第九話 - イヌガミ - 4

 相葉家あいばけは和風の建築様式をした、落ち着いた内装のお家だった。通されたリビングの勧められた椅子に腰掛けて、対面に座ったあゆむくんと、私は向き合う。窓の閉められた室内は空気がずしりとしていて、どこか張り詰めたような質感を伴っていた。


「父と兄は、今日はいません」

 私が辺りを見回していたからか、歩くんがそう言った。

「姉のことを心配していましたが、平日ですからね……」


 そう言われて、庭に車がなかったことを思い出す。この街で車なしの生活を送っているとは考えにくい。どちらも仕事に出ている、ということだろう。


「うちは母がいないので、二人とも結構忙しくしてるんです。その上姉はドジで、僕はこんなんですからね。祐士ゆうしお兄ちゃ――平桐ひらぎり先輩には、随分面倒みてもらってました。その先輩が、大怪我を負ったって聞いて……お姉ちゃんも、なんだか様子が変で……」


 かたかたと、テーブルに乗った歩くんの手が震えていた。ぎゅっと握り締められた拳が、こもった力でまっしろになっている。


「お姉ちゃんの様子が変って、どういうことかな。ただショックを受けている、というのとは違っているの? 詳しく聞かせてもらえる?」


「なん、ていうか……アレは、そう――」

 そう言って歩くんは、しばし宙を見つめる。何を思い出しているのかはわからなかったけれど、再び口を開いた歩くんは、申し訳なさそうにこう続けた。

「すみません、よく、わかりません」


 怯えている様子の歩くんの手に、私は自分の手を載せた。伺うように目を合わせてくる歩くんを、まっすぐ見つめ返す。


「あなたのお姉さんと、話してみてもいいかな?」


 歩くんによると八重子やえこちゃんは、家の二階、自室にこもっているとのことだった。昨夜呆然とした様子で帰って来てから、現在まで食事も取らずにいるらしい。元は部屋には鍵がついていなかったが、高校生に上がる時につけたのだそうだ。八重子ちゃんがそれを開けてくれない限り、誰も中には入れない。歩くんは部屋の前まで私を案内してくれようとしたが、私は断った。家族には話しづらい話が出る可能性もある。八重子ちゃんとはふたりで話をした方が良いだろう。


 細く伸びる、嫌に段差の大きな階段。それを登って、私は二階へと向かう。不気味なくらいの静けさに、足音を立てるのすら躊躇われた。階段を登り切って振り返ると、廊下がまっすぐに伸びている。小さな橙色の明かりがひとつ、ぽつんと灯されていて、左右にいくつか部屋があった。そのうちのひとつが、八重子ちゃんのお部屋だ。


 彼女の部屋のドアには手作りと思われるハート型のボードが提げられていた。丸っこい文字で『やえこ』と書かれている。幼い頃に作ったものだろう。こんな形でお邪魔することになっていなければ、八重子ちゃんにかわいい字だねと話せていたかもしれないのに。そう思うと、きゅっと胸が痛んだ。


 ノックしようと腕を浮かせて、手を止める。何と声をかけたら良いだろうか。逡巡していると、意外にも向こうから、話しかけてくる気配があった。


「あれ、もしかして先輩……ですか?」


 ドアから離れた位置からの、くぐもった言葉。その声には涙が滲んでいる。泣いていた? いや、それよりも、どうして私を平桐くんだと思ったのだろう? なんと答えたものか迷っているうちに、八重子ちゃんはどんどん話し始める。


「よかった……先輩、無事だったんですね。そうだよ……あんなことあるわけない。私が――れたのも、あの大きなワンちゃんも、きっと夢だったんだ……そう、夢……ただの夢――」


 大きなワンちゃん……?

