3.少年回想

 「『……悪魔は言いました。「さあ、お前の願いは叶えたぞ。約束通り、魂をいただこう」』」


 普段物静かな母の読み聞かせは、恐ろしく臨場感あふれるものだった。


「『男は焦りました。恋した人とは結ばれ、子供もでき、幸せをつかんだ男はまだ死にたくないと思ったのです。男は何とか命だけは許してもらおうとしましたが、悪魔は取りあいません。』」


「ね、ね、つづき。はやくつづきめくって、お母さん」


「急がない。……『もうだめだと思った時、空から光がさし天から御使いが降りてきました。御使いは言いました。「この者は幸せを手に入れ、善人となったのだ。お前が悪人から魂を取るのは構わんが、善人から命を奪うのは許さない。契約はなしだ。すぐに去るがいい」。悪魔は御使いを罵りながら地中に消えました。男は今度こそ本当の幸せを掴んだのです。めでたしめでたし』」


「わぁ」

 パチパチと拍手をする僕の横で、姉が頬を膨らませた。


「……なんかずるい」


「ずるくないよ。この人は今までがんばったから、みつかいさまがごほうびくれたんだよ」

「約束やぶったのはこの人じゃない。あくまがかわいそう」

「幸せになったんだからいいじゃん。あくまはこの人を不幸にしようとしたんだよ」

「でも、それでもあくまの言う事きいたんだよ。だから」


「はい、喧嘩しないの。仲良くしないならもう読み聞かせはしませんからね」

 母がそう言って本を閉じる。僕と姉は慌てて口を噤んだ。


「じゃあ、次はねこさんの話にしましょう。空飛ぶおさかなを追うねこさんの大冒険」

「ねこさん!」

「……聞く」

 僕は身を乗り出した。姉も渋々座り直す。

「じゃあ……あら」

 ドアが開く音が聞こえ、母は顔を上げた。

「お父さんが帰って来たわ。お出迎えしましょう」

「いってくる。お父さぁん」

「あ、まって姉ちゃん、ぼくも行く!」




 ……────僕が住んでいたのは、灰色の村だった。



 酷く暗い村だ。



 空にはいつも厚い雲が覆いかぶさっている。日の光はめったに差さないため、草木はいつもしおれている。人々の顔色も、死体と見紛うほどに悪い。とにかく村全体が灰色だった。



 父親と、母親、姉、そして僕はそんな村の一軒家で暮らしていた。



 父親は、外出の多い人だった。なかなか家族と一緒に過ごせない罪悪感からなのか、僕達の前ではすまなそうに眉尻を下げて、それでもニコニコと笑っていた。


 しかし姉はそんな表情が気に入らなかったらしい。いつも不機嫌そうにしていた彼女が笑った所を、僕は見た事がない。


 母親は物静かな人だった。外出の多い父親にも、無愛想な姉にも文句はひと言も言わず、家事をこなしていた。そんな無口な母でも本を読み聞かせてくれた時が何度かある。母に抱えられて物語を聞いている間、まるで海の中にたゆたっているような不思議な心地がした。




 僕の5歳の誕生日を祝った後の事だ。父は僕を抱え上げるといつもの表情で僕を見た。

「父さんはまた出かけるから。母さんと姉さんをよろしくな」

「どこいくの?」

「遠い所だ」

「いつかえってくるの」

 虫の知らせ、と言うらしい。何故か嫌な予感がした僕は矢継ぎ早に訊ねた。父は、ぎゅっと掴まれた袖から僕の手をゆっくりはずした。


「しばらく、かなぁ。さすがにすぐには帰って来られないよ」


 滲んだ視界の中で、父はくしゃりと顔を歪めた。


 なぜか彼の表情が、今にも泣きだしそうだったのを覚えている。


 ────あれから結局、父は帰って来なかった。




            ※




 ……父が出ていった二年後。あまり話す事のなかった姉が突然、僕を呼び止めた。


「私、ここ出てくわ」


 いつも通りの不満顔で、さらりと言い放たれた言葉。それをようやく飲み込んで、僕はようやく問い返す事ができた。


「なんで」


「こんな村にいたくないから」


 さも当然と言わんばかりの返答に唖然とする。


「みんな暗くてじめじめしてて。私この村大嫌い」

「母さんはどうするのさ」

「あんたがいるでしょ。ピイコラ泣いて縋り付いていたあんたが」


 かっと頭に血が上った。


 僕は怒りに任せて姉に飛び掛かり、姉と弟、生まれて初めての大喧嘩になった。



 十数分後。床に転がった僕を見下ろし、姉がひらりと手を振った。


「じゃ。母さんをよろしく」


 視界がにじむ。見上げた先で、姉は振り返ることなく部屋を出ていった。




            ※



 ……父が出かけた時も、姉が家出をした時も、母は何も言わなかった。

 家に二人になった時も、不平を何一つ言わず、母は僕を育て上げた。

 強い人なんだ。幼いながらにそう思った僕は、泣き出しそうな口を引き結んで母を手伝った。僕まで泣く訳にはいかない。


「レオン」

 そんな母が床に伏すようになったのは、僕が12歳になってからだ。

 母は僕の名を呼んで、頬に手を遣った。


「ありがとう」


 僕の頬を撫でながら、母が初めて柔らかい笑顔を浮かべた。


 ありがとう。


 ────それだけ言い残した母は、間もなく息を引き取った。




            ※




 そうして、僕は一人になった。



「君では荷が重かろう。葬式は私が執り行おう」


 何をしていいか分からず呆然としていた僕に助け舟を出してくれたのは村長だった。

 そこは田舎の小さな村だったが、葬式には喪服に身を包んだ人が多く訪れた。


「……母さん、こんなに顔が広かったんだ」


 当時の僕はぽかんと口を開けて喪服の行列を眺めていた。


「こんなに、悲しんでくれる人がいるんだ」


 暗い部屋でマフラーを編んでいた母が思い浮かび、なんだか泣きそうになる。

(泣いちゃだめだ)

