38.もしも変えることができるなら

 更紗の目標を実行する。そのための最低条件が更紗のパフォーマンス云々の前に一つだけある。

 それは、文化祭に来てもらうことだ。

 祐奈に関しては伝えた時点で返事が貰えた。もちろん肯定的な返事で、『花蓮にも言っとくね』という言葉と共に快諾されたのだ。尤も、更紗を文化祭に参加させるという根本的な部分には心底不服そうではあったが。

 俺は端からこの二人に関しては心配していない。更紗のことが大好きなことは、俺にだって伝わってくるから。

 問題があるのは、俺も更紗も最も心配しているところ。更紗の母親だ。

 その問題を解決するために、俺は更紗の家までやってきた。

 インターホンを鳴らす。更紗によると、大抵は家にいるとの事だ。

 しばらく待って、もう一度。数回繰り返す。


「出ない……」


 そもそも、俺は顔が割れている。当然ながら祐奈たちも無駄だ。

 朱音と彩月に関しては更紗と話し合ってこれ以上は頼らないことにしているし、そもそもこれは更紗の家庭事情なので、本来なら俺も関わってはいけない。

 今回だって、本当は更紗にやらせるつもりだった。連れてこようとしたらベッドにへばりついて動かなくなったから俺一人で来ただけなのだ。

 しばらく灼熱に照らされながらインターホンを押し続ける。

 一時間が経つか経たないか。それくらいの時間が経ってようやく家の扉が開いた。


「うるさい。近所迷惑とか考えては?」

「それはすいません。どうも」

「……どうも」

「少し、話をさせてもらってもいいですか?」

「それより、更紗は元気なの」

「元気ですよ。今までよりもずっと」

「……そう」


 意外な言葉だった。真っ先に更紗の心配をするとは思っていなかったから。

 態度は以前よりも不機嫌そうだ。それは俺がインターホンを鳴らし続けたからか、あるいは隣に更紗の姿が見えないからか。後者だと思っておくことにした。


「とりあえず入りなさい。暑いでしょう」

「あ、ああ。ありがとうございます」

「どうせ言いたいことがあるのよね。手短に頼める?」

「もちろんです」


 招かれた部屋は、以前更紗を帰すときにも来たリビング。柔らかい内装には静かなインテリアが少しだけ置かれている、寂しい印象の部屋だ。


「適当に座りなさい」

「はい」

「それで?」

「文化祭に来てもらえませんか?」

「……はぁ?」


 やはり、そう上手くはいかないらしい。

 だが、どうやら以前とは状況は違うらしい。


「どういうこと」

「更紗は今、たった一人で頑張ってます。あなたに、母親に認めさせるために」

「それで、文化祭と?」

「はい」

「……あの子、馬鹿なの?」

「いえ、成績優秀な方ですけど」

「あなたも馬鹿?」


 意外と遠慮がない人だ。もちろんわかっていて言っているが、馬鹿馬鹿言われると多少は傷つく。

 でも、同時に俺の印象は少しだけ崩れたような気がする。表情もついさっきまでと比べれば幾分柔らかくなったような気がする。もちろん、気を許したわけではないだろうが。


「馬鹿よ」

「はい?」

「あの子も、あなたも。どうして理解できないの? どうして、立ち直らせてしまったの?」

「どうして……?」

「アイドルなんて、そんな繊細なものをするべきじゃなかった。ほんの少しほかよりも顔が可愛くて、ほんの少し声がいい。たったそれだけの理由で、そんなものになるべきじゃなかったのよ。だから、あの子は笑えなくなった。アイドルがようやくできなくなった」

「……なら、最初から止めればよかったじゃないですか」

「止められると思う? 娘が友達と本気でやりたいことを見つけて、きらきらした笑顔を向けて。母親にそれが、止められると思うの?」

「それは……」


 同じだった。祐奈と一緒に決めた結論を破ってしまった俺と、何一つ変わらなかった。それが更紗を思うが故のことだということも、容易に想像できてしまった。

 この人は、俺や祐奈たちよりもずっと前から、更紗のことをちゃんと愛していたのだ。ただそれを表現するのが下手なだけ。たったそれだけの小さな理由が、この親子に溝を作ってしまった。


