第七話 - ウシロガミ - 6

「はい、お決まりでしょうか?」

 後ろの席に聞こえてはまずい。声を小さめにする。立ち位置も白神しらかみから顔が見えない位置に調整した。平常心、平常心……。


「あ、店員さん。お酒をお願い。ウィスキーのダブルをロックで、えっと銘柄は……ん、ごめん。ちょっと待ってね……」

 そう言って女性客はメニューを見ながら迷い始める。おいおい頼むよ、銘柄ごと決めてから呼んでくれ! おかげでその間、嫌でも背後の会話が耳に入った。


 黒部と白神は、こんな会話を繰り広げていた。


「叶奈ちゃん、綺麗になったね。僕の予想通りだ」

滅相めっそうもない。こんな綺麗な服、似合わないし……」

「服なんて関係ないさ。よく似合ってるけど、叶奈ちゃんの方が綺麗だよ。僕が画家だったら、ぜひ絵に描いてみたいな」

「ああ、黒部さん、絵画習ってたもんね? あはは、真正面から褒められたことってあんまりないから、なんか恥ずかしい。ごめんね?」

「いいって。気にしないでよ。僕は本音で話してるだけだから。自信を持って叶奈ちゃん。君は綺麗だ」


 みしみしみし! と注文を書き込むメモ帳がひしゃげた。

 なんだこいつ……っ! あんなに惜しげもなく綺麗だ綺麗だと連呼しやがって。黒部仁――もしや相当な遊び人なのか!? 超女慣れしてる感じなんだが!?


 軽薄そうな、キザな声色と言葉に、俺は歯が浮く思いをする。だがわからない。これが女性に対する、正しい態度なのかもしれない。思い返せば俺は、白神に綺麗だと言ったことがあるだろうか? 白神がいかに素晴らしい人間かを、伝えたことがあっただろうか? 日頃の感謝や思いを、言葉にしたことが果たしてあったか?


「ん、じゃあこれにしようかな」

 女性客が言うので、俺は無理やり手元に意識を戻す。選ばれたウィスキーの銘柄をしわが寄った紙束に書き込みながら、俺はきしむ表情筋にむちを打って笑顔を浮かべた。

「か、かしこまりました……ラフロイグですね?」

「うん、お願いね。――あ、それから水が欲しいわ。グラスで二杯。頼める?」

 硬い笑顔のまま、僥倖ぎょうこうだ、と俺は考える。強い酒の横に水を置いて交互に飲む客はたまにいる。普段なら面倒に感じる提案だが今回は渡りに船。なにせ黒部の人間性が予想の斜め上だった。こいつの動向は今後とも聞き捨てならない。水を注ぐという口実があれば、俺はその度に会話を聞きに来られる……!


「承知しました。喜んで」と俺はにこやかに笑った。

「ありがとね」と女性客もにこやかに返してくれる。

 と、俺はそこであることに気づいた。目の前の女性の、空になったグラスを持つ手が震えている。それに、外見にも違和感が……?

 しばらくして、俺はその正体に気がつく。


 こ、これは――!


「どうかした?」

 女性客が不思議そうに訊ねてくる。

「あ、いえ……店内、寒いですか?」

「え?」

「震えてらっしゃるように見えたので」

「ああ、えーと……いえ、大丈夫よ。ありがとう」

「そうですか。では、すぐにお飲み物をお持ちいたします。少々お待ちください」

「ありがとう。気が利く店員さんね」

 そうして俺は席から離れる。立ち去り際、もう一度チラリと背中越しに確認した。


 ……やはり、そうだ。大きくなってる。


 女性客の後ろ髪、後頭部。シニョンに結われている部分を掴む、人のこぶし型をした髪飾り――それが先ほど見た時より明らかに、ひとまわり大きくなっていた。


 俺には、《へんなもの》が視える。


 電車からぬっと顔を出す色鮮やかな鬼の面、都会のビル群の隙間を泳ぐ美しい小魚の群れ、郊外の道の真ん中に浮かび上がる黒い体色の巨大なクラゲ、などなど。普通は見えない奇妙な物が、俺の目には映るのだ。


 俺の主治医はその症状を『その場の雰囲気や空気のようなものが、目で見えているように錯覚しているだけ』と診断していたが、錯覚だろうがなんだろうが、実害が出ているのだ。そんなもんはなんでも変わらない。


 俺が白神に命を救われたというのも、俺が《白神案件しらかみあんけん》と呼んでやまないのも、この俺が視える《へんなもの》関連の事件だ。故に今日のこれも《白神案件》。ユニークなアクセサリーに見えたあの女性客の髪留めは、実は俺にしか視えていない、怪異だったのである……!


 ん? だが待て。この女性客は先ほど、あのアクセサリーを認識しているような発言をしていたはず。どういうことだ? 女性客にも《手》が見えているのか、それとも……?


 本来なら白神に助けを求めるところなのだが、いまはそんなわけにはいかない――っていうかそれどころじゃない! どうする、ここは様子見が吉か? 見たところ女性客は、特に困っている様子はないようだが……?

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