第9話 犬伏家のカレーなる食卓(後編)

 キッチンの中はカレーの匂いで充満していた。


 より一層強くなった香辛料の香りがガツンと俺の食欲を刺激してくる。


 めちゃくちゃ美味そうな匂いだった。流石はカレーの匂い、匂いだけならハズレなし。


 どうやら空腹は最大の調味料という格言は間違いじゃなかったみたいだ。


「ひににー。今日のカレーはあたしの中でも一二を争うほどの出来栄えだから期待していいわよ?」


 食卓に食器を並べながらそんなことをドヤ顔で言う日向子。やっぱりカレーだったのか。


 あの様子だと少なくとも『いつぞやの時』みたいな玉ねぎの焦げとかにんじんの生煮えなどの失敗は無さそうだ。


 日向子の性格上、たとえ自分が作った物でも不味いものは不味いとハッキリ言うから味は期待しても良いのかもしれない。


「一二を争うつっても日向子の作ったやつだとあんまし期待できねーな」

「あっ、健司郎は食べなくていいから。つーかなんでここにいるの? あたしへの嫌がらせ?」

「……主に家族だから居るんだけどな」


 ケンちゃんのぼやきにガブリと噛みつく日向子。家でも狂犬ぶりは現在なのか。怖い。ケンちゃんちょっと泣いちゃってるじゃん。


「ふん。失礼な、あたしの料理スキルは日々進化してるんだからね」


 日向子の頬がむすーっと膨れる。相変わらず自尊心プライドだけは高い様だ。


「突っ立ってないで健司郎も食器並べてよ」

「はいはい分かったよ」

「ほんと、健司郎は使えないなー。あっ、利苑はお客だから手伝いしなくていいからね。先に座って待ってて」


 椅子に座る俺と妹に悪態を吐かれて渋々と食器を運ぶケンちゃん。俺とケンちゃんの扱いの差が露骨に出ていた。


「助けて利苑。日向子がオレのことイジメるっ」

「大丈夫だよケンちゃん。俺がついているから」

「利苑……」


 ケンちゃんの目には薄っすらと涙がにじんでいた。


「はぁー、なんで利苑は健司郎のことかばうんだろ。意味わかんない」


 プリプリとご機嫌斜めな様子の日向子を見ると「不味い、何かフォロー入れないと」と思ってしまう。


「……まぁ、おにぎり食べた感じだと、着実に上達してると思うけどな」


 俺がそう言うと日向子の耳がピクリと動いた。


「でしょでしょ!!?」


 俺のフォローに対して食いつきの良い反応を見せる日向子。日向子が魚だったら間違いなく入れ食い状態だった。


「やっぱ分かる人には分かるのよねー。あたしの地道な努力ってやつが」


 うんうんと頷く日向子の顔はどこか嬉しそうに見えた。


「にひひー。やっぱ利苑は話が分かる男よねー♪」

「…………話じゃなくて味じゃないのか?」

「どっちもだから大丈夫よ」

「そうか?」


 何が大丈夫なんだろ。よく分からん。


「ふーんふーん。今夜のご飯はカレーカレーカレー♪」


 配膳の準備をしながらにぱーっと屈託のない笑顔を浮かべる日向子。相変わらず表情がサイコロの目みたいにコロコロ変わる女だと思った。


 どうやら、機嫌だけは直ったようだ。

 俺は内心でホッと安堵のため息を漏らす。

 やっぱ日向子の考えてることはいまいち分からん。

 女心と秋の空は変わりやすいって言うからな。いや、今は春なんだけどさ。


 そうこう考えている間に食器の配膳が終わり他の二人も席についた。


 ケンちゃんが隣、日向子が正面のいつもの座席順。


 学校とは違うシチュエーションのせいか目の前にいる日向子の柔肌がとても眩しく見えた。


 エプロンを脱ぐと日向子のたわわな胸元が強調され、さらにテーブルの上にそれが乗るもんだから、正面に座っていると目のやり場に困る。


 ただの部屋着のはずなのに、薄地(ちょっと透けてる)のせいか妙な色っぽさをかもし出していた。

 俺の視線がチラチラと日向子の鎖骨と谷間を往復する。首まわりと胸元が大胆に開いたVネックのシャツだった。


「…………」


 ゴクリ、と無意識下で喉が鳴った。

「…………っ!?」


 俺は一体、何に対して生唾なまつばを飲んだのだろう。

 というか、胸元から黒いブラがちょっと見えてんじゃん。胸元には気を付けろって昨日言っただろ。

 そう思ったけど。

 口に出すと場の空気を濁すと思ったのでここでは黙っておく。

 なんか気不味い。早くカレー来てくれ。


「お母さーん、利苑のやつは『アレ』だからね」


 キッチンに向かって何か指示を出す日向子。

 アレって何? なんか怖いんだけど!?