「馬鹿はどっちですか」

「そんなことを言うのなら娘は嫁にやらないけれど」

「くださる予定だったんですね」

「……あの子がそう望んでいるのだから」

「まあ、そうかもしれませんね」

「あなたは間違いなく馬鹿ね」

「どうして……」

「あんなにあなたを慕っているのに、どうしてそう他人事にしてしまえるのかしらね。本当に、こんな男の何がいいのか謎ね」

「そこまで言わなくてもよくないですか……?」


 いくら何でも凹む。


「自己評価は低いし近所の迷惑は考えられないし。人の母親に対しての態度は悪いし、よく見てみれば身嗜みも酷い。そういう人たちを否定したくはないのだけれど、でも中学生からアイドルオタクとしてアリシアにお金を使い続けていたというのも頂けないわ」

「どうして知ってるんですかっ!?」

「そのときはまだ更紗とは話していたのよ」

「なるほど……」


 となれば、その頃はまだアリシアはそれほど有名ではなかったのだろう。話を聞くに、仲が拗れだしたのはおそらく事務所に所属してからだ。

 それからもいくつか俺の悪口が出てきた。推測はなく、的確に的を射ている。


「悪いところだらけですね」

「そうね」

「ひとつくらい良いところが出てくるものかと待っていたんですけど」

「……そうね、せっかくだから教えてあげてもいいわ」

「えっ」

「アリシアを、アイドルとしての更紗アリスを、恋人としての更紗を愛せることかしらね」

「……それに関しては、自分でも自信がありますよ」

「ふふっ、そうでしょうね」


 そのとき、初めて笑ってくれた。

 娘の輝くようなきらきらとした笑顔ではなく、柔らかく微笑んだだけの笑顔。

 それでも、少しは俺を認めてくれたらしい。


「少しだけ待っていてもらえる?」

「えっ、ああ、はい。構いませんが」

「ありがとう。ただ待っていてもらうのも退屈だから、昔の話でもしましょうか」

「昔の話?」

「といっても数年前ね。有栖川更紗という女の子がアイドルになる前の話。あの子はよく笑い、友達の多い子だったわ」


 そんな昔話をしながら、更紗の母はオーブンから何かを取り出している。クッキーだった。


「いつの間にかあの子は別の学校の子達とも仲良くなっていたわ。阿澄さんとか、椎名さんとかいう名前だった」

「……ただの仲良しだったんですよね」

「何の話かしら」

「そうですね」


 これはあくまで自分の娘の話をしているに過ぎない。


「そんなただの女の子だった子がいたのよね」

「今だって、ただの女の子ですよ」

「……そうね」


 クッキーを袋に詰めて、綺麗にラッピングを済ませる。そしてふたつに分けた袋を俺に渡してきた。


「片方は更紗に、片方はあなたよ。更紗が好きだったの」

「えっ、俺にもですか?」

「今日の非礼の詫びと、信頼の証といったところかしらね。あとは、これからも更紗を見てもらう手間賃、かしら」

「それは、何も無くても見させてもらいますけど」

「そう」


 クスリと笑みを浮かべた。


「更紗には、私の言っていたことは伝えないでおいて」

「ご自分で伝えるんですか?」

「ええ。その文化祭を見てから、ね」

「……そうですか」


 もう心配はいらないだろう。このふたりに溝なんてものは最初からなかったのだから。ただの想いのすれ違いに過ぎなかったのだから。

 だから、今の俺にできることはもうない。


「お話、長くなってすいません」

「長引かせたのは私よ、気にしないで。ほら、そろそろ更紗が寂しがっている頃でしょう。帰ってあげて」

「はい」


 頂いたクッキーを帰りにひとつだけ食べてみた。特別な味ではないし、素朴で家庭的なクッキーだったけれど、どうしてかとても美味しく感じた。

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