第七話 - ウシロガミ - 4

 八重子やえこと別れ、電車で一時間。その後徒歩で十五分。こじんまりとした、しかしグルメ界隈ではそれなりに名のあるイタリア料理店、リストランテ・ヴェリタ。そこが俺のバイト先だった。担当はホールスタッフである。


「すいませーん」

 賑わう店内で、一名様が手を挙げる。

 窓際のテーブル席、身綺麗にした二十代くらいの女性だ。

 俺はメモ帳を取り出して、席へと向かった。


「お決まりでしょうか」

「うん、お願い。カリカリきのこのサラダと、カラスミクリームのパスタ。あと、飲み物は……」


 女性客の指定した品々を、メモ帳へ記入。しながら俺は、安堵あんどした。

 白神のことはいまでも頭の片隅にある。だがいまのところ、仕事に支障は出さずにすんでいた。へんてこなミスをしたら色々と面目が立たない。そんな適度な緊張感が、俺に憂鬱ゆううつを忘れさせていた。


 バイト前は規則で身だしなみをチェックするのだが、そのときは正直不安だった。鏡に映る自分が憔悴しょうすいしきっているように見えたからである。連日の寝不足で目の下にはクマができ、姿勢もなんとなく猫背。これ気合い入れたくらいでどうにかなるのかとも思ったが、人間いざ実戦となれば無理が利くもの。店内は薄暗いからクマはバレないし、体を動かすうちに気持ちも多少前向きになってきた。


「――以上でよろしかったでしょうか?」

「ええ、お願いね」


 注文内容を繰り返して、問題なかったので、俺は席を離れようとする。


 ……と、その時俺は、女性客の髪の毛――後頭部の辺りに目を止めた。怪訝な顔をする俺に気づいたのか、「ああ、これ?」と女性客が後頭部に手を当てる。


 いわゆるシニョン風にまとめられたその髪には、シュシュやバレッタの代わりに、ヘンテコなアクセサリーが付いていた。


「ちょっと変わってるでしょ?」

「ええ、まあ……ユニークな形ですね」

「よく言われるわ。でも大事な人からもらったものだから、なるべくつけておきたくてね。年齢的にも本当は恥ずかしいんだけど……」

「はぁ、なるほど?」

 年齢に関わらずめちゃめちゃ目立つアイテムだと思うし、これを贈り物にした『大事な人』とやらのセンスを疑うが……まあ、ファッションは人それぞれ。俺が知らないだけで有名なブランド品なのかもしれない。

 女性客の髪をぐわしと掴む形でぶらさがる、すごくリアルな実物大の、男性のものと思わしき右こぶしに目をやりながら、俺は苦笑いを浮かべた。


「では、お料理が出来上がるまでお待ちください」

「ありがと。楽しみにしてるわ」


 そんな会話をして、俺は席を離れた。注文メモを厨房に渡して、待機。料理が出来上がったらそれを盆に載せ、女性客の元へ持っていく。キノコのサラダ、パスタ、白ワイン。綺麗に提供できた。問題なし。

 女性が食事し始めたのを尻目に、俺は定位置へ戻り、他の客が注文する気配がないかと辺りを見渡す。……と、そんな折。


「平桐」

 背後から長身の男に声をかけられた。店長の大江山おおえやまさんである。気さくだが、締めるところは締める人だ。この人が親父と知り合いだったお陰で、俺はツテを使って社会勉強をさせてもらっている立場になる。大江山さんは出入り口の方向を指さした。


「これから予約客来るけど、予約内容、目ぇ通したか?」

 おっと、しまった。

「すぐ見ておきます」

「ん、頼んだからな。ぼーっとしてんなよ」

 そう言うと大江山さんは厨房ちゅうぼうに戻っていく。危ない危ない。予約客についての情報は、いつもなら出勤時に確認している。やはりどこか本調子ではないらしい。


 レジに行って、ボードの予約票を確認する。今日は男女のペアが一組。コース料理を注文しているから、食事のスピードによっては料理のタイミングを調節してもらう必要がある。えーと、女の方は十七歳。高校生か。だとするとペアリングはノンアルコールだな。名前は――


 ……は?


 俺はガッ、と予約ボードを掴んで、目を剥いた。


白神叶奈しらかみかなな


 確かにそこには『白神叶奈』と書いてある。おい待て、どういうことだ? これは本当に『あの白神』のことか? だが白神なんて苗字他で聞いたことがない。だとしたらこの相手、黒部仁――くろべ、じん……だろうか? こいつはいったい何者だ。年齢は二十四歳とある。大学四年。今年で卒業か……? なんか似たような話を、どこかで耳にしたような――


 ぴしゃーん、と。

 雷に打たれたような衝撃が俺を貫く。


 つまり――お見合い!

 白神が話していた、歳の離れた男とのお見合いは!

 今日、これから行われるのだ!

 このリストランテ・ヴェリタで!


 ちりんちりん。


 店の出入り口に吊るされたドアベルが鳴る。

 俺が視線を向けると、そこには――ドレス姿の白神がいた。


 溢れる知性の中に、少しだけ悪戯っぽさが香る表情。生真面目さを象徴するような大きな眼鏡と、重力が具現化したかのような、つやめく長い黒髪。その身を包む清楚な青いドレス。そこから伸びるたおやかな白い手脚。


 俺の命の恩人。尊敬し、信頼する友人にして、俺の現在進行形の片恋相手。

 白神叶奈が、ドアガラスを押し開けて、店内に入ってくるところだった。

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