ただいまをもう一度_171001

   1/3 いつかの〝笑い〟


 手元が狂った。とっさに伸ばした手が、取り落とした歯磨き粉のチューブを横にはじく。いっそ空を切っていれば洗面台に落ちたものを、よりによって壁との隙間にストンと入り込んだ。悲しいかな、それも手の届かない絶妙な位置に。

 災難続きだった今日一番のため息をもらし、ちょうど持っている歯ブラシのの力を借り受ける。目的のものは難なくき出され、くっ付いてきた綿ぼこりのオマケが何かをコロリと吐き出した。


「……〈笑い玉〉?」


 肝心のチューブそっちのけで拾い上げてみれば、それは十数年も前に〈記憶玉〉の廉価れんか版として流行はやった、〝笑い〟を保存できる代物だった。色が付いているところを見るに、どうも使用済みらしい。

 綿ぼこりをつまみ上げてくずかごへ落とし、だいだい色のうっすらした煙を内包する玉をながめながらシャコシャコと歯を磨く。昔使った分は保管箱を作って管理していたし、どれも離婚を機に全て処分したから自分のものではないだろう。道徳を重んじるなら、割り捨てるか前の住人に届けるのが筋だが、そのどちらも思いとどまった。


 ――自分の居ない〝笑い〟だと、何が見える?

 絶好のチャンスを前にして、道徳心が興味に勝てるわけもない。そうと決めたら台座を用意しなければ。確かペットボトルで代用できたはず……。


 うがいとともに今日あった憂鬱ゆううつの全てを水に流し、洗面もそこそこに台所に立つ。肩が丸いペットボトルを脇の辺りで切り、飲み口を下にしてお猪口ちょこ状に立てた。そこに笑い玉を乗せて軽くつつけば、首部分をギリギリ抜け落ちずにハマる。あとは部屋の明かりを消して、内側から光を当てるだけだ。

 懐中電灯をつけ、玉の中に保存された笑いを照らし出す。壁との距離を少しずつちぢめ、ボヤけていた像が一番鮮明に映ったところで足を止めた。


 初めに見えたのは、カップケーキだった。白い大きな皿にポツンと乗っていて、ジャムだろうか、空いている部分には半透明のソースで『ハピバスデー パパ』と書かれている。すーっとケーキは遠ざかり、映り込んだエプロン姿の女性が手元に引いたのだと分かった。楽しそうな顔をして、笑い玉に向けて何事か話している。記録者が頷いてでもいるのか、相づちを打つように映像がときおり縦に揺れた。それから急に横に流れ、玄関に立つ人物に駆け寄る。


『パパ!』


 聞こえないはずの声が、ハッキリと脳内再生される。

 映像は続き、振り向いた男の足下まで来ると視点がふわりと持ち上がった。それから、皿を手に待つ女性へと向き直る。


『おかえりなさい』


 またしても声が聞こえて――女性の笑顔を最後に、映像は途切れた。


 膝をつき、なし崩しに座り込む。その拍子に台座から外れてしまったのか玉が転がり、暗い家をあざけり笑うような音を響かせた。

 確かに、自分のものではない。そりゃそうだ。この〝笑い〟は息子のものなのだから。


 どうして離婚することになったかは、正直、私には分からない。何の前触れもなく、半分記入済みの離婚届と夕飯をテーブルに残して二人が居なくなってしまったのだ。クシャクシャの状態で下に落ちていた紙片に、唯一『どうかお元気で』とだけ書き残して。


 仕事仕事でいつも帰りが遅いから、愛想をつかされたのだろう。そう素直に受け入れて、探すことはせずに残りを記入して届け出た。

 それから九年も経ってどうだ。ずっと心に秘めていた寂しさを、こんな小さな玉一つが「気付け」とばかりに照らし出してしまった。妻と子への恋慕れんぼを加速させ、探しに飛び出していればすぐに見つかっていたかもしれないのにと、今さら後悔までさせて。


