第九話 - イヌガミ - 3

 私は病室を後にした。


 どこへ向かうかはとりあえず決まっている。父からの連絡で、平桐ひらぎりくんが怪我をした際の状況はざっくりと把握していた。三年生の卒業式が始まる直前、平桐くんは体調を崩して会場を抜け出したそうだ。そして保健室でしばらく眠った後、後輩の女生徒と一緒に下校するところまでは、担任教諭が目撃しているらしい。まずはこの後輩の女生徒に話を聞くのが手順だろう。


 平桐くんと一緒に下校するような後輩の女生徒なんて、ひとりしか心当たりがない。電話で頻繁に話題に上がる、件の後輩ちゃん――相葉八重子あいばやえこちゃんだ。平桐くんがどうして怪我を負ったのか? いったい何が原因で、目を覚さないのか? きっと彼女が、何か知っているはずだ。



 ◆



 平桐くんの家と八重子ちゃんのお宅は、方向が一緒だと聞いていた。ちなみに私は平桐くんの家には行ったことがない。八重子ちゃんのお宅を探すには、必然地図とにらめっこすることになった。


 病み上がりの体に徒歩での移動は重労働だったが、幸い平桐くんのいた病院と相葉家とは、そこまで離れていなかった。


 入院前はお父さんの手伝いであちこち街を歩いていることが多かったのに、半年というブランクは想像より大きい。駆け回る小学生たちの声や、町内会の顔見知り、農作業をするお婆ちゃんなんかとすれ違いつつ、私は相葉家のお宅の前までやってきた。


 駐車スペース代わりに砂利を敷き詰めた庭のある、木造の二階建て一軒家。


 時刻的には昼食時を少し過ぎているし、住民を無用に不機嫌にさせることもないだろう。ひとつ短い深呼吸をしてから、私はインターホンを押した。


 ぴんぽん、という電子音の数秒後、「はい、どちら様でしょうか?」と怪訝そうな声が続く。そう歳が変わらない――多分、女の子の声。私はインターホンへ呼びかけた。


「こんにちは。私は平桐くんのクラスメイトで、白神叶奈しらかみかななと申します。あなたが相葉八重子ちゃん?」


 すると、少し逡巡するような間があった。


「……違います。八重子は僕の姉ですが、どういったご用件でしょう? 生憎、姉は体調を崩していて、今日は誰とも会いたくないそうなんですが……」


 八重子は僕の姉、と耳に入った瞬間、以前聞いた話が思い出された。この子は平桐くんが言っていた『女の子のような男の子』――相葉歩あいばあゆむくんだ。本当に女の子みたいな声をしているから、一瞬わからなかった。私は言葉を選びながら続ける。


「そう、ですか。わかりました。それじゃあ、八重子さんに伝言をお願いできますか? 急ぐ必要があることなんですが――」


 歩くんは言い淀む。


「……ごめんなさい、いますぐは多分無理、だと思います。姉はちょっと、少し怖い目にあったようで……その……」


 怖い目、という言葉に私は浮き足だった。やはり八重子ちゃんは昨日、何か異常な体験をしたのだ。おそらくは平桐くんの見ている、《へんなもの》にまつわる経験を。「本日のところはお帰りください」と言って、歩くんは話を終えようとする。このまま終話してしまったら、重要な手がかりを逃してしまうかもしれない。私はインターホンに食ってかかった。


「私の用事は、八重子さんがあったというその怖い目についてなんです。平桐くんが入院して、まだ目を覚ましていないのは知ってますか? もしかしたら、昨日八重子さんが見たり聞いたりしたものの中に、彼の目を覚ますためのヒントがあるかもしれないんです」


 そう伝えると「祐士ゆうし、お兄ちゃんの……?」と歩くんが息を呑む気配があった。私は間髪入れずに続ける。


「昨日の夜、平桐くんが怪我をする前、何か奇妙なことが起きませんでしたか? あるいは平桐くん自身が、何か不思議なことを言っていたりしませんでしたか? 八重子さんに聞いてみてほしいんです、お願いします!」


 そう言ってインターホンに向けて頭を下げる。数秒の沈黙が流れ、しかししばらくすると、がちゃりと玄関のドアが開いた。その隙間から、不安そうな顔をした歩くんが顔を覗かせる。


「……白神さん、でしたっけ」

「そういうあなたは、歩くんよね。平桐くんからよく聞いてるわ」


 安堵の気持ちで思わず笑いかけるけれど、歩くんの表情は変わらず暗いままだった。俯いて、私と目を合わそうとしてくれない。


「お姉ちゃんたちに何があったのか、わかるんですか……?」


 そんな風に、訊いてくる。

 正直、話を聞いてみるまではなんとも言えなかった。現在起きていることが何なのか、私の知識の範疇にあることなのか、何もわからない。今日のこれだって、その手がかりを探しにやってきたのだ。確かなことは何も言えない。だけど目の前の男の子をこれ以上不安にさせたくなくて、ああ自信って、こういう時に必要になるんだと思いながら、私は努めて明るく言った。


「この手のことに関する知識なら、誰にも負けないわ。もちろん、平桐くんの次に、だけれどね」

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