33.今ここで笑える理由

「あの、またお世話になります」

「これまた急に。どうしたの?」

「いろいろとありまして……」

「そっか。まあ僕はなんでもいいよ。祐がちゃんと面倒見てくれるならそれで」

「面倒見る歳じゃないと思うけどな」


 更紗の顔が涙やらなにやらでぐちゃぐちゃだったので電車を使わずに連れてきた。先程の浮かない表情はもう見えない。大丈夫と言い切るのはまだ早いかもしれないが、少なくともいつもの引き攣った笑顔は取り戻すことができた。

 更紗はふいに笑えるときがある。そのトリガーはまだわからないけど、それを見つけるためにもより長い時間そばにいるのは好都合だと思う。別に、俺がただ更紗の傍にいたいというわけではない。

 俺が部屋に向かうと、慣れた様子を見せながらもぴったりと引っ付いてくる。


「そんなに引っ付かれると歩きにくいんだけど」

「知ってる。ほら、他人の家だし、勝手とかあるでしょ。ね?」

「一ヶ月近くうちで過ごしてた奴が言うことじゃない」


 それでも離れてくれないので、肩と膝に手を回して抱えあげる。


「……は!?」

「この方が歩きやすい」

「えっ、いや、あの……お姫様抱っこですか……」


 照れられても、残念ながら俺はそれも考慮してやっているのでなんとも思わない。照れてる更紗が可愛いなと思うくらいだ。あといい匂いがする。


「そういえば、母さんたち帰ってくるから」

「……私、帰った方がよくない?」

「なんでまた」

「だって私、ただの部外者だし。せっかく久しぶりに帰ってきてくれるなら家族水入らずの方がいいでしょ」

「寂しいこと言うなよ」


 まるで自分は家族の和には入れないように言う。


「少なくとも俺は、お前のことを彼女……だと思ってる」

「……そ……か。なら、うん、おっけ」


 照れながら、柔らかくはにかむ。俺や祐奈たちでなくともわかる、れっきとした笑みだ。

 その笑みが心地よくて、俺はつい本音をこぼしてしまった。


「可愛いな」

「……なんか変なものでも食べたでしょ」

「食べてない」

「まさか祐介じゃない?」

「アリシアファンクラブ会員番号000002番石間祐介だ。一番が良かったんだけどな」

「わ、私のファンクラブなら一番だから!」

「実質一番だな、ありがとう」


 そんな会話をできるくらいには、更紗も自分を取り戻してきたらしい。

 部屋に入り、更紗をベッドの上に降ろす。華奢な体は俺の布団に沈みこんでいく。


「鍵に余りが無いから、必要なら俺に言ってくれ。寝泊まりはまたここでしてもらうことになるけど、大丈夫か?」

「うん、ありがと。大丈夫だよ……あれ」


 なにかに気づいたように起き上がり、俺の方を見て慌てたように言った。


「祐介はどこで寝てたの?」

「リビングにあるソファー」

「身体痛めるよ!?」

「別に構わない」

「よくないって。祐介がここ使いなよ」

「それだけは嫌だ」

「なんでそこ頑なに譲ってくれないの……客用の布団とかないの?」

「あるにはあるけど、探すのがめんどくさい」

「一緒に探すから」


 半ば強制的に部屋から連れ出された俺は、それからしばらく布団を探すことになった。結局すぐに見つかったが。






 夕飯の準備を俺だけにさせるわけにはいかないと、更紗だけでなく兄さんまで手伝ってくれた。今日は更紗の分も含めて五人分の準備が必要なので、手伝ってくれること自体はありがたい。もちろん、気持ちだけだが。

 これは、ほんの数分前のこと。


「更紗はキャベツ切ってくれるか? 兄さんは俺の方来て」

「わかった、やってみる」

「……やってみる?」

「うん」


 その言葉が何故か俺の不安を煽ったが、なにかとなんでもできる更紗だから任さることにした。が、それがいけなかった。


「あう」


 任せた5秒後、なんとも心情がわからない表情でよくわからない悲鳴をあげた更紗は、神妙な面持ちで自分の人差し指を見つめていた。

 そこに視線をやると、血が滴り落ちてしまうほどの出血。一瞬思考が停止するほど静かに、更紗は包丁を置いた。


「……痛い」

「だろうな!? ちょっとしみるだろうけど手洗え!」

「うん」

「悪い兄さん、絆創膏取ってくる」

「はいはい」

「更紗、痛……くないわけないよな。どんくらい切った?」

「えっと……ちょっとだけだよ」

「そっか、ならよかった……は?」


 『ちょっとだけ』と言いつつ更紗が見せてきた指は、相当深く切れていた。以前泊まっていた時は客人として軽い手伝いしかさせていなかったから、ここまで更紗が料理をできないというのは想定外すぎた。


