37.もう大丈夫だから

「あっつ……」


 エアコンをつけてもいない事にようやく気がつく。おかげでベッドは汗やら血やらでベタベタになってしまった。


「服着るにも暑すぎるんだけど」

「平常心のためにできれば早く着て欲しいんだけどな」

「それはこっちの台詞なんだけど」

「無理だな、暑い」


 互いに暑いと言い合いながらも、腕の中で縮こまったまま更紗は動こうとしない。体温を共有する形になるので余計に暑い。

 身長は小さいくせに平均的にはある胸が押し付けられて、どうにも落ち着かない。


「暑いね」

「そうだな」

「エアコン、つけよっか」

「そうだな」


 手を伸ばしてエアコンのリモコンを取り、ボタンを押す。静かに起動したエアコンは、服を着ていない人にはやや寒いような風を送ってくる。


「寒いな」

「そうだね」

「服、着るぞ」

「そうしよっか」


 腕の中から脱出した更紗は、脱ぎ捨てた服や下着を回収する。飛び散った液体が若干付着していたらしく、少しだけ不快そうな表情に見える。


「大丈夫か?」

「ああ、うん。大丈夫。ちょっとベタついてて」

「それは洗濯に出してこい」

「……臭い、ついてるけど」

「…………後で洗っとく」


 あの両親のことだ。こういうことをしたとバレたら言及されるのは目に見えているし、兄さんには本気でバレたくない。

 着替えを取り出して、更紗はもう一度着ていた服を着直す。


「やっぱりシャワー浴びてからにする」

「そっか」

「あと、下着とか洗われるのは恥ずかしいから自分で洗う」

「それは是非ともそうしてくれ」


 こちらとしても理性が危うい。

 一人になった部屋で服を着て、ベッドのシーツを変えたりその他の後の処理を終わらせる。

 そうしてようやくスマホが通知のライトを光らせていることに気づく。


「……あー……」


 メッセージの相手は兄さんだった。内容は『母さんたちを連れて外に行っとくから、終わったら連絡してくれ』とのことだった。気を遣わせてしまったらしい。

 とりあえずメッセージを入れて、更紗が戻ってくるのを待つ。身体がベタベタして気持ち悪い。


「俺も入ればよかったかな……」


 そんなことを考えていると、更紗が戻ってきた。


「ただいま。あ、変えてくれたんだ。ありがと」

「勝手は俺の方がわかってるからな」

「ん、そっか」

「……とりあえずリビング行くか」

「そだね」


 いつもはくくっている髪の毛はまだ湿っていて、いつもとは違う魅力がある。


「ドライヤーは?」

「ああ、うん。ちょっと面倒で」

「痛むぞ?」

「……祐介がそう言うなら」


 ぱたぱたとドライヤーを取りに行って、戻ってきた更紗は俺にドライヤーを押し付けてソファーに座る。

 受け取ったドライヤーの更紗の髪に当てる。サラサラの指通りのいい髪だ。


「痒かったら言え」

「うん。ありがとね、今日はわがままいっぱい聞いてくれて」

「今日だけだぞ」

「それはわがまま聞くのが? それとも……えっちするのが?」

「……どっちもだ」


 そもそもそれは同義だ。そもそも、後者に関しては軽々しくしてはいけないことだ。まして更紗のような強くても繊細な子なら尚更だろう。


「……なんかね、思うんだ」

「なにを」

「こんなに傍にいても、一緒にいても。いや、だからなのかな。まだ私は祐介のことをわかってないんじゃないのかって。祐介はもしかしたら、私のことをわかってくれてないんじゃないかなって。だから、怖くなったのかなって」

「そっか」

「結局今もわかんないんだけどね、そんなの」


 更紗が欲しかった答えは、たった数ヶ月の月日や一度の行為でわかるくらいのものではないだろう。そもそもそんなことでこんなに難しいクイズがわかれば、更紗と彼女の母親はこんなに溝が深くなってはいないだろう。


「正直に言うけどな」

「うん」

「俺は多分、お前のことを少しもわかってない。わかろうとしてもわからなかったし、変なやつだと思うことも多い。そもそも俺はファンで、更紗はアイドルだ」

「そ、だね。うん」

「でも、だからこそ俺は更紗の隣にいたい。泣かせたくないし、一人にしたくない。というか、一人にはさせない。わからなくてもいいんだ。分かり合えたと思えたら多分、それで十分」


 わからないことしかないのだ。更紗のことだけじゃない。朱音のことも彩月のことも、肉親である兄さんのことすらもわからない。


「じゃあ、思ってることは言葉にしてみる。今」

「おう」

「ちょっと心配しすぎ。過保護なお兄ちゃんみたいなことになってるから。あと手を繋ぐとき離したくないからってちょっと強くしすぎ。そんなに心配しなくてもどこも行かないから。それとたまに褒めすぎ」

「そうだな、気をつける」

「あとは、そうだね。私がアリスのとしてあげたものとか残しすぎ。要らないものは捨てないと」

「それは無理」

「なんでぇ……」


 推しからもらったものを捨てろという方がなんでだ。こればかりは更紗に言われても聞いてやることは出来ない。

 ドライヤーを止めて、兄さんが用意してくれた食卓につく。皿の準備なんかをしたのは兄さんだろうが、料理をしたのは母さんらしく、盛り付け方が少し奇妙だ。懐かしい食卓に、新しい家族がいる。


「じゃあ次は俺の番だな」

「うん」

「寝るときの寝息が可愛すぎる。わざとやってるか疑うくらい可愛い。あと寝ぼけながら俺の名前言うのも可愛い」

「ちょっとまって」

「手、繋ぐときもめちゃくちゃ慎重だし、距離感迷ってるのとかほんとに愛らしさすらあるし、あとさっき気づいたけど声抑え……」

「それ以上はアウトだから!」

「……声抑えきれて……」

「しつこい! やめて!」

「ごめん。でも可愛かったぞ」

「うるさい。せめて文句にしてよ」


 別に元から文句を言う話ではなかった。思っていることをちゃんと言うという話だったからちゃんと言っただけだ。


「はぁ……やっぱり、褒めすぎ」

「思ってること言っただけだ」

「そういうところ、直した方がいいよ」

「どういうところだよ……」

「さあね。ねぇ、思ってることついでにもう一つだけお願いがあるの」

「わがままを聞くのはさっきで最後だったけど」

「……お願い。お願いを聞いてほしいのが、お願い」

「わかった」

「文化祭のライブ、呼びたい人が3人いるんだ」

「祐奈と椎名さん、それで最後は……」

「うん、お母さん」


 答えがわかってしまうのが辛かった。それでも、更紗の決断は否定する気にはなれなかった。


「祐奈と花蓮には、成長したよって見せてあげないと駄目かなって。心配かけたまま終わらせるのは駄目だから」

「そっか」

「お母さんは、私を認めさせるため」


 認めさせる。認めてもらうではなく、自分の力を見せるというわけでもなく、ただ認めさせると言った。

 それがどれだけ大変なことかは、実際のところわからない。ステージに立つ恐怖も、母親に拒絶される苦痛もわからないからだ。

 でも、それが更紗の望みであり、目標なのだろう。だから俺は協力するだけだ。


「正直、めちゃくちゃ厳しい話だと思う」

「そうだな、限りなく不可能に近い」

「うん。でも、私たちならできないわけじゃない」

「そう信じるしかないな」


 頑張るのは更紗だけじゃない。

 俺も、少しは支えになれるように頑張らないといけないんだ。

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