第八話 - テンカ - 10

 保健室を出た俺は、まっすぐ下駄箱へと向かった。


 時刻が時刻だ。八重子やえこは多分先に帰っているだろう。と、思っていたら、ちっこいのがいた。出入り口のところで、ちょこんと体育座りをしている、華奢な黒髪の女の子。もしやと思って携帯を開いてみれば、何通もSNSにコメントが来ていた。送信時間はかなり前。まさかずっと待っていたのか? 律儀な奴、と俺は呆れたが、同時にそのこじんまりとした後ろ姿に、ちょっといじらしいものも覚えた。


「八重子」


 名前を呼ぶと、八重子が首を上げる。首だけ振り返って俺の姿を確認すると、立ち上がってぱそぱそとスカートの裾を払った。その後腰に手を当て、むーっという顔をする。


「悪かったな、長い間待っててもらっちまって」

 すると八重子はとぼとぼと近づいてきて、「てい」と俺の頭に、背伸びをしながらチョップした。


「遅いですよう」

「すまん」

「心配しましたよう」

「悪かった」

「駄目でしょ先輩、危ないことしちゃ」

「ああ、ごめんな」


 もっと怒られるかと思ったが、俺が神妙にしているのを見てか、八重子はそれ以上怒らなかった。俺たちは靴を履き替え、下駄箱を出る。門を出て、いつもの畦道あぜみちを歩いた。半年以上も一緒に帰っているあの畦道だ。


 俺は今回の件、八重子にも事情を説明しようと思ったのだが八重子は別に聞きたくないようだった。八重子はそれどころじゃないらしく、「うふふ」と嬉しそうに言った。


「これで借りは返しましたからね、せーんぱい!」

 なんの借りだろうと思ったが、ああ、万引き事件のことかと思い当たる。もしやずっと気にしていたのだろうか。俺にとっては当然すべきと思ってした行動でも、八重子にとっては大事な出来事だったのかも知れない。もしかしたらいままでのあらゆるお節介だって、こいつは律儀に、嬉しがってくれているかも知れない。そう思うと俺は、何か八重子にしてやりたいような気分になった。というかそうだ、今回の件。俺は謝っているばかりで、八重子に礼を言っていない。


 俺は多少気恥ずかしく思いながらも「あー、オホン」と咳払いをした。八重子が俺に注意を向ける。


「あー、八重子。今回はその、なんだ……ありがとう。本当に助かった」

「うぇーい!」と八重子が歓声を上げる。

「えー、つきましてはだな。何か礼をさせてくれ。なんでもいい。ラーメンでも肉まんでも奢るぞ。甘いものが良ければ、新しくできたクレープ屋にいってもいい」

「うぇっへ! マジっすか!? 先輩おでぶちーん!」


 ……もしや、太っ腹と言いたいのだろうか?

 きゃっきゃっとはしゃぐ八重子。こういうところはやっぱり犬っころみたいだ。尻尾をぶんぶん振っている感じ。八重子は唇に手を当てて考える。


「うーん、なんでも……いいんですか?」

 俺は頷いた。

「ああ、俺にできることならな。別に食べ物じゃなくてもいいぞ。宿題とか、映画とか……」

 すると八重子はもうしばらく考えてから、悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 いったい何を言い出すことやら。白神と違って八重子はこういうときの思考が読めない。いや、考えが読めないのはいつものことか。


 そして、八重子は口を開く。

 俺は、油断していた。今回も一件落着したと安心しきって、気づいていなかった。俺が呼び寄せた歪みはずっと、俺のすぐ近くにいたのだということを。


「じゃあ、先輩――私と、キスしてください」


 は? と。

 俺は絶句する。

 冗談を言っているのだと思った。でも違った。俺を困らせるために、言っているのではなかった。八重子は本気で、言っていた。


「先輩、知ってました? 私、ずっと先輩のこと、好きだったんですよ」


 俺は、足を止めた。どうして。なぜ気がつかなかったのだ俺は。数ヶ月前、俺のことを嫌いだと八重子は言った。先輩となんてありえないと、真正面から確かに言われた。だが、俺はもう知ったはずではないか。言葉はたまに、嘘をつくのだと。


「……えへへ、いや、いつ言おうかって、結構迷ってたんすけどね。でも先輩ももうすぐ三年生になっちゃうし、いましかないかなって、あはは……でも、そうなんです。私、先輩のことが好きなんです。家いるときとか、寝る時とかも、ずっと先輩のこと考えちゃったりとかしてて……その……」


 そんな風に、つらつらと言葉を重ねる後輩を、俺は――どう見ればいいのかわからなかった。見ればわかる。素直な言葉。心から出てきた、本当の言葉。裏のない言葉。だが俺は、言わなくてはならない。正直に気持ちを伝えてくれた後輩に。俺も本当のことを、言わなくてはならない。ああ、なんて嫌な役なんだ。かわいいい後輩を。こんなにまっすぐ気持ちをぶつけてきてくれたやつを。傷つけなければならないなんて。


「八重子、ありがとう」


 八重子がハッと顔を上げる。

 キラキラとした笑顔は、しかし俺の表情を見て――


「だがすまない。俺は、お前の気持ちには応えられない」

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