「ちょっと痛いね」

「これがちょっと……?」

「えっ、これ結構やばい?」

「だいぶ深く切れてる。一応聞くけど、我慢とかしてないよな?」

「してないしてない。切った瞬間はちょっと泣きそうになったけど、なんかそんなに深くないなーって思って。深いんだ、これ。そっか」


 微妙に嬉しそうににこにことしている更紗の指に、ため息をつきながら俺は絆創膏を貼る。


「次からは『あう』じゃなくてもうちょっと盛大に助けを求めてくれ」

「助けてぇ……?」

「……それは、無理かも」


 あまりにも可愛すぎる助けの求め方をされると、それはそれで思考停止してしまいそうだ。そもそももう更紗をキッチンに入れることはないだろうが。


「母さんたちが帰ってくるまで大人しくしててくれ」

「わかった。もう料理はしません」

「そうしてくれると俺としても助かる」

「……一応、潰したり焼いたりはできるからね? モンブランとか作れるからね?」

「それはまた別の機会に楽しみにしてるよ」

「あ……うん。楽しみにしてて」


 若干照れた様子の更紗をソファーに座らせて、俺は夕飯の準備に戻ることにした。

 そして、今に至る。

 料理はできたが、やっぱりなにもしないということに落ち着かないらしく更紗はせっせと皿を並べてくれた。


「母さんたち、もうすぐ帰ってくるってさ。祐と有栖川さえ良ければ、待ってもいいかな?」

「もちろんです。あ、ならいろいろ整えてくる」

「整える?」

「お世話になるのに適当な格好でご挨拶は駄目だから」

「うちはそういうの気にしないと思うけど……まあいっか」


 それを言ったところで、おそらく更紗は納得してくれないので黙っておく。


「ちょっと明るくなったかな」

「そうか? さっきまで泣いてたんだけどな……」

「そういえば何があったんだ?」

「それはどこからの話だ?」

「そうだな……じゃあまず、どうやって付き合ったんだ? あ、まだ付き合って……」

「観覧車で告白した。わりと勢いだけど」

「……成長したなぁ……」

「それは置いといて。今日の更紗のことはあとであいつが寝たときにでも母さんたちに話すつもりだから、出来れば兄さんも聞いて欲しい」

「わかった。そう言ってる間に帰ってきたみたいだね」

「荷物も多そうだし、行くか。更紗は……後でいいか」


 あいつのことだから、手を怪我していても手伝うと言って聞かないだろう。それなら呼ばない方がいい。というか、両親も事情を知らずに女の子を泊めるとなるとさすがに驚くかもしれないのだ。


「ただいまー」

「おかえり。荷物持つよ」

「はーい、ありがとー」


 相変わらず緩い雰囲気な母、夏希なつきは、抱えていた荷物を兄さんに分け、自分の同じくらいの量を持って家に入る。


「お父さんも結構荷物あるから、祐介はそっちを貰ってあげてくれる?」

「わかった。あー、あと。ちょっと話がある」

「靴がひとつ多い事の話かなー?」

「……相変わらず、こういうときは鋭いな」


 にやにやしながら言うので、関係には気づいているのだろう。

 父さんの荷物を受け取ろうと外に出ると、ちょうど車のトランクから荷物を出しているところだった。


「おお、祐。ちょっとでかくなったか?」

「それいつも言ってる。もうそんなに伸びないから」

「そうかそうか。悪い、持ってもらっていいか?」

「おう」


 陽気な父と、緩い母と。

 この二人からどうして俺と兄さんが生まれてこれたのかは甚だ疑問だが、その性格だったこともあり趣味に関しては寛容だったことはありがたい話だった。それどころか、別にアイドルに興味もなかったはずなのにここがいいあそこがいいとアリスたちを褒めてくれたのは純粋に嬉しかった。