 ひとりごちるように口に出されたその台詞には、気になる部分があった。


「ごめんなさい先輩、私いま、ひどい顔してて……ちょっと、待っててください。いま鍵、開けますから――」


 声とともに、ドアに近づいてくる気配がする。このままでは騙し討ちのようになってしまうと思って、私は慌てて話し始めた。


「八重子ちゃんごめんなさい、私はあなたの先輩じゃないわ」


 言った途端、動き出していた気配が止まる。


「この声……先輩じゃ、ない? なんで? 誰……誰、ですか……?」


 怯えた様子の八重子ちゃんに、私は意識して柔らかく返した。


「私は平桐くんのクラスメイトよ。ごめんなさい突然。びっくりさせちゃったわよね」

 私はそこで少し間をあけた。

「今日は平桐くんの容体を伝えにきたの」


「………………」


 八重子ちゃんは何を思っているのか、沈黙している。私の言葉は届いているのかいないのか。わからないが信じるしかない。


「結論から言うと、平桐くんは大丈夫よ。入院しているけれど、命に別状はなかったわ」

 

 それ以上はあえて説明を省略する。八重子ちゃんに真実を伝えてしまったら、落ち着いて話なんかできなくなるだろうということは、容易に想像ができた。私は落ち着いて言葉を選ぶ。


「ただ、あなたたちはまだ、何かの問題に巻き込まれている可能性が高いの。普通の人には信じてもらえないような、常識では考えられない問題に。八重子ちゃん、もしかして昨日の夜、あなたたちの身には、何かへんなことが起こったんじゃないのかな? よかったら、話してくれない? 昨日の夜のことを」


 ドアからは再び沈黙が流れた。だが耳をそば立ててみると、小声で何か話している気配がする。私はドアに近づいて、腰を下ろした。


「八重子ちゃん、怖いだろうけれど、お願い。よく思い出して。さっきあなたは、『大きなワンちゃん』って言っていたわね? それってどういうことかな? 昨日の夜、あなたが平桐くんと一緒にいる時、大きな犬が出てきたの? もしかして――」


 少し迷って、最後まで言い切る。


「もしかして、その大きなワンちゃんにあなたたちは襲われたの?」


 すると空気がうっすら冷気を孕んだような、不思議な感覚が辺りを包んだ。外はまだ明るいはずなのに、橙色の電灯に照らされた廊下が、余計暗くなったような気がする。


「わか、らない……んです」と、やがてドアの向こうからか細い声が聞こえた。


「大きな犬は、確かに、あそこにいました。いきなり後ろから現れて、口を大きく開けて、私を飲み込んだんです……。あれ、でも、おかしいな……飲み込まれたのは私のはずで、でも入院したのは先輩で……わからない、家にもいつのまにか帰って来てて……気づいたら服に血がついてて……もう私、何が何だか――」


 八重子ちゃんが話している間、こつん、と壁に何かがぶつかるような音がした。頭を、ドアにぶつけているのだろうか。断続的に音が続く。こつん、こつん、こつん――。


「……飲み込まれた? 八重子ちゃんもその犬に襲われたの? あなたも怪我をしたということ?」


「怪我……? そうだ、なんで私だけ? 変だな、どこも痛くないのに……それじゃあ、この血はいったい、誰の……嫌だ。怖い、怖いよ……先輩……」


 こつん、こつん――。八重子ちゃんが頭をぶつける。リズムが段々早くなって、音も大きく、強くなる。八重子ちゃんはかなり、錯乱しているらしかった。まるで私を触媒に自問自答しているみたいに、発言内容に筋が通っていない。


 今回の件、私は大筋では以下のような流れを想像していた。平桐くんは《天火》事件を解決した直後、八重子ちゃんと一緒に下校する途中で力の強い怪異に出会い、八重子ちゃんを庇って大怪我を負った。そしてその怪異によるなんらかの影響で、目を覚まさない。


 しかし八重子ちゃんの発言によれば、最初に襲われたのは八重子ちゃんだ。彼女は背後から現れた大きな犬に、飲み込まれた、と言っている。これでは順序がおかしい。もしそれが本当ならば、八重子ちゃんも平桐くんと同じく、大怪我を負っているはずだ。なのに本人も怪我をしていないことを不思議がっている様子で、歩くんも八重子ちゃんの怪我については言及しなかった。これが意味するところは、いったい――?


