第3話

終業後、後片付けをしていると、

「戸田主任、だいじょーぶ?元気?」

と後ろから声がした。

陽気な声の持ち主は、この三上産婦人科クリニックの副院長、照子先生だ。

このクリニックは夫婦でやっていて、院長が旦那さんで産婦人科医の芳仁先生、副院長が内科医で婦人内科を診ている奥さんの照子先生である。

不思議と人の感情を察知して、拾ってくれる。

「もう、看護主任じゃないですよ。大学病院は辞めたんだから。」

「じゃ、きまじめ戸田さんって呼ぼうか?」

「やめてくださいよー」

どちらの呼び名も、大学病院時代の私の呼び名。

新人の頃は、きまじめ戸田さん。きまじめで馬鹿正直で融通の効かない、新人看護師戸田さん。

そこから14年と年月ばかりが過ぎていって、空いたポストに最後に収まったのが主任。

照子先生も同じ内科病棟で勤務していて、今度旦那とクリニック開くから戸田さんも来てと誘われた。

今まで、昼夜を問わず常勤でバリバリ働いてきて疲れていたから、しっかり働く気はしばらくないというと、非常勤でいいから来てくれないと雇ってくれたのが、照子先生だ。

「戸田ちゃん、抱え込むからなあ〜。潰れないでよろしく頼むよ〜」

と冗談ぽく言われる。

それでも、本気で心配されていることは、ニュアンスでわかる。

「潰れませんって。ありがとうございます」

照子先生は休憩室でお中元のお菓子をつまみながら、私の方にもお菓子を置く。

「明日ね、午後から学校の参観日があるから行かなくちゃならないの。午後から内科予約枠切ってあるからよろしくね。風邪くらいなら院長に振っちゃって大丈夫だから。カルテ上手く回しちゃって」

「参観日ってどちらのお子さんですか?」

「んー、凍ってたほう」

「あ、新くんですか」

三上夫妻には小学生のお子さんが二人おり、下のお子さんは照子先生が32歳の時の卵子を冷凍保存して、36歳の頃に受精卵をお腹に戻して出産した正真正銘、三上夫妻の子供である。

卵子冷凍保存は保管にすごく経費がかかると聞くが、どうしていたのかくわしくは私も知らない。

照子先生が新くん本人の目の前で、この子は東京で生まれたのよと同じようなニュアンスで、凍ってから生まれたのよと当たり前のように話す。

新くん本人も、僕凍ってたんだよねーと嬉しそうに話す。だから、初めはびっくりした私も、そうなんだねーと自然と相づちを打つようになっていた。

凍ってたって、凍ってなくたって、新くんは夜な夜なクリニックに顔をのぞかせるやんちゃな三上家の長男だ。

休憩室には彼のおもちゃと、学習帳、おやつがいつも転がっている。

それを軽く片付けながら照子先生が、

「じゃ、帰りましょうか」

と言った。


ひんやりした冬の空気は澄んでいて、飲んべぇ戸田さんの私はコンビニのビールを片手に鼻歌を歌う。

照子先生が心を軽くしてくれたおかげで、今夜の晩酌は美味しい。

ふと、蒼ちゃんの家に明かりが漏れているのに気づいた。

複数の人影が動いている。

蒼ちゃんはバンドをしている。男女混ざったバンドメンバーで、時々蒼ちゃんの部屋は盛り上がりを見せている。

今夜はお邪魔するのはやめようっと。

午前中に作り置きしたスペアリブのことだけを考えて、マンションのエントランスへ入った。

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