も当てはまりませんので。ナノマシンに人格を投影して、自分もろとも三人を殺してここから逃げた、なんていう仮説は崩れます」

「…………なら、誰が」

「先程、そこの壊れたコンピューターの中から、データをサルベージしましたが、人格データは欠片も残されていませんでした。削除されたとかそういったものではなく、未だ嘗て人格データの抽出に、成功なんてしていなかったんです。提出された実験データは、全てデタラメでした。いえ、そう思わされていただけでした。ですが、望む結果と似た状況を目の当たりにすれば、実験は成功したって思うはずですよ」

「……何が言いたいんだ?」

「実験データを参照しました。そこには実験に参加した人、そして合否が書かれていました。それだけの簡単な表です。一見すると、山際さんは優秀ですが、失敗することもあります。当たり前です。実験の条件はその時で違いますし。ですが、確実に成功しているメンバーの日があります」

 美雪は、ディスプレイに結果を表示させた。

「山際さんと大川さんが揃った時です」

 大川さんは驚く。

「それで俺が犯人だと言いたいんですか? それは早計でしょ。現に、今動いているナノマシンは、誰かの人格が入ってるんだ」

「ではナノマシンについて説明しましょう。どうして、ひとりでに動いているのか。人格を投影しているから動いている、という前提が崩れた以上、これはおかしいです。ですが人格データを一度も採取しないでも、実験は成功していることも事実です。これは、どう説明すればいいんでしょう。あなたは、実験で何を見たんですか?」

「人格を採取し、ナノマシンに投影。そして自在に水を動く様子だよ。加藤がそれをやったときもある。あいつは、一番人格データの採取に乗り気だったから。レポートもあいつが書いてたんだ。でっちあげているなら、あいつが怪しいだろう」

「それもそうですね。ですが、加藤さんと山際さん、二人の時に失敗しています。さっきも言いましたけど、人格データなんて一度も採取できなかったんです。なのにどうしてナノマシンが動いたのか。それも、山際さんと大川さんが揃った日に限って」

「実験条件だよ。やることが簡単な時だったんだ」

「いいえ。もっと簡単に説明ができます」

「なんだよ」

「――あなた、機械化能力者なんじゃないですか?」

 止まる。

 時間が止まるような感覚。

 大川は、直後に起こったように声を上げた。

「馬鹿野郎、証拠がないだろうそんなもの。どうやって調べるんだ、それにどんな機能だよ」

「ナノマシンを操るという機能です」

「倉田や所長かもしれないだろう」

「彼女たちは実験に参加していません。それに、山際さんとの実験のみで成功を叩き出している。いじめを知りながら彼の肩を持っていたのは、あなただけです。倉田さんも所長も、山際さんに対して、深い関わりはありませんから。あなたは山際さんの手柄にしようと、一緒に実験に参加していたときだけ、ナノマシンを操作して、人格投影が上手く行っているかのように装った。それ以外では、微塵も動かさないで評価を下げるようにしながら」

「…………そんなの、山際にだって言えるんじゃないのか」

「山際さんが実験データを消そうと考えますか? 人格データが完全に採取されなかったことも知らないというのに、そんなものを隠蔽しようと考えるんでしょうか? 山際さんが犯人であれば、そんな工作してないで、逃げるだけでいいんです。どうして隠蔽する必要があるのか? それはあの三人が、犯人でないという証拠です」