「祐」

「ん?」

「明るくなったな」

「……そう、だな。心配かけて悪かった」


 やはり、家族なんだなと思う。

 長い間合わなかったとしても、きっと両親は俺や兄さんのことを考えていてくれたはずだ。それが嬉しくて、ほんの少しだけ申し訳ない。

 家に入り、リビングへ向かう。いつの間にか更紗も戻ってきていたらしく、必死に事情を説明していた。

 が、母さんはなかなか聞く耳を持とうとはしない。しかし厄介なことになる様子もない。


「もう可愛いこの子! ちっちゃくて可愛い!」

「あの……えぇ……」

「おい母さん」

「ああ、戻ったの。なに?」

「なにって……」


 とりあえず更紗を暴走気味な母から引き剥がす。事情を説明するにも落ち着いてもらう必要がある。


「なんか賑やかだな……って、お? あんたは確か…………思い出せん。歳だな、記憶力が低下してる」

「あの、有栖川更紗です。アイドルの、アリシアってので活動してました」

「おお、そうだ、アリスちゃんだ。祐の好きな子だよな! 生で見ても可愛い子だなぁ!」

「……更紗、飲んでなくても酔っ払いみたいな人たちだから、面倒だったらほっといていいぞ」

「ううん、ちょっと楽しいな、こういう雰囲気。三澤先輩とか三上といるときと似てて、好き」

「そっか」


 この家族に馴染むことが出来そうだということ。朱音たちは信頼していること。それがわかったことが少し嬉しくて、少し悔しい気がした。

 守ってやりたいと、改めて思った。


「それでそれで? この子は祐介の彼女? あーそんなわけないかー、祐介友達少ないからねー?」

「あ、えっと……彼女……です」

「……えっ、まじ?」

「マジです。ちゃんと、付き合ってる……はずです」

「断言しろよ」

「付き合って欲しい的なこと言われてないから、不安になった」

「……さっきちゃんと言ったろ」

「うん、そうだね」


 にこにこと楽しげに笑う更紗を見て、兄さんはにやりと口元を歪める。


「そっかそっか、付き合ったのか……僕も聞いてないんだけど?」

「あ、すみません……いろいろ手伝ってもらったのに」

「え、あ、真面目に謝られてもそれはそれで……」

「俺の更紗は正直なんだよ」

「所有物じゃないんだけど……」


 といいつつも照れたような顔をされると、対応に困る。今回に関しては非は全面的に俺にあるのでなんとも言えないが。


「まあ、更紗の話は後でするから。とりあえず夕飯食おう」


 その提案に反対はなかった。






「……それじゃあ、おやすみ」

「おう」


 21時を過ぎた頃、唐突に更紗が眠気に襲われた。どうしても俺をベッドにしたいらしく若干駄々をこねるようにしていたが、それでも眠気には勝てなかったようで俺が無理やりベッドに寝かせて終わった。

 リビングへ戻ると、母さんたちはすっかり泥酔していた。


「話があるって言ってたんだけどな……」

「とりあえず僕は聞いとくよ。あの子、また急にどうして」

「実はな……」


 それから兄さんに事情を話した。途中から酔いつぶれていた両親も話を聞き始めて、なぜか泣いていた。

 兄さんだけは、ただ悔しそうな表情をしていた。


「そう……そうなのね……頑張ったのねあの子……」

「だからどうしてほしいっていう話じゃないんだ。ただ、あいつがちょっとでも笑えるようにしてやってほしい」

「おう、そういうことなら任せとけ。アリスちゃんももう家族だろ」

「そうそう。祐介がお嫁さんにもらってくれたら万事解決よ」

「……寝る。おやすみ」


 茶化しているのか、それとも本気なのか、いまいちわからない発言。それでも更紗のことを心配しているのは事実ならしい。


「ちゃんと傍にいてあげなさいよ?」

「当たり前だ」


 部屋に戻る前に兄さんに引き止められてしまい、そのまま更紗が寝ている俺の部屋ではなく、兄さんの部屋に連れていかれた。


「あの子、大丈夫なのか?」

「大丈夫って、なにが」

「母親のことも、アイドルじゃなくなってからのあの子自身も」

「大丈夫なわけないだろ。だから連れてきたんだ」

「僕にできることはないか?」

「ただ、見守ってあげてほしい。俺なんかじゃ足りないところを、兄さんたちが埋めてやってほしい。それだけだな」

「……そうか。わかった」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」


 自室に戻りながら、ちゃんと間違っていなかったことを再認識。同時に、これまでちゃんと助けてやれなかったことが悔しくなる。

 更紗はなかなか弱い部分を見せてはくれない。それが大きなものになって初めて彼女の中で感情になる。だからきっと、明日にでもまた文化祭の練習をしようとするのだろう。一度できないと言ってもまた、それよりも前にやり遂げると自分で決めてしまったから。

 部屋に戻ると、更紗はちゃんとベッドで寝ていた。泣いたり泊まる準備をしたりして、やはり疲れていたらしい。


「お疲れ様」


 そう言いながら頭を撫でてやると、少しだけ表情が明るくなった気がした。

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