「僕がしっかりしないと」

 シャツの袖で目元を拭き、口元を引き結んだ。




 ──葬式の最中、棺桶が運ばれてきた時のことだった。


「なっ、何をする!」


 突然叫び声が上がり、僕は振り返った。

 喪服の男達が葬儀屋に掴みかかっている。彼らは有無を言わさず葬儀屋を押しのけると、棺桶をひっくり返した。


 土気色の母が地面に転がり出る。声が出なかった僕の目の前で、男達は母を囲み何やらぶつぶつ話していた。

(何を話して……母さんになにをする気なんだ)

 そう思いながらも、僕はぶちまけられた母の遺体に駆け寄らなかった。……駆け寄れなかった。


 あの黒服たちが、やけに恐ろしい悪魔に思えたからだ。


 やがて黒服たちは、母から僕へと目線を移した。

 逃げる暇もなく、僕はあっという間に囲まれる。見上げた先で黒服たちが口を開いた。



「『技術者』ソフィア=アマーストの息子、レオン=アマーストに違いないな」



 傍にいた村長は何も言わなかった。静まりかえった中、暗い瞳に見下ろされ、僕はやっとの思いで頷いた。

「そう、……ですけど。あなた達は一体」


「『白い病棟』に連行する。貴様ら『技術者』は人類の──歴史の、そして未来の敵である」


「……はい?」


 何を言っているのか分からない。


「『技術者』って……あの、人違いでは」

「人違いではない」

「あの、何なんですか。『技術者』って。僕には覚えが──ねぇ、村長」


 僕は慌てて村長たちを振り返った。彼らは遠巻きに僕を見つめ、ひそひそと囁き合っていた。



「……──ああ嫌だ。『技術者』なんて早く連れてってしまいなさいな。どんな呪いを掛けられるか分かったもんじゃない」


「何で今まで『技術者』がこんな所にまで野放しになってたんだ?なあ村長」


「死体は?持って行ってくれないの?『技術者』は『中央政府』の管轄でしょう?何、こっちで埋めなきゃいけない訳?」




 婦人が母の遺体を見て嫌そうに顔をしかめたのをよく覚えている。腐った鼠の死体を見た時と同じ顔だった。




(──なんだこれは)

 胸に何かがこみ上げる。


 何なんだ。これは。


 騙された。この黒服たちは、村長たちが引き入れたのだ。

 どうやら母は『技術者』で、僕もその『技術者』で、『技術者』はこの人達の敵らしい。


(敵?敵ってなんだ?)


 母がこの人達に何をした。僕が一体何をしたんだ。

 分からない。分からないけど、……これだけは許せない。



 何故、なんで僕達がそんな目で見られなければならない?



「なんっ……!」

 こみ上げる感情のままに叫ぼうとした瞬間、黒服たちに押さえつけられて意識が飛んだ。



                ※


 ──気が付いた時、僕は黒服達の言っていた『白い病棟』にいた。


 病棟とやらはとにかく白かった。建物も、廊下も、部屋も、小物も、棟内を歩く人々も、全てが真っ白で目眩がした。


 患者衣に着替えさせられた後は白い個室に一人で放り込まれ、食事、検査、就寝をただ繰り返す。それだけだった。それだけの生活。飢えはない。だが、自由もない。


 ……真っ白な部屋に閉じ込められ、何度気が狂いそうになった事か。



 僕の他にも『患者』はいるらしく、検査で廊下に出た時、叫び声を耳にした。

 やがて廊下の先から、白服の職員に羽交い締めにされた患者が近づいてくる。

 髪はぼさぼさで、身体はやせ細り、男か女かもわからない。

 その人の白い患者衣の袖は赤く染まっていた。やたら印象的で、それが目に焼き付いている。


 聞けば、その人は発狂して、自分の手首の皮膚を噛みちぎったらしい。その人は僕とすれ違っても自分の真っ赤な手を満足気に眺めていた。


 恐ろしい。


 その人があまりに異様だったから、ではない。僕の未来がその人に重なったからだ。


「『技術者』とは何か、ですか?」

 白服の職員が、ゴーグルの奥の目を細めた。

 僕は頷いた。

 「一体僕が何をしたのか。何を犯してここにいるのか。それだけでもお聞きしたいんです」

 


「何をしたか、ですって?」

 職員は試験管を置き小さく息を吐いた。


「理由は至極簡単。あなた方は我々人類の──歴史の、そして未来の敵です。だからここに収容されている」



 敵?敵だって?



「僕と母は普通に生活していました。誰かに恨まれるような事は決してしてません。……ましてや『人類の敵』なんて言われる覚えは全く無い筈です」


「それはあなた方が『技術者』だからです」


 (……駄目だ)

 堂々巡りしている。


 何度目か同じやり取りを繰り返した後、僕は質問をやめた。


 返って来た答えは二つ。


 僕は『技術者』である。


 そして『技術者』は人類の──歴史の、そして未来の敵である。


「クソ」

 部屋に戻った後、僕はベッドにもぐりこんで目をつぶった。



「……なら一体『技術者』って何なんだよ……」





 

 


               

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