「…………」

「犯人はあなたです、大川さん」

 私は、言う。

 倉田さんと所長は、驚きながらこちらに走って逃げてきた。

「機械化部分を、調べさせてもらってもいいですか? 精密さん、お願いします」

「ええ……」

 頷いて、精密女が近寄った。

 大川は、

「来るな! 殺すぞ!」

 左手を挙げる大川。

 パイプ。水が飛んでくる。

 それを精密女は、拳を叩きつけて弾いた。

 腕は傷一つついていない。どんな素材で出来ているのか、聞いたこともなかった。

「武力交渉は嫌なんですけどね……」

 精密女は駆け寄って、大川の頭を掴んで叩き伏せた。

 ぐえ、っと大川は呻く。

 その上から、膝を立てて飛び乗る精密女。

 大川は、動けなくなった。

「この左腕がそうですね」

 腕を掴んで、背中の方に折る精密女。

 嫌な音が鳴る。

 大川が叫んだ。

「痛い! 痛…………! やめてくれ………………! わかったよ…………なにもしないからやめてくれ…………」

「事件の話、聞かせてもらえますか?」

 私が見下しながら尋ねると、大川は真相を語り始めた。

「ゆ、許せなかったんだ…………山際を評価しない連中が…………ずっと、機能を使って、山際の評価が上がるようにしてきた。だけど、誰も山際を認めないばかりか、いじめだってエスカレートしていった。あいつはなにも気にしてないふりを保っていたが、あんなのに耐えきれる人間なんていない……。まずいと思った俺は……、今朝のことだ、山際の代わりに、加藤と菅谷のいる実験室で話をした。あいつら、山際をバカにしていたんだ。あんなにすごい人間なんて、いないのに、あいつらは…………。だから腹が立って、機能を使って殺したんだ。もがき苦しむ様子は滑稽だった。そうしているうちに、山際に見つかった……俺は言ったよ、お前のためにやったんだ、喜べ、と」

「それで、彼はなんと?」

「『人殺し』と叫ばれた。あいつは、自分に危害を加える人間でさえ、興味がなかったんだ。俺は説得したよ……隠蔽を手伝ってくれって。だけど拒否された。部屋から出ようとしたから、泣く泣く機能を用いて、殺した。なるべく苦しまないように気を使ったつもりだ。水も、量は最小限に抑えた。どうしようかと、泣きながら途方に暮れている時に、俺は実験中の災難に見せかけようと、ナノマシンを排水溝から逃した。ナノマシンには、山際が乗り移っているような感覚があった……。海が見たいと言っていたから、海へ逃がそうと思った。そこへお前達が来た。俺が機械化能力者だとバレるのが一番まずいから、まずは実験室のコンピューターを破壊した。それだけだと目立つ。だからメインシステムもパスを変更した上で、破壊した。地下に行った厄介そうな女は、動かれると面倒だから閉じ込めた。ほとんど自立モードで駆動していたから、地下では何が起きているのかは、もうわからん。だけどナノマシン本体はそこへ追いやった。排水が始まった時に、そこに本体がないと意味がないからな……山際を、海へ連れて行ってやれないんだ……」

「今すぐナノマシンを止めなさい」精密女が脅した。

「…………無理だ。もはや、俺の制御下から離れている…………あいつは…………もう山際なんだ。山際が乗り移って、もう勝手に動いているんだ……」

 精密女が殴る。大川は喋らなくなった。

 彼女は立ち上がった。

「所長。放水まであと何分です?」

「えっと……」所長は時計を眺める。「あと、十五分だ……」

「時間がありません。みなさん、私に考えがあるんですけど、そのためにはふくみさんを助け出さないといけません。協力してもらえますか?」

「でも、どうやって……?」私は身を乗り出して尋ねる。

「鍵は大川にやらせれば開きます。問題は、ナノマシンを対処しながらどうやって助け出すか、ですよねえ……」

 駄目だ。なにもない。そんな事ができるなら、苦労なんかない。

 倉田さんがそこで、はっと思いついたように口にする。

「水中溶接具! それを使えば……」



 先端に管のついた棒のようなものを持たされた。

 その反対側からは、炎が灯っている。

 どういう仕組みなのかは知らない。本体から出た酸素と鉄の化学反応を用いて燃焼しているから、水中でも問題なく使用できる、と倉田さんからざっと説明を受けたが、私はもう興味すら無かった。