 探したところで、もう見つからないだろう。だが、せめて思い出くらいは――

 九年越しにようやく湧いた衝動だ。止める言い訳など今さら出ない。くたびれたコートを寝巻きのまま羽織り、笑うのをやめた玉と財布を引っ掴んで夜の街に飛び出した。




   2/3 夜市をたずねて


 背にかかる言葉に、「行ってきます」と返さなくなったのはいつだろう? 言葉が返らなくても「おかえり」と迎え続ける、あの顔を見ないようにし始めたのは、いったい……。


 帰ればいつも、食卓には温かい御飯があった。どんなに遅く帰っても先に寝たりせず、近すぎない距離を保って居続けた。私が話したくも聞きたくもなくて黙っているときは、少しだけ離れた場所で手芸を始めることもあったが、何か言えばすぐに飛んできた。

 家事全般に着替えの用意、息子の世話。全てを任せ、〝当たり前〟にしてしまったから出て行ったのだろうか。情の欠片かけらさえ残らず失せてしまうほど疲れてしまったのかもしれない。


「そんな前のもの、残ってるわけないでしょうが」


 そうため息混じりに告げ、骨董屋は年代物の柱時計を一瞥いちべつした。当然といえば当然のあきれた反応に、自分でも分かるほど視線と肩が落ちる。


「です、よね……」


 22時、少し前。閉店の札向こうに明かりが見えて、ダメ元でしつこくドアを叩いたような男の話を聞いてくれただけ、ありがたいと思っておかなければいけないだろう。

 礼を言って去ろうとした時、店主が味のある長いあごひげをでつけながら口を開いた。


「んまぁ、せっかく出てきたんだ。駅裏の夜市に寄るだけ寄ってみろ」


 私の格好から何かを察したのか、「そういう青臭いの、嫌いじゃないよ」とご老体は笑った。




 それ行った行ったとばかりに追い出され、言われたままに訪ねてみる。駅の白色灯とは対照的な橙の明かりがほの暗い路地につらなっていて、間をへだてている一方通行の道路が、まるで国境線のようだ。


 通りには夜宮よみやを思わせるたたずまいの店がぽつぽつと並ぶ。看板もお品書きも無く、見えるところに商品すら置かれていないため何屋であるのかも分からないありさまだが、客足はそれなりにあるようだ。

 手近にあった一つに立ち寄り、笑い玉は無いかと声をかける。差し出されたのは未使用の透明の玉で、訳あって使用済みのものを探しているんだと告げれば、ねっとりした視線で一通り舐め回してから店主は路地の奥を指差した。


「ずーっと先の、〝緑のランプ〟がともる店に行きな」


 礼を一つ残して足早に進む。奥へ行くにつれて開いている店は減り、ぽつりぽつりと設置された街灯だけがシャッター通りに光を落としている。一向に見つからず、通り過ぎてしまったかと不安になり始めた頃、ふいに緑色が横手に現れた。

 その店は、少し引っ込んだ位置に立っていた。元々はラーメン屋だったらしく、穴が空いて朽ちかけた雨避けや窓ガラスに残った名前が、ドア横に吊るされた黒い骨組みの洋風ランプの光を受けて怪しげに浮かび上がる。中華の赤い名残に西洋の黒と緑を添えてあるというのに、元からそうであったかのような絶妙なバランスを保っていた。


 入口を押し開けると、コロロンッと軽い音が鳴る。おそるおそる踏み入った店内はガランとしていて、唯一の光源はカウンターに置かれた裸電球のスタンドライトのみで薄暗い。その明かりの前に座っている男の他に人が居ないのを見るに、おそらく彼が店主なのだろう。

 愛想良く「いらっしゃい」と客を迎えるどころか、こちらに目もくれず何かを磨き続ける男に歩み寄る。丁度陰になっていたカウンター上に、見覚えのある箱が置いてあることに気付きハッとした。


「……アンタはどんな〝記憶〟をお探しで?」


 伸び放題の口髭をもそもそさせて問いを投げ、熊に似たドッシリ体型の店主は手中の玉を橙の明かりにかざした。天井にあぶり出された不鮮明な像と、彼の横手にある保管箱に、強い確信を持つ。


「それっ。それを。その笑い玉をください!」


 元は私のものだと告げ、片眉を吊り上げていぶかしむ彼に事情を話す。首肯しゅこうだけで相槌あいづちを打って熱心に聞いてくれた上に、そういうことなら売ってもいいと了承してくれた。


