第九話 - イヌガミ - 5
青い顔をして階下に降りた私を、
先ほど体験したおぞましい経験が脳裏に蘇る。やはり自分一人には荷が重いのか。だが諦めるわけにはいかない。現状この街でこの問題に手を出せるのは私だけだ。私が怖気付いてしまってどうする。
私は脳内の情報を洗う。犬は昔もいまと変わらず、人と親しい獣だった。怪異として書物に著されるのはもっぱら猫や、虎や、蛇、狐狸の類や、牛馬の類、あるいは蜘蛛などの虫類が多く、犬の怪異なんてそうはいない。八重子ちゃんがあんな状態でなければクダやイヅナの可能性もあったが、そうじゃない。あれはおそらく《
犬神は自然発生するのではなく、人工的に産み出される怪異だ。三日三晩絶食させた犬を首から上だけが地上に出るように生き埋めにする。その状態で目の前に餌を置き、それを食べようと犬が首を伸ばしたところで、刀でその首を刎ねるのだ。すると犬の魂が首から抜け出し、餌を喰らう。目に見えずとも餌が減るので、犬神作りが成功したか否かがわかるというものだ。
犬神は邪道な方法で作る式神のようなもので、主人の命令をよく聞くそうだ。ただし知能は低く乱暴で、基本的には何者かを呪う用途で使われたらしい。そして問題なのは、この『犬神の作成方法』だ。
八重子ちゃんは先ほどの会話でこう言った。「こんなんだからフラれちゃったのかなぁ」と。私が気にかかったのは、八重子ちゃんが平桐くんに交際を断られた、という点である。平桐くんからの話を聞くかぎり、八重子ちゃんと平桐くんとはかなり仲が良かったはずだ。八重子ちゃんは以前から、平桐くんのことが好き……だったのだろう。彼女はだんだんとその思いを募らせ、三年生の卒業式が終わった後、ついに告白をした。そしてしかし、平桐くんにその想いは届かなかった――。
チクリ、と胸が痛んだがあえて無視して思考を続ける。考えを止めて、考える。
この構図は、よく似ている。餌を食べようと首を伸ばした瞬間、叩き切られたワンちゃんと、八重子ちゃんの状況はまるでそっくりだ。
それだけなら、世界中の失恋者が犬神になることになってしまう。だが八重子ちゃんの場合は事情が違った。彼女は以前、オクリオオカミという形で平桐くんに生き霊を飛ばした過去がある。そもそもが犬の怪異と相性が良い体質だったのだ。それで八重子ちゃんの生き霊が、《犬神》へと変質した……。
その想像を裏付けるように、歩くんがこんな話をしてくれた。八重子ちゃんの周りでは、昔から少し不思議なことがあったと。
「お姉ちゃん一度、泣きながら家に帰ってきたことがあったんです。手にゴミ袋を持ってて、異臭がしました。お母さんがなにそれ、って聞くと、お姉ちゃんは言うんです。手が放せなくなっちゃったって。お母さんがお姉ちゃんをなだめながらハサミでゴミ袋を切ってみると、中に犬の死体が入ってました。お母さんは急いでそれを土に埋めた。お姉ちゃんはそのまま気を失うように眠ってしまって、翌朝ケロッとして起きてきました。何も覚えてない様子で……あの時は怖かったな……」
そのことがあったので歩くんは、今回のことも超常的なことなのではないかと、うっすら思っていたらしい。歩くんには申し訳ないけれど、おかげで話がしやすくなった。
犬神に関しては、産み出し方や憑かれた際の症状についての伝承は多くあるものの、対処法についてはあまり文献がない。それでも有名なのは、犬神が憑いている者の身体を握り飯などの食物で撫で、それを犬神を使役する者の家に供えるという方法だろうか。
だが、理屈で言うならばそれは成立しない対処法だろう。なぜならそれは、犬神の作成過程に由来する方法だからだ。餌を食べようとして首を切られた犬ならば、餌を与えれば満足するはず。そう考えるのは頷ける。だがその理屈で言うなら、今回の場合はどうだ? 八重子ちゃんの生き霊であるオクリオオカミが、平桐くんに芳しい返事をもらえなかったことで変異してできた犬神。順当に考えるなら、それに与えるべきは平桐くんだ、ということになってしまう。平桐くんの心。だがそれは、手に入らない。彼が簡単に心変わりする人間ではないことを、私も――彼女もよくわかっているはずだ。だから彼女は、犬神は、決して満足しない。どう頑張っても、泣いても笑っても、足掻いても、喚いても――絶対に。
わずかな可能性にすがって、伝承通りの対処も、その他に記された対処もできる限り試した。だが、結果は同じ。平桐くんは目を覚さない。犬神が憑いているから平桐くんが目を覚さないのか、何か別の理由があるのか、それすら私にはわからなかった。それにそもそも、今回の怪異が本当に犬神なのか、それすら確定はできないのだ。私の推測に過ぎないのだから。
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