 こんな物で茅島さんを救えるのか? 否、救わなければならない。

 既に手遅れだったら、なんてことは、考えても真に受けないようにした。

 倉田さんが倉庫から出してきたそれを預かったのは、他でもない私だった。精密女は仕事があると言って何処かへ消えたし、美雪は大川を使って施錠システムの解除に向かった。

 所長は依頼主だ。頼るわけにも行かない。倉田さんに那須さんの遺体を見せるのも良くない。

 結果的に私しかいない。

 別に、嫌ではない。

 任せろっての。

「ナノマシンは、低温同様に高い温度を恐れるわ」倉田さんが、入り口の未だ閉まったままの扉を見ながら言う。「あまりに違う環境下だと、本体に損傷が出るの。あのサイズだから、少しの損傷も致命的だわ。こちらの火を消す方法も、ナノマシンにはない」

「……はい」

 深呼吸をする。全然落ち着かない。空気がただ前後しているだけ。

「……問題があって、このコードが繋がっている範囲しか持ち出せないから、気をつけて」

 その範囲内に、茅島さんがいることを願った。

『彩佳! 開けるよ』

 繋ぎっぱなしにしていた端末から、美雪の声がする。

 ハッチが解錠される。

 倉田さんが押し上げる。

 私は階段に足を踏み入れた。

 そこには――

「茅島さん!」

 もはや首のところまで上がった水位と、パイプに掴まってぐったりしている茅島さんの姿だった。

 私の呼びかけに、彼女は苦しげに、それでも微笑みながら答えた。

「はあい……彩佳…………遅かった、じゃない……」

 良かった、生きていた、という感情。

 意味のない苦痛を与え続けていたナノマシンを許さないという感情。

 両方が、同時に喉から出そうになった。

 彼女がいる位置は近い。溶接具の範囲内だろう。

 急いで近づく。

 服が冷たい水に濡れて、肺が窒息するような感覚を覚える。

 本当だ、水に浸かっても、炎は消えない。変な気分だ。

 波が、私に覆いかぶさってきた。

 そちらに溶接具を向ける。

 頭から水を被ってしまったが、水が私に突き刺さることもなかった。

 有用。

 このままナノマシンを燃やし尽くしてしまいたくなったけれど、冷静になってやめた。

 茅島さんに寄る。

「大丈夫ですか!?」

 怪我はないが、衰弱しきっている。呼吸が荒い。弱った猫を見ているみたいな気持ちになる。

「少しだけ、歩けますか?」

「うん…………」

 左腕で彼女を引っ張って、右手一本で溶接具を握った。

 私の方に寄り掛かりながら、彼女は歩く。前を見る余裕もない。

 足を掴まれて、溺れそうになったが、炎を向けると自由になった。

 代わりに、軽いやけどを負う。

 こんなの、どうでもいい。

 階段。

 彼女を登らせる。

 その時、私は見てしまう。

 奥の方で浮いている、那須由加の遺体を。

 ……。

「精密さん、茅島さんを、お願いします!」

 いつの間にか来ていた彼女に、茅島さんを任せた。精密女は、頷いて片手でひょいと茅島さんを引き上げると、床に寝かせた。

「彩佳さん、なにやってるんです!?」

「那須さんを……連れてきます」

「なに言ってるんですか、彼女は死んで……」

「それでも、置いておくわけにはいきません!」

 私は戻る。

 階段左奥のほうに、彼女が浮いている。

 向かう。

 その途中、溶接具が届かない。

 棄てた。

 私は那須さんに泳いで近づく。

「……今、連れていきますから」

 引っ張る。

 重い。

 知らない。

 私は必死で、引っ張った。

 階段下から、呼びかける。

「倉田さん!」

 彼女は腕を伸ばして、那須さんを引き上げた。美雪も手伝った。

 その瞬間、私は水に引きずり込まれた。

 口から息が漏れる。

 あ、

 まずい。

 死ぬ。

 何も見えない。

 聞こえない。

 もうだめか。

 でもまあ、彼女を助けられたのだから、それでも――