「はいはい。今そっちに運ぶから」


 昔聞いた話だと犬伏婦人は自分の旦那と共に食卓を囲むのが流儀らしく、親父さん不在の今回の席でも給仕係にてっする様だった。


「はーい。お待たせ利苑くん」


 ズドン!


 そんな効果音が聞こえそうな勢いで大皿に盛られたカレーが俺の眼前に給仕サーブされた。


「…………っ!?」


 俺はあまりの迫力に言葉を詰まらせる。


「こ、これは!?」


 眼前にあるそれはただのカレーライスではなかった。


「……ライスが熊の形になってる?」


 そう皿の上に乗っていたのは世間でいう『デコカレー』と呼ばれる代物だった。


 白熊をモチーフにした丸型のライスには海苔やチーズで作った顔のパーツが添えられていて、中央のカレールーからは胴体と手足が出ている様に見える。全体図を見るとカレーの風呂に浸かっている白熊という感じの構図なんだと思う。


 それに添え物のゆで卵にも細工が施されていて、まるで生まれたてのヒヨコを連想させる様な手の込んだ造形だった。


 唐揚げやカラフルな温野菜もあり、いかにもSNS映えしそうな可愛らしい感じの出来だった。

 

 俺が女子だったら間違いなくイン◯タにあげて「マジヤバーイ」とか呟くレベルの『映え』だった。


「ふふーん。凄いでしょ?」


 今日一番のドヤ顔を見せる日向子。同意を求められたからには男として何かしらのコメントを言わないと駄目なんだろう。


「ああ。なんか可愛いなこれ」

「で、でしょ? か、可愛いよね……」

「…………??」


 何故そこで日向子がモジモジするんだ? もしかして照れてるのか?


 まぁ、実際のところ日向子が作ったデコカレーは感心するほどのクオリティだった。

 このデコカレーからは高い女子力がひしひしと伝わってくる。

 思わず「日向子もこんな女の子らしい物作れるようになったんだ」と感心してしまう。

 見た目に関しては文句の付け所は無い。


 ただ一つだけ、気になることがあるとすれば──。


「……ところで。これ、何人前あるんだ?」

「何人前? うーん。ご飯は六合分くらい盛ったかな?」

「……六合、だと?」


 たしか米の六合って炊くと2キロ相当になるはずじゃ?


 いや、それくらいはあるよな。だってこのカレーどう見ても一人分の量じゃないもん。


 こういう物量のデカ盛りカレーはテレビ番組のチャレンジグルメ企画でしか見たことがない。


 腹は減ってるけどこの量は間違いなく食い切れない。


 いや待て。これ、俺が一人で食うんじゃなくて三人でシェアするパターンかな?


「ごっそさん」


 カチャリ、と食器を片付けて席を立つケンちゃん。


「……あれ? ケンちゃんもう食べたの?」


 食べてる瞬間どころか「いただきます」すら聞いてないんだけど?


「……知ってるか利苑。京都ではお茶漬けを出されたら『早く帰れ』って意味らしいぞ」

「…………お茶漬け? なんの話?」

「まぁ、要は空気読めってこった」

「…………??」


 去り際に「お前はゆっくりしていけよ」と俺に一声かけるケンちゃん。その目は心なしかすさんでいる様に見えた。


 気がつけばキッチンには俺と日向子の二人しかいなかった。

 あれ? 犬伏婦人はどこ行った?


「なーにキョロキョロしてんの。小さい子じゃないんだからご飯に集中してよ」

「あっはい」


 飯に集中とか、ここは意識高い系のラーメン屋か。

 日向子にキャンキャン吠えられると面倒だし、ここは素直に従うか。


「……いただきます」

「はいどーぞ」


 俺はスプーンを持ってデカ盛りデコカレーと向き合う。

 うん、やっぱデケーわこれ。ライスから謎の威圧感出てるし。


「…………」


 というか、日向子のヤツはカレー食べないのか?


 デカ盛りデコカレーを挟んで日向子がやたらと俺を凝視しているのはなんでだろう。


 食い辛い。なんか見られると恥ずかしいな。

 ジーっと固唾かたずを飲んで見守ってるけど何かあるのか?