「言っとくが、高くつくぞ?」

「構いません! ありがとうございますっ!」

「――おい、オッサン。肝心なこと言ってないじゃないか」


 どことなくくぐもった音で届いた言葉に、深々ふかぶかとさげた頭を上げる。布のこすれ合う音がしてすぐ、カウンター裏にかがんでいたらしい男の子がひょっこり顔を出した。


「〝保存されたイメージに一番近い記憶を呼び起こすだけで、貴方の笑い玉だったものとは限らない〟ってな。……ところで。オジサン、名前は?」


 歳はそう、中学生くらいだろうか。幼いながらも心身ともに大人び始める、気難しい時期なんだよなぁ。などと考えながら名乗れば、少年は嬉しそうに詰め寄ってきた。


「俺だよ。ケータ! もう忘れちゃった?」


 聞き覚えのある響きに、そんな上手い話があるものかと動揺する。自分が付けた息子の名と、音がたまたま同じだけだ。ところが、聞けば漢字も一緒で、苗字も私と同じ「かじ」を名乗った。それでも疑いの目で見ていたせいか、口をとがらせた少年に生徒手帳を突きつけられる。


「ほら、ホントに〝梶 圭太〟だろ? 正真正銘、俺はアナタとノリコの息子です」


 信じてよ親父。そう懇願こんがんされるも戸惑うだけの私に、それまで黙って成り行きを見ていた店主がこれ見よがしにため息を吐いた。


「こいつが最初に来たのは、確か二年前だったか。それからちょくちょく来ちゃあアンタの話をしてくれたよ。現れるかも分からんってぇのに、ずいぶんカワイイことで長いこと悩んでたもんだ。『来たら何て呼ぼう?』ってな」

「オッサン!」


 なんでバラすんだよとわぁわぁ叫びながら、圭太は照れ隠しにカウンターを何度か叩く。その姿に典子のりこが重なって見えて、本当に自分の息子なのだろうと実感が湧き始めた。


「――で、どうするの? 買わないんなら帰ってくれねぇかな。もう店仕舞いしたいんでね」


 ひとしきりガハハと盛大に笑ったあと、気が変わったらまた来いと店から追い出しにかかる熊男に、圭太が「俺も親父も来ねぇから安心しろ」と応じた。片手を上げて肩をすくめてみせる彼に頭を下げ、一人で来た道を二人で引き返す。




   3/3 もう一度


 短い道すがら、圭太は絶え間なくしゃべり続けた。来年は高校受験だという自分のこと、住んでいるアパートのこと、家を出てからずっと典子が口癖のように私の話をし続けていること……。尽きない話題が、何を話せばいいのか分からずにいた私にはありがたい。


「母さんはきっと、親父が戻ってくるって信じてるんだ。そりゃあ出てったのは母さんだけど、心が離れたのは親父のほうだからって」


 さらりと寝耳に水を差される。心が離れた? それは典子のほうで、だから出て行ったのだとばかり思っていたのに。

 考えていることが伝わったのか、圭太が言葉を続ける。


「夕飯あったでしょ? 冷凍庫も、あっためるだけですぐ食べれるようなものでいっぱいだったはずだよ。当面のご飯は考えなくてもいいくらい」


 言われてみれば、確かにそうだ。二ヶ月くらいは白米を炊いて適当に味噌汁を作るだけで充分食べていられた。それまでの冷凍庫内がどうだったかは開けることもなかったから記憶にないが、普段の食事を思い返すとそこまで作り置きしておく必要はなかっただろう。そう考えると、出て行っても大丈夫なように作り込んでいったということか。


「じゃあ、あのメモは? クシャクシャで床に落ちてた……」 


 それ、たぶん俺だ。と圭太が笑う。


「書いたはいいけど、永遠の別れみたいで嫌だなーと思って丸めたら俺が欲しがったらしくて。まあいいかー、って遊ばせたんだって。よく笑って話してるよ」


 たどり着いた駅の白色灯にさらされて、夢から覚めたような気分だった。それじゃあ、どうして出て行ったりしたんだと眩暈めまいすら覚えるが、その答えは自分で出さなければいけない気がして口をつぐむ。