 諦めていると急に、

 引き上げられた。

 右腕に感触があった。

 空気。

 私は咳き込む。

 見ると、精密女。

「もう、ふくみさんが悲しみますよ」

 階段上までそのまま担ぎ上げられた。

 私は床に転がされる。

 ハッチの手前まで、水がこちらに向かっていた。

 事務室まで流れ込んだら、全滅するだろう。

 執念すら感じる。

 もう、人の意志からは離れている。

 大川でさえも制御が効かなくなった、誰でもないナノマシン。

「ここで終わりです」

 精密女がハッチの前に立ちはだかる。

 その手には、

 巨大なコンセントプラグ。

 部屋の隅に置いてある発電機に繋がっていた。

 それを水面に向かって、

 投げた。

 接触。

 とてつもない電撃が走るとでも思ったので、私は目をつむった。

 なにもない。

 静かだ。

 人の首を跳ねた後みたいな静寂。

 効果がないのかと思った。

 だけど確かに、

 水は勢いを失っていた。

 ナノマシンは、高圧電流によって破壊されたのだろうか。

『放流時間です』

 アナウンスが入る。

 その後、たった数分で排水ブロックに水はなくなった。

 あとに残されたものは、遺体の側で涙する、倉田さんくらいだった。



 ずっと眠っていた茅島さんが目を覚ました。

 私は彼女の顔を見下ろしながら告げる。

「おはようございます」

「…………え、もうそんな時間……?」

「いえ、あれから、二時間ってところですけど」

「そう……」

 身体を起こそうとした彼女を静止した。

「……私、今どうなってる?」

「私に膝枕をされています」

「……なんで?」

「起きないかと思って、心配で……」

「……身体がだるいわ、さすがに風邪、引いたかしら……」

 私はそのまま説明した。ここは那須さんの部屋で、もう警察が到着しており、今は事情聴取の真っ最中だと聞いた。医師から連絡もあり、既に報告は済ませてあるし、じきに来る迎えに乗って帰ってこい、とのことだった。

 精密女と美雪は、事情聴取に付き合っていた。警察に通報もせずに勝手に捜査していたことで、嫌味でも言われているのだろう。

 大川が犯人であることも、事件の概要も伝えた。

「そうだったの……彩佳が?」

「まあ、最終的にまとめたのは私ですけど……」

「ありがとう……」茅島さんはほっとしたように微笑んだ。「あなたに頼んで、正解だった」

「茅島さんがいたら、もっと早く解決できていますよ」

「少し、あなたに任せてみたかったの」

「……荷が重いって思ったのは本当ですけど、なんだかチームの人間として認められた気がします」

 変な達成感を覚えながら、私は今回のことを思い返した。

「……やっぱり、私の居場所はここなんだな」

「彩佳」

 目を閉じて、彼女は眠るような深い呼吸をした後に、言う。

「これからも、よろしく……」

「しょうがないですね……」

 扉から、倉田さんが入ってくる。

「加賀谷さん、ありがとうございます……由加を引き上げてくれて」

「いえ……」

「遺体は一端警察に任せた後、ご家族のもとに……。遺体がなにもないよりは、ずっとマシよ。葬儀が終わったら、私はここを辞めるわ。由加には悪いけど、もうここに将来性はないわ。もっと別の場所で、がんばれたら良いなって」

「頑張って下さい、由加さんの分も」

「そう思えるだけ、私は恵まれているわ」

 言って、倉田さんは嬉しそうに微笑んだ。

 そんな笑顔は、初めて目にした。

 私も真下で眠る茅島さんを眺めながら、

 ああ、なんとかこれからも、彼女のために頑張ってみようかな、なんて、

 全くもって、すこしも私らしくもないことを、

 荒野にて、雨乞いでも踊るような気持ちになって、考えていた。

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