 視線を感じると飯食えねーよ。


「……えーと日向子、ちょっといいか?」

「ん? なーに?」

「一人じゃ食べきれないから……このカレーを共有シェアしないか?」


 俺はなんとかしてこの気まずい状況を抜け出すために苦肉の策を決行する。

 日向子もカレーを食べれば視線がれると思った。

 だけど。


「あっ、大丈夫。あたし今お腹いっぱいだから」


 返ってきたのは予想外の返事だった。


「は? お前が飯食う前から腹いっぱいとか嘘だろ。明日は空から雪でも降るんじゃねーの?」

「……殴ってあげようか?」


 日向子の目がすわっていた。あれはガチの目だと直感で理解した。


「そ、それともどこか具合でも悪いとか?」

「もーっ、あたしの事はいいから。早くカレー食べてよ!」

「はい。分かりました」


 押し問答に痺れを切らした日向子にピシャリと叱られ、俺は脊髄反射の如くカレーを口に運ぶ。


 モグモグと咀嚼そしゃくしてゴクリと大きな一口分のカレーを飲み込むと素直な感想が口かられた。


「……これ、マジでお前が作ったのか?」

「失礼な! 正真正銘あたしの手作りなんだからね!」


 怒り心頭なのか日向子はグワっと牙をむいた。


「てゆーか女子の手料理食べて最初に言うことがそれなの!? もっと他に言うことあるでしょ!? ねえ!?」

「いや、だって」

「だって……って何!? こっちは真剣に一生懸命作ったんだからね!?」

「いや、この前よりめちゃくちゃ美味いからビックリしたんだよ。この一年で何があったんだってレベルで上達してるから」

「……っ!?」


 シュンっと日向子の尻尾(髪の毛だよな?)が垂れ下がった。

 吠え散らかしていた狂犬が急に大人しくなった瞬間だった。


「……ごめん。またあたし先走って勘違いしてた」

「…………」


 何を今更、と思った。


「気にすんな。いつものことだろ」

 こういうやり取りマジで日常茶飯事だし。

「そうだけど……ううっ……」

 視線が下に落ちる日向子。パッと見でも落ち込んでいるのが分かった。

 はいフォロー入ります。


「カレー美味いな」

「……美味しい?」

「ああ。一二を争うのも納得の味だ。すげー美味い」

「……そっか。ありがと」


 まぁ、カレーが美味いのは本心だし。

 俺はカレーを食べながら率直に思ったことを口に出した。


「なんで今日はカレーなんだ?」

「ん? んーなんとなくカレーの気分だったから」

「そうか。じゃあカレーの気分だから一生懸命作ったのか?」

「……それは違うけど」

  

 しばらく沈黙が続いてから日向子はポツリと呟く。


「……なんか、料理下手だって思われたくないじゃん」


 それは誰に対しての見栄張りなのだろう。

 年頃の女子だから見栄を張ったのだろうか。よく分からんけど乙女心は複雑なんだな。


「料理に目覚めたとかじゃなくて?」

「それもあるけど。一番はちゃんと美味しく食べて貰いたいって思ったから」

「なんだ、将来は料理人シェフでも目指すのか?」

「じゃなくて」

「カレー屋?」

「あーもー違うって」

 

 なんだかじれったい様子の日向子。その顔はほんのりと赤みがさしていた。


「どっかの誰かさんが美味しくなくても残さず食べるから……だから、今度は頑張ろうって思っただけ」

「…………」


 やっぱり、まだそのことを気にしてだんだな。

 夏の終夜観測で出たカレーはお世辞にも美味いとは言えなかったから。

 ほんと、不器用のくせに真っ直ぐだな。


「……そうか。変わってんなお前」

「利苑には言われたくない」


 そこから他愛のない雑談を交えてカレーを半分まで食べ進めると、満腹感がズシリと胃に重くのし掛かった。

 ……なんか重い。


「……そろそろギブして良い?」

「ほう、せっかく一生懸命作った女の子の手料理を残すと?」

「いや、爺ちゃん婆ちゃんに「食い物を粗末にしたら駄目だよ」って言われて育ってるから。それはない」

「じゃあ、食べれるよね?」

 ニッコリスマイルの日向子。完全に俺をカレーで殺しに来ていた。


お持ち帰りテイクアウトとかは?」

「入れ物ないから却下」

「せめて休憩とらせてくれ」

「制限時間まで残りあと五分」

「そのチャレンジいつから始まってたの?」

「利苑のーカッコイイとこ見てみたいっ」

「大学生のイッキコールやめろ」


 日向子の唐突なボケに突っ込みを入れつつ満腹感で鈍ったスプーンをせっせと動かしてライスの山を崩していく。

 というか、カレールーにやたらハート型のニンジンが入ってるな。

 ライスの中に隠してあったハンバーグもハート型だったし、何か意味でもあるのか?