「まさか……?」と私は思わず呟く。

 私は息を飲んだ。そうだ、あの時と、状況があまりにも似通っている。

 そうだ、犬。犬の怪異。どうしてすぐにピンと来なかったのだろう。私はつい数ヶ月前、平桐くんから犬の怪異について相談を受けたではないか。

「確か、ここにくる途中にあった、小さな橋――あそこで八重子ちゃんが転んだって話だった……それで八重子ちゃんの足に傷跡が浮かんだ……」


 ――オクリオオカミ。


 もしやアレが、全ての発端だったのではないか? あの事件では結局、平桐くんはオクリオオカミを消さなかった。八重子ちゃんの足に浮かんだ傷はミサンガが切れた時についたもので、オクリオオカミに対しては、謝って帰ってもらったと、平桐くんは言っていた。そうして平桐くん自身は、左腕に怪我をしたのだ。


 どちらの場合でも、被害者であろうと思われた八重子ちゃんが怪我をしておらず、代わりに平桐くんが怪我をしている。ならばオクリオオカミと、今回八重子ちゃんが行き合ったという《大きな犬》には、何か関連があるのではないか? だとしたら――


 そこまで考えた時。


「やっぱり、聞いたんですね」


 すぐ近く、耳元から声がしたような気がして、私は肩を跳ねさせた。声を上げることすらできずドアに目を向ける。もちろん見た目になんら変化はない。だが、ドアに近い方の腕に鳥肌が立った。


「き、聞いたって、何を……」


 私が問い返すと、間髪を入れず八重子ちゃんが言った。


「小さな橋の前で、私が怪我したこと……誰にも言ってないはずなのに、私と先輩しか知らないはずなのに……きっと先輩から聞いたんですよね。平桐先輩から。いいな、羨ましい。私は知らなかったのに。先輩に仲良しのクラスメイトがいるなんて。知らなかった……知らなかった……」


 そこで八重子ちゃんが、何かに気づいた気配があった。


「あなた、白神しらかみさんですよね?」


 手に汗が滲むのを感じる。

 私は八重子ちゃんに名乗っただろうか? いや、まだだ。まだ名乗っていないはずだ。

 ごん、ごん、とドアからする音が強くなる。

 様子がおかしい。八重子ちゃんは早口でまくしたてる。


「はは、そうだ、白神さんだ。きっと私を責めにきたんだ。自分がいない間に平桐先輩と仲良くして、おんぶに抱っこで迷惑かけて、そのせいで大怪我させたって。そうですよね? 私のせいだと思いますよね? 私が平桐先輩を付き合わせたから……あはっ、違った、付き合えなかったんだ。駄目だなぁ、こんなんだからフラれちゃったのかなぁ……でも、違うんです。違うんですよ……そうじゃないんです。そうじゃない……」


 ごん、ごん、ごん。重い音とともにぎしぎしとドアが揺れた。独り言のように呟きながら、八重子ちゃんは何度も頭を打ち付ける。何度も、何度も、何度も――。私は声を上げた。


「八重子ちゃん、怪我しちゃうわ。ドアに頭をぶつけるのをやめて。お願い」


 すると八重子ちゃんが、不思議そうに言う。


「……私、さっきからずっと、ベッドの上にいますよ?」


 え、と。

 言葉の意図が一瞬わからなくて、でも徐々に、頭がその意味するところを理解し始める。ベッド、ベッドの上――ドアの目の前にベッドなんて置かない。だけど八重子ちゃんはずっとベッドの上にいたと言う。だと、したら――。


 だとしたら、私が八重子ちゃんだと思って話しかけていた、ドアの向こうのこの気配は――?


 ガァン! と、次の瞬間、ドアが一際強く、殴られたように揺れた。私は思わず身をすくめて、その場から飛びすさる。ドアにかけられたネームプレートが振動で跳ね、床へ落ちて割れた。呆然としていると、ドアの向こうから「うー」という獣の声。その後、かちゃかちゃという爪の鳴る音が続く。


「この匂い、先輩の匂いだと思ったのに……」


 低い、唸るような八重子ちゃんの声に、ぞっとして私はその場に尻もちをついた。


「先輩の匂いがする」

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