第七話 - ウシロガミ - 8

 トイレに着くと女性客はすぐさま膝をつき、便座を抱いた。

 そのまま「うう〜」と唸ってベソをかく。マジ泣きだ。当初の大人っぽい雰囲気からは想像もつかない姿である。


「ほら、お客さん。大丈夫ですか? お水、持って来ますか?」


 俺も泣きたい思いでそんな風にお伝えする。

 しかし女性は俺には答えず「なんなんだよちくしょぅー……」と便器を抱える手に力をこめた。ぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。


 だがそれは全く俺の台詞だ。何故俺は他でもない白神しらかみの見合い景色をまざまざ見せつけられながら酔っ払いの介抱かいほうをせにゃならんのか。しかもあの黒部という男、心に口がついているのかというくらい素直に白神を褒めちぎっている。俺が照れ臭くてできなかったこと。格好つけて言えなかったことを、平気で口に出しているのだ。あいつが言ったことなんか全部、心の底では俺も思っていたはずなのに。なぜ俺はそれを白神に伝えられなかった。どうして言うことができなかった。後悔の念でこっちが泣きたいくらいだ。「ハンカチ、使いますか?」と提案しつつ、俺は現実逃避のつもりで鏡を見た。


 するとそこには、驚くべきものが映っていた。

 トイレの姿見に映る、俺の頭……正確には後頭部の位置に。


 ――《手》が、映っていた。

 俺の髪の毛をつかむ、手首から先だけの、女の手が。


 なんだこれは!? どういうことだ? バイト前に身だしなみをチェックしたときには何も異常はなかったはずだ。


 この《手》は伝染性でんせんせいの怪異なのか? それとも女性客の反応からして、酒に関する怪異なのだろうか? しかし俺は酒なんて飲んでいない。そもそもこの怪異はどういう影響を俺たちに与えているのか。この女の人が突如感情的になり、べしょべしょに泣いているのは怪異のせい? わからないことが多すぎる。


 しかも『この手』――不思議なことにどこかで見覚えがあるのだ。どこで見かけたのだろう? 多分、どこかの公共施設――そう、病院だ。いつかどこかの病院で『この手』を見かけたような……?


「うっ、うう……」と、女性客がうめく。

 俺は一旦その場を離れ、水を入れたグラスと紙ナプキンを持ってきた。

「ほら、お客様。お水ですよ」

 水を差し出すと、女性客は素直に受け取った。だがなかなか飲む様子がない。吐くのかと思って背中をさすると「んん」とうなりながら首を捻って、

「ヒトシ……?」とうわごとのように呟いた。

 こちらに顔を向け、まじまじと俺の顔を眺めるも、残念ながら俺はヒトシさんではない。

「あ、……すみまぇん……」

 と女の人は落ち込んだ様子で俯いた。そのままグラスの水をじっと眺める。

「いえ……」と俺は返す。


 ヒトシだ? 誰と間違えてる。この女の人、そのヒトシさんとやらにフラれでもしたのか? 待ち合わせの予定をすっぽかされたとか? 案外この人の後ろ頭についてる手も、その『ヒトシさん』の物だったりして――


「――――っ!」


 跳ね起きて、俺は再び鏡を見た。

 そうか! どうして気づかなかった!?

 だとするなら、ひとつ確認せねばならない。


 俺は立ち上がってトイレを出る。そして白神と黒部が座るテーブルに視線を送った。そして、確信する。こいつはもしかすると――ビンゴかもしれない。

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