 カレーは美味いけどチーズと唐揚げの油が地味にキツい。

 このカレーなんか重い。悪ノリでデカ盛りの真似しなくても良かっただろうに。


「もう食べられない?」

 なんの最終確認かは知らないがそんな事を訊いてくる日向子。


「ああ、美味いけど。流石に全部は無理だ。もう食えない」

「そっかー。もう食べられないんだ」

「ああ、悪いけど残りは何とかして持ち帰──」

「じゃあ、勿体ないから残りは“あたしが食べる“ね」

「……は?」

 今こいつなんて言った?


「えっと、なんて?」

「あっ、それかあたしが利苑に『あーん』で食べさせるのもありね。ねえ、利苑どっちが良い?」


 なんか日向子が思い付きでとんでもない事言い出した。

 どっちが良いかって? どっちも嫌に決まってんだろ。


「アホかそんな恥ずかしい真似できるわけないだろ」

「恥ずかしいんだ?」


 ずいっと前に乗り出して俺の顔を覗き込む日向子。その顔はいつものいじわる猫みたいなニヤケ面だった。


「あたしは別に気にしないけど。そっか、利苑は気にするんだ。へー」

「…………」


 俺には分かる。これは俺をからかって遊んでるだけだ。

 日向子の遊びに律儀に付き合っていたのも中学生まで。高校生になった今は無理してまで付き合う義理もない。


「はっ。勝手にしろ」


 いじりに付き合わなければ飽きてすぐやめるだろ。


「分かった……あむ。んー、おいし。やっぱ今回のカレーは一味違うわー」

「何してんのお前!?」

 

 思わず変な声が出てしまった。

 なんのためらいもなく人のスプーンで残りのカレーをパクリと食べる日向子の行動に俺は驚嘆きょうたんした。

 日向子のやつ、俺とかっ、間接、間接キ……はぁ。


「……俺のことからかって楽しいか?」

「んー? まぁまぁ楽しい」


 昔から日向子という人間は俺を玩具にして遊ぶのが好きだった。悪戯好きの気質があるせいか、過去にもこういう事が度々あった。

 前例をあげるなら、部活の帰りに飲みかけのスポーツドリンクを渡してきたりとか。いや、中身入ってなかったんだけど。


 残したカレーをパクパク食べる日向子を見て俺はハッと気付いた。


 ああ、なるほど。これがケンちゃんの言っていた『安上がりで効果的なサプライズ』ってやつか。


 確かに安上がりだけど他に方法なかったのかな。主に俺が犠牲にならない方法のやつ。

 なんだかなぁ。


「……お前、俺の食べ残し食うのに抵抗とかないの?」

「んー? べつに。むしろ料理残す方が嫌かなー」

「そうかよ。俺はいいけど、そういう行動は相手によって勘違いするから気を付けろよ」

「はいはーい」


 あと胸元のガードの緩さもな。まぁ、それは眼福だからこの場では言わないけど。


「ふぅ、ごちそーさま」


 ものの数分でカレーを平らげる日向子。実に気持ちの良い食いっぷりだ。お腹いっぱいって発言はやっぱり嘘だったんだな。

 きっと将来はフードファイターにでもなるんだろうな。


「ねえ、利苑」


 食事を終えて食器を洗っている時に、テレビを見ている日向子は視線を変えずにこう言った。


「あたし、相手はちゃんと選んでるから。心配しなくていいよ」


 別に心配はしてねーよ、とは言えなかった。


「そうか。犠牲者が増えなくてそれはそれで残念だ」

「はぁ? 犠牲者って何? ちょっと外に出なさいよ。あたし昨日ぶりにキレたんだけど!?」

「あぶな。こっちにクッション投げんな」

「大丈夫よ。絶対に怪我だけはさせないから! えい!」

「何一つ大丈夫じゃねーよ」


 食器洗いを終えて、犬伏婦人とケンちゃんに別れの挨拶を済ませ玄関に向かう。


「またね利苑。今日はありがと」

「ああ。ごちそうさん。またな」


 その「またね」と「ありがとう」はどういう意味だったのだろうか。


 帰りの道中で物思いにふけても答えは見つからなかったけど。


 ただ一つだけ分かることがあるとすれば──。


「……やっぱ日向子はめんどくせーわ」


 それだけは、自信を持って断言できる。

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