 身に覚えのない仕事のトラブルだって、自分でどうにかしてきたじゃないか。勝手は違うとしても、家のこと――家族のことだって、ちゃんと向き合えば少しは見えてくるはずだ。ないがしろにしてきたツケが回ってきただけさ。


 一つしかない駅のホームで互いの電車を待つ間、そういえばと思い出してポケットを探る。


「お前のだと思う。これを見たから探しに来たんだ」


 取り出した笑い玉を圭太に渡すと、親指と人差し指で輪を作って玉を支え、右手を添えて望遠鏡の形にしてのぞき込んだ。それで見えるのかと聞けば、あの店主――見たい記憶に近い〝笑い〟を選んで像を見せる商売をしているらしい――から教わった、手軽に見れる方法なんだそうだ。

 何が見えたか問われて答えると、一つうなってから玉を返された。


「全然違う記憶が見えるから、たぶん俺のじゃないと思う。親父が丸っきり忘れてるだけで、じいちゃん達との実際の思い出か、ドラマのワンシーンでも見たんじゃないかな?」


 記憶が曖昧あいまいであればあるほど、見える場所や物・人が、親しみのあるものに置き換えられて見える。――熊男からの受け売り情報によると、そういうことらしい。


「元の持ち主を探すのも難しいだろうし、持っててもいいんじゃない? これが在ったおかげで親父に会えたんだから、俺は捨ててほしくないな」


 微笑む圭太の言葉に、それもそうだなと答えて再びポケットに仕舞う。


「圭太は……その。どうしてあの店に?」


 比較的ガラリとした電車に乗り込み、今度は自分から話をふる。今は23時を回ろうかという時分。夜遅くに中二の子どもが出歩いている理由もそうだが、笑い玉の店に行くようになった経緯いきさつが気になった。


「……俺が見たいと思った笑いを、親父も探しに来たらいいなと思って」


 詳しく聞くに、これも典子の話から笑い玉の存在を知り、ボンヤリとしか思い出せない私との思い出を見ようとしたらしい。熊男の店を見つけてからは、週に二三度、今日のように家を抜け出して23時まで居座っているという。


「居たいなら勉強でもしてろ、ってオッサンに条件出されてさ。おかげで少し成績上がったよ」

「そうか。下がらないといいな」

「あー……家だと捗らないから、どうかなぁ」


 たまに行ったほうがよさそうだ、と笑いあう。


「夜の一人歩きは男だって危ないんだから、行きたいときは呼んでくれ。改めてお礼もしたいしな」


   *


 金曜の仕事上がり。駅で待ち合わせた圭太に連れられ、うながされるままにそのドアを開けた。ふわりと懐かしい香りがして、じわりと唾液だえきが出るのが分かる。あの日に食べた最後の料理と同じ、隠し味のバターが甘くほのかに混じる――肉じゃがの匂いだ。

 夢中で靴を脱ぎ、ふらふら誘われるように足を進める。木玉の暖簾のれんをじゃらりと鳴らして部屋に入れば、記憶よりも小さく見える後ろ姿が台所にあった。


「おかえりー。ひと息ついてからでいいから、あとでちょっと手伝ってくれる?」


 トントンと小気味良い音を立て続けながら、彼女が背中越しに言葉を放つ。

 肩口をつつかれて振り向けば、目を輝かせた圭太が何度も頷いている。暗に「返事してよ」と言いたいのだろう。うるさい心臓の音をいさめるように深く息を吐いて、なるべく自然に吸った。


「……ただいま」


 とても小さかったと思う。それでも届いたのか、ずっと続いていた包丁の音が止まった。振り向いた顔は驚きに満ちていて、徐々にぐしゃりとゆるんでいく。玉ねぎのせいだと言い張って泣きじゃくる姿が、たまらなくいとおしい。


「おかえり」に「ただいま」を返す。そんな些細ささいなことがこんなにも幸せに感じられたこの時を、強く、強く彼女ごと抱きしめてちかう。――この〝笑い〟こそ、今度は当たり前にしてみせようと。



===

ただいまをもう一度

〔2016.05.01 作/2017.10.01 改〕

=========


 タイトルがしっくり来なくて、「郷愁の笑み」「あの幸福をもう一度」を経て現在のものになりました。正直まだしっくり来てはいないのですが、諦めも肝心ということで。

(2020.06.04)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る