第九話 - イヌガミ - 2
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朝。半年もの間お世話になった病院から出て、私――
駅前に誰がいるかわかったものではないからといつもの看護師さんに言われて、結局それなりにおめかしもしてしまった。浮かれているみたいで嫌だなあと思っていたのだが、それがどうやら現実になってしまった。
故郷へ帰る電車の中で、私は父からその連絡を受け取った。端的で要点を押さえた文面によると、昨日の夜、
お父さんは放任主義だから、どちらにするか私に訊ねた。一度家に帰るか、すぐに平桐くんのところへ向かうか。半年も家を離れていた娘が家にも戻らず男のところへ、というのは家族としては寂しかろう。でも私は、平桐くんのところへ行くと連絡した。人が少ないのをいいことに、座席に座って顔を伏せる。頭を上げると、車窓に映る自分と目が合って、めかし込んだ自分の姿が、ひどく滑稽に思えた。
駅に到着すると、車をつけていてくれたお父さんが、私を平桐くんのいる病院まで送ってくれた。携帯と財布だけ持っていきなさい。残りは私が家に運んでおく。夜には家に帰るんだよ。それだけ話して、私はお父さんと別れた。
病院には朗らかな空気が流れていた。和気藹々と話す看護師さんたちと、どこからか香ってくる花の匂い。受付に話して病室を教えてもらい、階段を上がる。開けられた窓から流れ込む春風が、追い立てるような朗らかさで私の背中を押した。
ベッドに寝かされた平桐くんは、ただ眠っているだけのように見えた。一人用の個室。身体のそこかしこに包帯が巻かれていて、出血した痕も伺える。確かにこれは、大きい部類に入る怪我だろう。けれどその傷のどれもこれも、彼の意識を奪うほどのものには思えなかった。彼が目を覚さない理由には、足らないように思えた。
ちょうどよく見回りの看護師さんがやってきたので、私はその人に、平桐くんの病状を訊ねた。鎮静剤などの投与はしておらず、基本的には外傷の治療をしただけだとのこと。頭部の傷はなく、一応はCT検査もしたそうだったが、特に異常は見られなかった。呼吸や心拍や血圧も正常なので、眠っている、としか言えない状態であるらしい。
看護師さんはひとつ、気になることを言っていた。
「熊にでも襲われたのかねえ」と。
どういうことか訊ねてみると、平桐くんが負っていた傷は、引っ掻き傷や噛み跡のように見えたという。それもかなり体格の大きな、熊ぐらいの大きさの獣に襲われたような跡とのことだった。
普通に考えれば、こうなるだろう。平桐くんは卒業式の後、野生の動物か何かに襲われて大怪我を負い、そのショックでいまは昏睡している、と。それだって中々起こらない事態ではあるけれど、私の視点では、別の可能性がありえるように思えた。だって眠っているのは、あの平桐くんだ。彼にしか見えない、《へんなもの》の影響。それを私は、きっと他の誰よりも耳にしてきた。他ならぬ平桐くんから、誰よりも詳しく、それらについて聞いてきた。頭部に怪我や異常のない、原因不明の昏睡。それを眠っているだけと判断することは、私には到底できなかった。
平桐くんはなんらかの超常的な理由で、意識が戻らなくなっているのではないか? 彼の目を覚ますためには、医療的にではなく、何か別の処置が必要なのではないか?
いてもたってもいられず席を立って、病室の扉に手をかける。平桐くんの静かな呼吸音を背後に聞きながら、私は自分の手が震えていることに気がついた。
いったい、何が起きているんだろう。
自分なんかに、対処できるんだろうか?
そんな気持ちが、首をもたげた。怪異、妖怪、もののけ、もっけ――呼び名はなんでもいいけれど、そういったものに対面するとき、平桐くんはずっと私を頼りにしてくれていた。あんまり頼ってくれるものだから、私も得意になって、平桐くんに対処法を伝えた。こうすればああできる。これこれを持っていけばうまくいく。鼻高々にそんなことを教えて、自分はなんでも知っているかのように振る舞っていた。
それをいざ自分でやってみようとするだけでどうだろう。知識があるからなんだというのか。情報があるからなんだというのか。いつだって実践するのが一番怖いのだ。うまくいかなかったら、私が失敗したら、平桐くんはもう目を覚まさないかもしれない。何もしないでそんなことになったら、きっとそちらの方が後悔は強いだろう。そんなことはわかっている。わかっているなら、できるはずだ。それなのに――
私は大きく、深呼吸をした。吸い上げた時震えていた息は、深く吐くとまっすぐに伸びていく。考えるのと同じくらい、時には考えないことも大切だ。行動が必要な時には、すぐに行動するのが一番良い。動いている間は考えが止まる。私の場合、行動するとはすなわち考えることだが、それならそこは、それはそれ。考えを止めて、考える。私にできるのはそれだけだ。
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